So-net無料ブログ作成
検索選択
前の18件 | -

選挙について〜2016年参院選と都知事選〜 [社会]

参院選について

新聞は選挙直前になって急に『改憲勢力3分の2』という見出しが目につくようになった。
マスコミは、改憲については選挙の争点にのせないようにしているアベ政権の後押しをしているのか、と思えた。
選挙の前日にNHKでは、選挙での各党首の戦いを紹介する番組を流していたが、
何気なくNHKを見て、なんでアベ首相の宣伝番組をやっているのか!!と仰天した。
あわてて新聞の番組欄を見たら、各党首の選挙戦を紹介するというものだったが、あれはどう見ても政府の公報番組だった。
アベ首相のあとに紹介された他の党首については、いかにも「こんな風に戦っています」というただの紹介にすぎなかったが、アベ首相の扱い方は他の党首とはまったく異なりドラマチックに出来上がっていて、アベ首相を取り囲んで笑顔で談笑する若者たちの顔などが印象的に映し出され、日本が今直面している厳しい現実をあまり知らない(感じていない)人が見たら、一番力がありそうで安心して政治をまかせられそう、と思ったに違いない。
制作者は誰?

こういうメデイアに取り囲まれて私たちは日々過ごしているわけだ。
時代が変わり、ただ「平和主義」を振りかざしているだけでは危ないですよ、という宣伝。
これからも、もっともっと経済は発展して安心できますよ、という宣伝。
健康食品や健康器具を売るのと同じ感覚で、国策も宣伝され、効き目があるのかどうかわからなくても取りあえず宣伝される方向へ人はなびいていく。

それに加えて、「改憲」という言葉にも「3分の2」という言葉にもまったく関心を持たない人たちもいる。
今の生活や自分の未来について何の不安もない、ということはある意味で幸せな状態とも言える。こういう人たちのことこそ「平和ぼけ」というのだろうと思う。
大人でも、「『基本的人権』って何か知らない」という人がいてびっくりすることもあるが、自分の関心がないことはいくらニュースで取り上げられようと耳を素通りしていく、という経験は誰にでもある。
私はスポーツに関してはほとんど素通りで、なでしこジャパンて何のチームだったっけ、バレーボール?ソフトボール?という記憶力だし、
芸能に関しては、物まね番組を見てなにかおもしろそうなことをやっているな、とは思っても、物まねしている人の名前も知らなければ、物まねされている当人の顔も名前も知らない、というおんちぶり。

だから「基本的人権」も「立憲主義」も知らない人がいても当たり前なのだと思うようになった。最低限「民主主義」という言葉ならわかりやすくて誰でも知っているのではないかと思うのだが。

選挙当日の夜8時からの開票速報からは目が離せなかった。
結果はテレビや新聞で予想されていた通りのもので意外性はなかったけれど、興味深い点もあった。
私の住む地域は3人区で自民党と民進党が当選を決め、残る一議席を公明党と共産党が最後まで接戦していた。5000票差で共産党が負けた。
いつも熱心に共産党の応援で電話がけをしている知人のKさんが、今回は「民進党か共産党のどちらかにぜひ票を入れて下さい」とお願いしたそうだ。「あなた一人ぐらい共産党をよろしく、と売り込んでいれば共産党も勝てたかもしれないのに」と言うと笑っていた。

私の実家の地域は一人区で激戦区の一つと言われ、3回もアベ首相が訪問したという。
結果は野党統一候補が勝った。
あっちにもどって住むのもいいな、と思った。

今回の参院選で思ったこと、
全体としては「改憲勢力3分の2」かもしれないが、地域によって違いがあり、国全体が一つの方向にひきずられている、というのではないな、ということ。
地域ごとに頑張れるところは力を合わせて頑張る道もある、と思った。
オール与党みたいな都道府県には近寄りたくないです、私は・・。



参院選の後の知事選について

もちろん野党共闘して勝ってほしいけれど、本当は都知事選は私にはそれほどの大きな意味はない。
降ってわいたような都知事選だし、焦点、争点がはっきりしない。
保育や介護の問題はどの候補者も唱えることで、オリンピックはもうやると決められていて、何かが大きく変わるということはなさそうだ。

都知事にやってほしいと私が思っていることを一つだけあげると、それは「教育に自治の力を取り戻す」ということだ。
石原知事によってずたずたにされ(と、私は感じているが)、すっかり萎縮してしまった教育現場(教育)に本来の力を戻してほしいと思う。今は学校現場はどうなっているのだろう。職員会議では発言してはならない、採決はしない、などというウソみたいな通達が都教育委員会から出たという話、あれはその後どうなったのだろう。

こういうことができないなら都知事は誰がなってもたいして変わりはないような気がしている。政治家が誠実に真面目に職務を行うというのは最低限のことであって、それ以上のことではないと思う。

立候補者を選ぶ段階で野党も与党もごたごたもたつきがあったが、立候補というのは本人だけがするものではなく必ず取り巻きがいてスタートするものだからごたごたも仕方がない。
私もある市長選のお手伝いをしたことがあるけれど、同じ候補者を支えているというつながりはあっても、10人いれば10の意見があり、それも様々な意見があって良いなどというきれい事ではすまないような大きな違いだったりする。支持者の意見を取り入れながら方向を決めていくのは本当に難しいだろうと思う。

参院選が終わってちょっと淋しくなったのはSEALDsが解散したこと。
ツイッターでフォローしていたのが、パタッとなくなってしまったので淋しい。
国会前にデモ集会に行ったときは、SEALDsの若者たちはとても光っていて、人混みにヘトヘトの私などはずいぶん元気づけられた。
マスコミが過剰に持ち上げるから、いろいろなところで厭がらせを受けたようで本当に気の毒だった。「出る杭は打たれる」という表現を使う人もいるが、SEALDsは、どこにも出過ぎてはおらず、砂の中に輝いている砂が混じっている、という風に私には感じられた。




nice!(3)  コメント(2) 

カルガモの子育て [環境・自然]

一年で、ご近所さんが一番仲良くなれる時期。

今年も家の近くの小さなため池でカモの子育てが始まった。
池の中に小さな浮島(直径1メートルぐらい)があり、毎年、その草の中でヒナが孵る。
時期は昨年と全く同じ。

IMG_7901.JPGIMG_7891.JPG

抱卵は25日ぐらいというが、その間(浮島の巣は道路のすぐ近くにあるというのに)、カモがいることにはまったく気づかなかった。
注意して見てもカモがいるようには見えず、今年はカモは巣作りをしなかったのだとあきらめていたら、まるで降ってわいたように、突然10羽のヒナが母がもと池をすいすい泳いでいるのを見た。

カモの雛は最初は10羽くらいいるが、日を追うごとに、ヒナの数は減っていき全滅してしまう。
陸地に巣がある場合はカラスや猫にやられるらしいが、ここでは泳いでいるときに、池に住みついているライギョやカメにたべられてしまう。
魚やカメがヒナを追い回している光景をよく目にする。
それが昨年は10年ぶり(だそうだ)に2羽生き延びた。

今年も初めて見かけたときのヒナの数は10羽。
それが少しずつ減って4月29日に6羽になった。
昨年の日記を見たらやはり4月29日に6羽確認と書いてあった。

この池のカモの行動はどうもよくわからないことが多い。
親の回りにヒナがくっついて泳いでいることもあるが、ヒナだけでそれぞればらばらな方向に動いていることもある。朝にそういうことが多い。
このとき親は池の反対側で羽づくろいをしていたりする。
そうしてしばらくすると、また、親が心配そうにヒナの近く来て見守っている。
母ガモの背に登ろうとしているヒナがいて、これは母ガモに振り落とされていた。
夕方4時頃にヒナは巣の回りに集まって寝る準備をする。
IMG_8013.jpg


カルガモの生態を調べたけれどあまり詳しいのはない。
カルガモは住む環境がいろいろなため、生態の個体差が大きいせいだろうか。


ヒナが生まれると池の回りを散歩する人が増える。
みな池をのぞきこみ、同じように池を眺めている人と自然に会話が始まる。
「いましたか?」「6羽いましたよ。」「昨日は8羽だったんですけどね・・。」という具合に。

とてもシンプルな会話なのだけれど知らない人同士が話をするのはこの時期だけ。
子育てが終わりカモがいなくなると、また、みな黙りこくってすれちがうようになる。

IMG_7986.JPG

IMG_7988.jpg

ヒナがあまりに可愛らしいので、ヒナが減っていくということに胸を痛める人が多い。それが自然の摂理、とわかっていても、「すぐに食べられてしまうのなら生まれてこなければよかったのに・・」とつい思ってしまう。

今年は、連休明けまで生き残るヒナはいるだろうか。
ある程度成長するともう魚やカメにはやられない。

昨年、2羽のヒナが成長すると親はいなくなったが、夕方になると戻って来て、ヒナを促すように水面すれすれを飛び、その親を追って、成長した2羽のヒナが羽をばたつかせながら水面をすごい勢いで走る姿が観察できた。
飛行機の滑走のような飛ぶ練習は何日間か続き、それを見るのはとても面白かった。

今年は時々、母ガモの他に数羽の成長したカモが一緒にいることがあったが、多分、去年巣立った2羽もその中にいるのだろう。


nice!(0)  コメント(0) 

新年に 〜2016年1月4日〜 [雑感]

新年の幕開けは厳しい・・。
ツイッターを見ていたら、目を疑うようなツイートがあった。

初詣に行った神社に、憲法改正賛成ののぼりが立っていたり、賛成署名用紙が置いてあったりした、というツイートだった。

これはあまりにもひどい新年の幕開けだ。ひどすぎる。
多くの人が集まる初詣の人に向けて、憲法改正反対の署名活動をする市民団体がいるのはわかるが、
神社そのものが、境内に「改正賛成のぼり」を立てたり、社務所に「賛成署名」が置いてあったら、大問題ではないか。
大問題などという生やさしい言葉では言い表せない。本当にショックだ。


なぜここまでひどくなってしまったのか、数年前までは「九条を守ろう」という運動を冷ややかに、あるいは無関心に見ていただけだった人が、公然と「愛国心(と呼べばいいのか)」をむき出しにして行動し始めた気がする。

前々回のブログにもかいたけれど、「教育基本法改悪」の影響がここまで大きく世の中を動かしたのだと思う。「公共の精神」「我が国と郷土を愛する態度」が、新・教育基本法の目標の中に入れられることによって、与党の後押しをする人たちは全くの勘違いをした。
「公共」とは「与党政府が目指す社会」のことであり、「我が国と郷土」とは、「与党政府が支配する国と郷土」という風に。

だから公民館などで、憲法の学習会というと公民館を貸さないようにしたり、憲法9条という言葉が入った俳句を排除しようとしたり、公務員(特に教員)に「君が代・起立斉唱」を監視してまで強要したり、ということが平気で行われるようになった。
「公共」「我が国」というのは与党政府が握っているもので、下々はそれを敬い、その下僕としてふるまうのが当然と思っているようだ。

神社はこうなると「神」を祀る場ではなく、与党政府の掲げる『神のようなもの』を祀る場になったのかもしれない。もっとも神社とて営業しているわけだから、地元の議員からたくさん寄進があったりすれば、そういう人たちの喜ぶようなことをするだろう。それでも以前は、そこまであからさまなことはしなかった。完全にたががはずれてしまっている。
もちろん立派な神社は多く、「憲法改正賛同署名」を置いておくような神社は少数であることを願うが。


一方、『赤旗』には長野市の善光寺の白蓮坊住職の言葉が紹介されていた。

{「これまで自民党支持だったが」と切り出したのは、善光寺白蓮坊の若麻績住職。「戦時中、仏教界は戦争に反対するどころか荷担し、内外で多くの命が奪われた。仏教精神に反する。命を大事にする政治を」と戦争法(安保法)反対の意思を表した。}

善光寺はがんばっている。
IMG_7332.jpg善光寺
北京オリンピックのときにも善光寺が長野での聖火リレーの出発点に決定していたが、チベット問題に対する抗議表明で、出発点になることを返上した。

いろいろな立場の人が、いろいろな場面で「政治的中立」という態度で済まそうとするが、戦争が推し進められようとしているまさにその時に、「中立である」ということの意味は一体何だろう。
戦争に関しては、反対するか賛成するかのどちらかの選択肢しかない。真ん中のどっちつかずという立場はあり得ない。
戦争には反対である、という事をなぜ堂々と言えないか。言わないのは賛成だということだ。

社会では、仕事上や付き合い上で、政治についての話題は避けてしまう傾向が強い。
かくいう私も政治に関しては人を選んで話しをしている。
そうしないと、回りじゅうが私の敵だと感じてしまうことになり、いろいろめんどうくさい。自分と考え方(特に戦争、平和、人権などに関して)が違う人間とは付き合いたくない。

私は友人があまりいないことをそう残念だとは思わない。(思わないようにしているといってもいいが。)ともかく、安保法案に賛成するような人と仲良くすることに何の意味があるか、と思っている。

そうは言っても生活していく上では考えの違う人ともある程度の付き合いが必要なこともある。自分の政治についての考えは隠して他の所で(つまりたわいのないことで)話を合わせるようにしている。

でも、もうそんな悠長なことを言っている時期ではなくなったのかも知れない。
むしろ積極的に話題にしていく必要がある時になったのかもしれない。
といっても普通の市民がやれることは、署名活動やデモや集会に参加することしかなく、回りの人間に議論を持ちかけても嫌がられるだけで思うようにはいかないのである。

(週末に善光寺に初詣に行こうと思う。)

nice!(3)  コメント(4) 

2015年の終わりに思うこと [教育]

毎年のことだけれど、年の瀬というのはどうも気持ちが落ち着かない。
子供の頃はそうではなかった。暮れの大掃除や正月に向けて買い物したり料理したりの手伝いなど、わくわくしたものだった。
大人になってからはだめになった。

世相が悪化しているのに、ニュース全般が、一年をまとめて一応の区切りをつけようとする雰囲気になるのが嫌なのだ。「問題は残されている」という締めくくり方も一辺倒で気に入らない。
「残されている」のではなく、今まさにその渦中にいるのだから。

それは正月も同じ・・。
状況も変わらず希望もないのに、さあ、新しい年だ、気持ちを新たにがんばろう、という雰囲気が強制的にテレビニュースなどで流れる。
「新しい気持ちでがんばる」とか「今年こそこういう年にしたい」「希望を持とう」とかいう言葉を聞くのがけっこう虚しくてつらい。
絶望の中にいるからこそ『希望』という言葉も出てくるのだろうけど、『絶望的状況』は『希望』という言葉で緩和されるわけではない。

2015年のまとめとして、今どういう絶望的状況にあるかを書いておこうと思う。

3・11あたりから日本の社会は以前にも増して住みにくくなってきた感じがする。
原発事故の処理ができずにそのままになっているから、常にのどに堅い物が突き刺さっている感じが消えない。処理などできないのだから半永久的にこのままいくしかないのだ。
そのつらさに加え、特定秘密保護法の施行、マイナンバー制度の施行、安保法案の強行採決、沖縄辺野古基地移設反対への暴力的圧力、などなど・・、重要かつ悪質な法案や行使がどんどん推し進められている。
その根底にあるのは「立憲主義」「民主主義」というものの軽視であることがいよいよはっきりしてきた。

なぜ「立憲主義」や「民主主義」がこんなに軽視されるようになったのか?軽視する政府を依然として支持する人達がいるのはなぜか?いつも大きな疑問だった。

国全体のあり方、進むべき方向、という大事な問題を、反対の声が大きく上がっているにもかかわらず、議員の数の力だけで強硬に決めてしまうことが、いかに独裁的で大変な事であるか、誰にだってわかるはずだ、と思った。
住民の反対があるにもかかわらず沖縄だけに基地を押しつけて平然としていることがいかに異常なことか、テロをくいとめるためにテロリストがいると思われる地域を空爆するなどということがいかに人道にはずれているか、国の最高法規である憲法を軽視し無視することがいかに重要な意味をもつことであるか・・誰にだってわかることだと思っていた。

それなのにまだ政府与党を支持する人がいるということが不思議でならなかったが・・。

ようやく最近になって、「立憲主義」や「民主主義」を声高に唱えること人たちのことをあまりよく思わない人がいるのだということに気がついてきた。
ネットなどで誹謗、中傷、悪意のある言葉をまき散らすことを趣味にしているような人達は抜きにして、社会的にも安定した地位と生活があり、一般的な常識や教養を持っているような人達で、「民主主義なんて」と思っている人がけっこういるのだということに気がつき始めた。
決して政府がしていることを知らないのではなく積極的に賛同している人達。
(もちろん新聞報道などとは無縁で、政治に関心を持てず何が起きているか知らないという人も多いだろうけれど)
おそらく「民主主義は基本」と考える人間とは、思考回路が違うのだろう。

社会の3分の1くらいの人は、平和は大切と言いながらも、
原発事故は不幸なことであり事故の被害にあった地域は気の毒ではあるけれど、国の経済のためには今後も原発が必要となるのはいたしかたない、と考える。
沖縄県は基地が多くて大変だとは思うけど、現実問題として抑止力のために沖縄に基地を置くのが最善であり他に移設するのは現実的ではない。と考える。
戦争になるのは困るので集団的自衛権には賛成できないけれど、これですぐに戦争になるというわけではないだろうし、景気安定のために政府にはこれからも力を注いでもらわなければならない・・と、こんな風に考えているのだろう。

格差拡大の問題? 確かにあまりに格差が広がって貧困問題が大きくなるのはまずいので、今よりも景気が上向き、その上で貧困問題もうまく解決されればそれが一番いい、と考えるのだろう。

とにかく何よりも今の安定した生活を手放さないですむことが最優先だという考えが根強いのだ。

最近よく思うのは、資本主義という仕組みの限界(欠陥点)ゆえに「格差」が広がってしまったのではなく、「格差を拡大すること」によって資本主義が発展してきたのではないか、ということ。
誰かの犠牲の上に、誰かが得をする。
こう考えるとアベ政権がいまだに一定の支持を持っていることが納得できる。

多勢に無勢だから、何事も思うようにはいかない。
これが今の現実だということを肝に銘じておこうと思っている。

2015年は何かにたいして、自分の意見をまとめて記録しようという気持ちがほとんど湧いてこなかった。重要な社会問題があっても、考え込んでいるうちにもう次の問題が起きてしまい、またそのことを考えなければならなかった。
そのくり返しで(無力感が強くなり)あっという間に一年が過ぎてしまったような気がする。
また来年もそういう調子で過ぎていくのだろう。

重苦しいことばかりの一年だったが、SEALDsなど若者の活動に元気づけられもした。
彼らの活動を見るのは楽しく、安保法案反対集会が明るくなった。
絶望的状況でもあまりくよくよせず、悲観的な気分にとらわれないように、自分のすべきことをしていこうと思っている。



nice!(3)  コメント(4) 

教育基本法改定から9年〜12月の憂鬱〜 [教育]

寒い季節は苦手で(暑いのもだめだが)、少し鬱気味になる方だけれど、この10年ほどは、11月末から12月にかけてその傾向がかなり強く現れるようになった。

それは9年前の12月15日に現場の教員の強い反対にもかかわらず、第一次安倍政権によって「新・教育基本法」が参院本会議で成立(自民・公明が賛成。民主党、共産党、社民党、国民新党などが反対)、してしまった事を思い出すからである。
寒い中、おろおろと暗い国会前の反対集会に通っていたことが体感として残っている。
(12月は教員は2学期の成績処理などに追われている時期だ。)

「新教育基本法」は見たくない代物で、戦争の反省に基づいて、できる限りの民主的な(人間、児童や学生を大切にしようという考えに基づいた)、選び抜かれた言葉で書かれたそれまでの「戦後の教育基本法」とは似ても似つかないものになってしまった。

教育に深く関わっていた人でなければ、その落差の大きさ(私に言わせれば180度の転換)には気がつかないかもしれない。
法案決定に至るまで、やらせタウンミーティングなど数々の問題が浮上して世間の目にもその異常さは明らかにはされていたものの、安保法案強行採決と同じように、独裁的な採決となった。

9年前、「もう日本の教育はこれで終わりだな」という思いを持った学校関係者は多かったと思う。
その後は、第一次安倍内閣は頓挫したものの、教育の改悪はどんどん進められ、まず公立の小学校、中学校、高校、ついには大学まで公立私立を問わず、めったぎりである。

法が変わったからといって、教員が変わるわけではないから、これまでの「戦後の教育基本法の精神」も受け継がれてはいただろうけれど、年を経て教員の世代交代が進むにつれ、じわじわと「新・教育基本法のねらい」は教育現場にしみ込んで来ているはずだと思う。
教育関係者以外にそれは決して伝わらない。

「戦後教育基本法」は、『教育の独立性(時の政治や国家権力に左右されないこと)』を明確に現していた法で、「新・教育基本法」は、国家権力の下に置かれ、時の政権を支えることを目的にしている。
だから、国家権力の側に立つ政治家、財界人、彼らのやり方を支持する人々には、都合がいい。
まさに「政治は教育から」である。

こうして、教育、学問は政治の道具となり、「敬意」を全く払われなくなった。
こんなに悲しいことがあるだろうか。
本来、学問の場、人間形成の場は、権力とは離れた立ち位置にあって孤高の世界を持つべきだ。
人間は、経済のために存在するのではなく、人間社会の存続のために、経済力も少しは必要、というものだと思う。
完全に本末転倒している。

教育基本法の改定、安保法案強行採決、沖縄基地の辺野古移設への執着、原発事故への無反省、貧困層の拡大・・これがすべて今の政権が推し進めていることだ。

人間性を何よりも重視しようとしていた「戦後の教育基本法」は、もう忘れ去られてしまうのだろうか。


nice!(4)  コメント(6) 

参院特別委〜安保法案強行採決に思う〜 [社会]

数の力で押し切られることは当然の予想だったけど、その予想は別としても、総括質疑をなくし、いきなり抜き打ちの採決(あれが採決と呼べるものなら)という、目を疑う酷いものだった。何が起こったのかわからないくらいの卑怯なやり方で。
話し合いをする気などハナからないのだけれど、話し合いをするふりすらしなかった。
せっかくの公聴会での討論もユーチューブで見るしかなかった。

参院特別委員会では、民主党の福山哲郎が必死で鴻池委員長不信任の動議理由を述べた。討論は力強く、これまでの国会での論議を総括した感じでわかりやすく、誠意が感じられものだった。
共産党の井上哲士議員は公聴会での公述人の言葉を引用し、この強行採決がいかに理不尽かを説明した。山本太郎議員も福島みずほ議員もがんばっていた。
福島みずほ議員がいつものおっとりした口調で要点を咬み下すように語っていると、そばでなんとなくテレビを見ていた7才の女の子が「この人いいこと言うよね。」(こどもにもわかるんだ、瑞穂さんの言葉は・・!)
強行採決の直前の鴻池委員長不信任動議の野党の討論が落ち着いて聞くことができただけでもましだったかもしれない。

この日、NHKでこれほど長時間参院特別委の様子や国会前の様子を流していたのは、もう決まりだから流してOKということだったのだろうか?
安保法案についてのニュースはこれまで本当に少なかった。
ユーチューブを日常的に見る人の数なんて、若い人はいざしらず、中年以上は圧倒的に少ない。情報はテレビと新聞だけという人が多いのだ。

鴻池委員長はあれを、「強行採決だとは思わない。10党のうち5党は賛成したのだから。質疑も100時間を超えて充分やり尽くした」と。
質疑応答が充分かどうかは、時間ではかられるののではない。
討論はどれだけ時間をかけたかだけではなく、どれだけ議論が深まっていったかという「質」が問題だ。話のかみ合わない(多数派にかみ合わせる気がない)議論を1000時間続けたとしても何にもならない、実は結ばないだろう。

強行採決して、自民党議員が「気持ちよかったなあ」と言ったとか、民主党の蓮ほう議員がツイートしていたけれど、与党議員はほとんどそう感じたことだろう。

法案を通そうとしている与党は、国民が集会やデモで反対表明をするのが(すればするほど)気にくわなくて仕方がなかっただろう。その国民の声を力に野党ががんばっているのも気にくわなくて仕方なかっただろう。
強行採決で「決まり」となれば、ザマアミロという気持ちになったとしても驚かない。
それでも「こんか決め方でいいのだろうか」と思った人も与党議員の中にはいたのだろうか?

自民党は「普通の国」という言葉を好んで使うけれど、「普通」に考えれば国会での与党の答弁は「恥知らず」の一語につきた。

「恥知らず」とは、答弁をころころ変えること、
質問に答えられなくても平然とピント外れの答えをしてすませること、
国民のために働いているという姿勢が失われていること、
「国民のため」という言葉を政策を通すためだけに利用すること、
選挙では国民にぺこぺこし、デモや集会に国民が参加して声をあげると軽蔑し無視すること、
選挙で勝つことしか考えていないこと・・

国会前の
「勝手に決めるな!」「国民なめんな!」のコール。
『ナメんな』という言葉は嫌な言葉だと今まで思っていたが、今回ほど『ナメるな』という言葉がしっくりくる状況はないと感じた。
本当に、本当に「国民なめるな!」だった。
国民のものである憲法を無視するとは、国民に対する最大の愚弄だ。

なぜ「集団的自衛権」などという危険な法案を通したがるのか、通したがる人間がいるのか、私にはどうしても理解できない。憲法を無視してもいいと考える人たちはどうやっても理解不能なのだ。

政府が閣議決定で集団的自衛権を決定したときから、意見の違いがどうこう言う以前に、討論によって考えをお互いに深めより良い方向を探っていこう、という意志は皆無に見えた。
よく考えてみれば、話し合いを大事にする(これが民主主義)意志を持った人が、憲法違反の戦争法案など出してくるはずがないのだ。
つまり、憲法をないがしろにして集団的自衛権を持ち出すような人は、他の人とは話し合いを持とうとしない人、ということになる。

NEWS23で、憲法学者の石川健治氏がこう語っている。

「賛成する人も含めてこれから国民は大きなものを失おうとしている。問題のはじめは<集団的自衛権の行使容認した閣議決定>だった」と指摘し、

「私の理解では法学的な意味ではクーデターという説明をしている。
国民なりおおもとの規範が置き去りの状態で法秩序が断絶された場合をクーデターと認識する。まさに大きな断絶が去年の7月1日に走っている。

いざという時には法的安全・安定は国家の安全の二の次という選択が今回なされた。
法的安全は何のためにあるかー自由のためにある。国民の自由のためにある。
だから自由をないがしろにしてよいとの態度の決定、基本的な価値の選択を今回政府はやってしまった。

憲法を守って国が滅んだらどうするんだという人は、端的に言えば『専制主義者』だし『非立憲の人』だと言わざるを得ない。
肝心のことを議論したかったけど議論する前提をおろそかにして、しかもその手順を踏まないで、あるいは手順を粉砕して先に進んだのがこの一年だったのでは。」


とてもわかりやすい。政府に対するすべての意見、反論は無駄になるわけだ。
専制主義者、非立憲の人と話がかみ合わないのは当然なのである。
少数派が抵抗すればするほど「黙って言うこときいていればいいんだ」と思うだけで、いよいよその抵抗に終止符が打たれ反対派が退けられれば、「ああ、気持ちよかったなあ。」という感想を抱くのだ。

社会にはそういう人が数パーセントは必ずいて、しかもそういう人たちに政治の実権を握られてしまっていることは、悲劇としかいいようがない。

ではどうすればいいのか。

今後について、石川健治氏はこう語る。

「権限が与えられたかrといって行使できるわけではなくて、行使できる理由がなければ行使できない。
場合によっては空文化・死文化することがままあるので、この部分は世論に依拠するところが非常に大きいから議論し続けなくてはいけない。
これで何かが始まったわけでも終わったわけでもないと考えていい。

しかし、世論無視の政府には、選挙で逆転し、法案を一から考え直すのが一番だ。
今回決まるかもしれない法案を、今後変えられる政治家(政党)はいるのだろうか。
民主党政権が「基地は少なくとも県外を」と訴えながら完全に潰されたことを考えると、政治界には私たち一般の人間にははかりしれない力(某国とか経済界とか何だとかの)がかかっているのかもしれない。
そういうものをはねのけることはできるだろうか。

それでも希望は常に0ではない。突然、社会が変わることはこれまでも歴史の中で起きたことだ。
それが、いつ、どんな風にかはわからないけれど、そういう変化は上に立つ政治家がもたらすものではなく、下から、つまり庶民の側(力)から、ということだけは確かだと思う。


nice!(3)  コメント(4) 

情けない新聞報道 [社会]

今日(9月7日)の毎日新聞のオピニオン。
8月30日の国会前大集会のニュースを翌日(8月31日朝刊)各紙がどう扱ったかという記事だった。

私は毎日、読売、東京新聞を比べて見たが、正直言ってとてもガッカリした。
私が購読している毎日新聞は一面を半分ほど使っての記事だったが、トップ記事ではなかった。
トップ記事は「訪日客向け『民泊』拡大」という見出しで、なぜそれが安保法案反対の最大規模の集会の記事よりも大事なニュースであるのか全く理解できなかった。
新聞社の中にもいろいろな部署があり、報道部がいかにがんばってこの大事態を報道しようとしても上のどこかで止められてしまうのだろうか。
今回ばかりは、もう新聞は止めようかと思った。「特集ワイド」でいくら識者の素晴らしい意見を載せてくれているとしても、安保法案に反対する必死な人々の思いを大切にしないような新聞はもう読みたくない。

朝日を購読している知人が、朝日も同じような感じだ、と言っていた。
どうせそうだろう。

読売新聞なんか、ニュースがどこにあるのかなかなか見つからず、やっと一番後ろの社会面にほんのちいさな記事。問題外。悪意を感じるのみ。

東京新聞だけが、大集会の報道に一面全部を使い、紙面いっぱいに国会前に押し寄せた人々の写真を載せていた。
国会前のあの写真は非常にインパクトがあるので、あれを大きく載せるかそれとも小さなサイズにして載せるかは、ものすごい違いになってしまう。

その8月30日、私は大集会が終わる3時頃国会前に行った。
抗議表明をするために出かけていくのだから、時間は自分の都合のつく範囲に出かけることにしている。どこの団体に参加するとかは関係なく、できる範囲で参加する。
一ヶ月ほど前に行ったとき、みんながんばっているな〜、特に若者が目立つな〜、という感想を持った。
でもまだまだ集まる人が少ないと感じたし、この10倍(10万人)くらい集まればいいな、と思った。

でも実際に10万人集会の規模になると、参加するのも容易ではない。
何回目かの集会に友人が出かけたときはかなりの人出で、「身の危険を感じるくらいで、早々に退散した。」と言っていた。
私も人混みは大の苦手で、人がぎっしり集まり身動きできない状態というのは、考えるだけで怖ろしく、それで8月30日も時間差で参加した。
大集会は散会していたが、私と同様に遅い時間にもどんどん人は集まって、スピーチ、シュプレヒコールが行われていた。
私が行ったとき、スピーチ、シュプレヒコールの中心になっていたのは、SEALDs(?)だったが、中年の人、年配の人、一人静かに離れたところに立っている人・・など、要するに年代を超えて安保法案に反対する人が集まっていたのだ。

若い人のスピーチは新鮮でなかなかいいものだなと思った。
シュプレヒコールはとてもリズミカルで、「アベは、やめろ」「アベは、やめろ」が二拍子で繰り返されていたかと思うとそれがすっと「ア、ベ、は、や、め、ろ」の三拍子に変わったり、「集団的自衛権はいらない」は8拍、「集団的自衛権は許さない」だと9拍というふうに自由自在に拍子を取る。「自民党ってなんか感じ悪いよね」などという長い言葉もうまく9拍のリズムに乗って唱えてしまう。
すごく感心した。
(私の時代だと「○○、はんた〜い!」と生真面目で単調なシュプレヒコールばかりで、私はこのシュプレヒコールがとても苦手で、ほとんど声を出さなかった。)

共産党の「赤旗」の号外がもう配られていて、この日の大集会がいかにすごいものだったかを写真で見て震撼した。

あの集会を警察が3万と発表し、主宰者側は12万と発表し、自民党の幹部の誰かが「なぜこんなに違うんでしょうね〜」とせせら笑うような発言をしていたが、写真見てわからないのか、と思った。
競馬中継などで「今日は8万人の観衆です」だの「10万人もの人が・・」など言っているのを聞くと、「これだけの人が国会を取り囲んでくれたらな〜」など、時々ばかげた空想をしてしまう癖があるけど、
この日のこの写真の国会前の人の数は本当にすごかった。
「数は問題じゃない」などという人がいるけれど、あの写真はまぎれもなく10万以上でしょう。
あの中にいなくて良かった、と思ったほど。
いったん中に入ったら身動きもできないだろうし、大勢のけが人が出ても不思議ではない。
だからイラク戦争の時、各国で200万人だの100万人だの80万人などの戦争反対デモのニュースを聞いて驚いていたけれど、もっと驚くべきだったのだ・・と思った。
日本は道路も狭く、広場も狭く、何十万などという人が集まったら危険すぎてそんな集会はできないだろう。

あとは国会前のみならず、地方でも大集会が同時に起これば効果があるかもしれない。
地方でも反対の声はしっかりあがっているが、規模が小さく少人数集会が多いのでトータルとなると、政治家に見くびられてしまうのだろうか。

8月のある週末に長野に行ったとき、どこかで集会をやっていないかな〜と思い、ネットで調べたら、その日に所用で行く予定の中野市のバラ公園での集会というのを見つけた。
ちょうど良かったと思って急いで用事を済ませ1時間だけ参加したら、小さな可愛い公園で思った通りの少人数の集会。
ステージで歌う人に合わて歌を歌ったり、絵本の読み聞かせがあったり・・とても静かでなごやかな雰囲気だった。
小さな子供を連れたお母さん達が多かったから、あんな感じが合っているのだな、と思った。
驚いたのは中野市長さんからのメッセージが届いていたこと。
そして、そこでもらった9月6日の「歴史にマナブ、事実をマナブ〜歌い語り継ぐ平和へのメッセージ〜」という集会のチラシにも、後援が、中野市と市教育委員会となっていて、今どきこういう市町村があるのだ、と本当に驚いた。
信濃町でも平和を語り継ぐ会が、信濃町、信濃町教育委員会の後援で行われ、町長さんの挨拶もあったという。長野ではけっこうそういう自治体があるのだろうか。
(長野県は2014年7月の集団的自衛権の閣議決定に反対表明を出した自治体数が全国の中でも群をぬいて多かった。)

自民党は国民がいかに反対しようとお構いなく安保法案を通すと堂々と言っている。
違憲の法案を「国民を守るために必要」などと偉そうに言う。
憲法に抵触するような法案を、与党の議員数を武器にして通してしまうのか。

世論と深く関わるメディアは、それに真っ向から反対しないのか。
違憲法案が決まってしまうという大事な局面で、政治から距離を少し置いて無難にやり過ごそうというのか。





nice!(3)  コメント(8) 

教育と政治 [教育]

2006年12月6日、教育基本法改定が参議院を通過したときの失望感、絶望感は大きかった。
これから日本の教育はどうなってしまうのだろう、この先どういう社会が待っているのだろう、という不安がぬぐいきれなかった。
「まだ日本国憲法がある」という言葉が、教育基本法改悪に反対した人達の間でなぐさめのように言われたけどあまりなぐさめにはならなかった。
それから8〜9年を経て、世相は確実におかしな方向に変わってきた。

安保法制に反対する人達を批判する人は、「まるで今すぐ戦争が始まるようなことを言うのはおかしい」などと言う。
戦争は今すぐ(この1,2年以内)に始まるということは可能性としては低いかもしれない。
簡単に戦争を始められるものではない。
今、集団的自衛権などの安保法制に反対するのは、10年後、20年後のことが心配だからだ。
時間をかけてゆっくりと知らず知らずのうちに、戦争態勢というものは作られていくのだろう。

戦争をする国になるためには国民の心がその方向に向かうことが必須だ。
だから、権力者は「教育のあり方」を気にする。戦後、この教育基本法を変えようとする動きは何度もあったがかろうじて守られてきた。
第一次安倍内閣が、教育現場の猛反対を押し切って(大きなエネルギーを使って)、教育基本法を変えたことは、8年後の集団的自衛権の内閣決議に見事につながっていた。
そういう目的があればこそ、教育基本法を変えたかったのだろう。
ほとんどの人々は、暮らし向きや経済の心配はしても、教育のことなどあまり気に留めないのだから。


政治家でも、一般の人でも、その人がどういう考えの持ち主かを知るには、「教育というものをどう考えるか」という一点だけを見れば十分だと私は思っている。
「教育」にこそ、人間の考え方が如実に現れる。

羽仁五郎の言葉
「教育というものは自由でなければいkない。教育と権力はあいいれない。つまり命令されて人間はいい人間になれるわけがない。自分でなろうとしなければだめだ。上から命令すればするほど自発性はなくなっていく。教育の根本はその自発性なのだ。」

教育基本法を変えたのは、まさにその『教育の自発性』をそぎ落とし、制限するのが目的だった。
今の学校は、小学校から大学まで権力が幅をきかせている。

自民党の国会議員の、
「若者が戦争に行きたくないなどというのは自己中心、利己的考えで、その原因は戦後教育のせいだ」という発言は、権力者の気持ちというものを知る上でとてもわかりやすい。

「権力」は、子供や若者に自発性を持たせたくないのだ。
教員に子供や若者に自発性を持たせるような教育をさせたくないのだ。
「権力に従わせる」「権力に進んで従う人間を作る」のが権力側の理想だろう。
そこでまずは「愛国心」を育てるという目標が生まれる。全国津々浦々に国の威光を示すために、入学式や卒業式を使う。君が代を強要する。国への忠誠があるかどうかの踏み絵がわりだ。

教育の内容にあれこれ口を出し、自由な発想を教育現場で生み出させないよう、いろんな意味のない研究会、調査、報告、レポート提出などを押しつけて、教員の時間を奪ってしまう。
無理矢理に「学校間の競争」を取り入れて、学問の場から矜持を奪ってしまう。


これが今の日本の教育の実態だ。
こういう教育環境の中で、安保法制に反対するSEALDsや高校生の集まりがよく生まれてきたものだと思う。
権力がいかに国民を手の内に納めようとしても、それは簡単ではない、ということだ。
それでも、場合によっては戦前の日本のように国のためには命を投げ出すのが当たり前、という雰囲気が一気に生まれる可能性が無いとは言えない。

15、6才頃の純真な(信じ込みやすい)心には、家族や国を守るためには命を捨てるという考えが、容易に入り込むだろう。かつての特攻隊員がそうであったように(痛々しい)。
これが「洗脳」だ。「偏向教育」の最たる例だ。

憲法を遵守し、憲法の精神をしっかりと児童、学生に教えていくのが教育者の務めだと思う。
どうか権力に負けないでほしい。

nice!(4)  コメント(6) 

安保法案反対集会〜国会議事堂前 [社会]

昨日、国会議事堂前の安保反対集会に行ってきた。
どうせたいした人数は集まらないだろうと思ったけれど(教育基本法改悪のときの憂鬱な経験をどうしても思い出してしまう)、友人が、それならそれであきらめがつく、と言うので、それもそうだと思い議事堂まで行った。
この目で見て、あきらめるために集会に行った。

7時前に着いて辺りを見回して、相変わらず年のいった人(私も入る)ばかりだな、と思った。
国会周辺はいつもながら暗くてよく人の顔が見えない。そこに来ている人の数より機動隊の車のほうが目立っている。
7時頃になるとだんだん人が集まり始めて歩道もいっぱいになった。

スピーチとシュプレヒコールが始まると、若者が多いことがようやくわかってきた。自分の回りの声がみな若い、というのは不思議な感覚で、また感動的だった。

こんな法案が通って戦争でも始まったら悲惨な目にあうのは若い人たち、そしてその子供たちなのだ。

「戦争するな」「未来を守れ」「子供を守れ」「アベはやめろ」・・のシュプレヒコールは、実に自然に耳に響いてきた。
がんばってね、心の中でエールを送った。

集まった人は1万5千人くらいと聞いた。この10倍集まればな〜と思ったが、若い人たちが一生懸命に自分の気持ちを表現していることは、ひとすじの光明のように感じた。


安保法案反対のために国会に行ったのだけど、議事堂周辺では「原発再稼働反対」の集会ががんばっていて、今、この国は「原発再稼働」「安保法案」「沖縄の新基地問題」と、せっぱつまった問題を3つ同時に抱えていて、その上、表現の自由の弾圧や、新国立競技場の問題・・、一体、どうなるのだろう。これらの深刻な問題の根っこがすべて一つの処にあるいう状況がすさまじい。


*15日には国会前に集まった人数は6万と聞いた。
この日は私は都合がつかず行かなかったが、参加した友人から、近寄れないくらいすごい人、とメールが来た。いったん中に入ってしまうと抜け出せないと。。
国会前に行くときは、水、おにぎり、懐中電灯、タオルをしっかり持っていくようにしよう。

nice!(3)  コメント(2) 

安保法案討論に思う [社会]

国会中継や党首討論をたまに見ると本当に頭が痛くなる。
本音はどうなのかを常に探って聞いていなければならないから疲れる。
誠実さが一向に感じられない「国民の命、暮らし、幸福に暮らす権利を守る」という言葉が繰り返されるのを聞いて不快になる。


国会では政府の安保法案の不備を民主党が(維新は問題外として)細部にわたって追求していたが、肝心の「平和憲法を守ることが大切だ」という主張が抜けているように感じた。
「違憲だ」と言うだけでは、「憲法を変えてからやれ」という主張につながるだけで、憲法9条の意味の大切さを伝えてはいない。
そういう主張の方が世間の多くの人の支持を受けやすく、採決を遅らせるためには「手続き論」「法制不備論」で勝負するのが効果的だからだろうか。

それにしてもほとんどの政治家が憲法9条の重みを感じていないように見えるのはどうしたことだ。
確かに、「戦後70年の平和」な期間の中で、憲法違反と言われながらも、自衛隊がつくられ、その活動範囲も次第に広がり・・ということが強引に進められてきた。
「それでも平和を保てた、だからこれで良かったんだ」という考え方の延長線上に「集団的自衛権」もあるのだろう。
憲法9条の重みなどすっぽり抜け落ちた考えだ。


昨日のNHKスペシャルの党代表者の討論では、高村副総裁が吐き捨てるように、「日米安保のおかげで戦後70年の平和が保てたのじゃないか」と平然と述べるのを聞いて唖然とした。数秒間の沈黙があった。
「何を言うか!」「勝手な決めつけをするんじゃない!」と怒鳴り声が出るべき発言だったと思うが・・。

政府が(一部の表舞台に立っている政治家だけが)この世の中を動かしていると思っているとしたら大間違いだ。
もちろん、政府の判断が社会を良くしたり悪くしたりする力を持つのは当然だ。それが権力というものだから。
でも無名の大多数の国民にもすごく大きな力はある。
政府が間違っているというときには、国民の力はそれを止めようとする大きなブレーキになっているはずだ。
戦後の日本政府が自衛隊をつくり、事実上の軍隊として装備や活動範囲の拡大を進める動きを示したときに、「憲法9条を守れ」という国民の声がどれほど大きな抑制力となったことか、と思う。

国民自身はそんな力があることを自覚していなくても、また、政治には関心を持てずどうでもいいと思っている人が多くても、「憲法が国民のものである」という大前提があるために、政治家はむやみやたらなことはできないのだ。

高村の「日米同盟のおかげで平和が続いてきた」という言葉には、「国民が憲法9条を持っているためにこれまで平和が続いてきたのだ」という言葉を返したい。

選挙の度に投票率の低さが問題になるが、
逆の見方をすれば、それだけ政治家は信用されていないということだ。自分たちの代表としてふさわしいと思われる政治家がいないということだ。

こういう投票率の低さでは、財界やマスコミを金で囲い込んだ政治家によって、悪政がますます進むかもしれない。
無関心な国民が多ければ何でもできる。
だが、それを「国民に全権委任された」と思うのはとんでもない間違いだ。
単なる政治家の奢り。
自己満足に浸って下手な踊りを踊っている滑稽な姿に見える。
政治家もそれがわかっているから、悪法を通すときには急ぐ。
自分が国民に信頼されているという自信があれば、反対意見にも自ずから耳を傾けるだろうと思う。

「人間同士の殺し合い、戦争をしないですむ方法」を考えることこそ、政治家にやってもらいたいことで、憲法9条は時代にそぐわないなどというのは浅はかな考えとしか言いようがない。



nice!(3)  コメント(4) 

政府とマスコミ [雑感]

4月28日の朝日新聞の一面の見出しは『自衛隊の米軍支援拡大』『日米防衛指針18年ぶり改定』というもので、頭がクラクラした。
日頃ニュースをざっとしか見ていないので、私が知らないうちにそんな事が決定されてしまったのかと、愕然とした。
記事の小見出しには、『集団的自衛権を念頭』、次に続く<解説>では小さめの見出し(大見出しの3分の1くらいの小ささ)『安保条約の枠超える』とあった。
さらに2面の大見出しは『既成事実化急いだ政権』とあり、小見出しが『安保法制の国会論戦に先行』。

見出しだけ見ると、「自衛隊の米軍支援拡大」がすでに国会で決まったことのような感じだ。
国会でも論議されていないことを平気でアメリカで演説するということは、ひどいというより常軌を逸した行動としか思えない。
大体においてアベ首相が連発する「積極的平和主義」という言葉が、まったく胡散臭い。
言葉をでっちあげて、武力行使が正論である、と見せかけている。
難儀ではあっても、戦いを避け、あくまでも話し合いで物事を解決しようとするのが本当の「平和主義」ではないか。戦争を前提にしてしまったら、それはもう「平和主義」ではない。


「積極的平和主義」などという言葉を用いて、武力拡大を目指したがる首相を持ったことは、本当に悲劇である。
どうやってこの悲劇をうまくおさめるか、手立ては簡単に見つかりそうにない。
個人の発言などよほどの幸運(そういう声が集まって大きな力になるという幸運)がない限り、埋もれたままである。
新聞やテレビやラジオなどのメディアに期待するのは無理なのだろうか。
政治家ではなく、マスコミに期待を寄せる?・・なんだか倒錯している。
それでも、ニュースを報道するということに大きな責任を持ってほしいと思う。
マスコミが権力の広報マンになってしまったら、報道は簡単にゆがめられる。
そうなったら、民主主義というものは崩れ去ってしまうだろう。マスコミを味方につけた政権ほど怖いものはない。

4月1日から朝日新聞の購読を始めた。ずっと毎日新聞だったが、新聞販売員の勧誘に負けて3ヶ月だけ朝日新聞を取る契約をした。従軍慰安婦の間違い取材記事が問題になるよりもずっと前の事だった。

アベ首相が朝日新聞の批判を始めたときで、販売員の人は「どんどん購読者が減っているんです。お願いします!」と悲壮な感じ(ふり?)一応なぜ購読者が減っているのか尋ねたら、新聞が左がかっているといううわさがあるんです、との返事。
つい意地悪く、「それは逆でしょう。朝日新聞は以前はもっと権力にしっかり批判的な立場を取っていたのに、最近はどんどん権力よりになってきているんですよ。」と言った。
「え、そうなんですか。」と若い販売員は不思議そうな顔。
ともかく、つい気の毒になって契約をしてしまった。

4月1日、新聞を眺めたら、何か記事の印象が曖昧で雑然として何を書こうとしているのかはっきりせず、気持ちが悪い。(あ、新聞が変わったんだ・・)
一週間ほどこんな状態が続いて後悔していたが、中旬には良い記事もあった。
そしてまた、今回の釈然としない記事である。
新聞社の方針がはっきり定まらず、まるで「まだら」のような印象を受ける。

記事の内容で多少批判的な事を述べていても、読者を惑わすような大見出しをつけては、何を言いたいのかわからない。
見出しと内容がちぐはぐなのは、政府にもいい顔を示したいためだろうか。

今の政府は、憲法も国会も知事の意見も何もかも無視して、やりたいことをどんどん既成事実化して強引に進める酷いやり様である。
その政府をマスコミが後押ししていてはどうしようもない。
大半の人々は、テレビを見たり新聞を読んだりして、ああこうなったのか、と思ってしまうに違いない。一度決まったことは簡単には変えられないだろうな、と考えてしまうに違いない。



nice!(5)  コメント(6) 

桜の季節 [雑感]

IMG_5289.JPG
IMG_5284.JPG4月4日

今年の花見の季節も無事に終わりそう。
外出のついでに足をのばし、草加市の葛西用水路沿いの桜をわざわざ見物に行った。
前日の強風で桜の花がだいぶ散っていて、川は花びらで埋めつくされ、ストロベリーシェークみたいな色に染まっていた。
曇り空だったけれど、土曜日なので花見の人がけっこういて、みな食べたり飲んだりしていた。
おじさんバンドが元気よく賑やかに演奏していた。

以前の私なら、花見でちょっとしたおいしい物を食べたりお茶を飲んだりするくらいは許せるけれど、
大きなテーブルを広げたり、ゴミを持ち帰らないためにゴミ箱があふれていたり、風で色々な物が汚らしく散らかっていたり、カラオケやらが大音響を出していたり、という光景を目にするのが我慢できなかった。
極力人混みには近づかないようにしていた。

今年は花見をする人びとを見てもあまり腹立たしくはならなかった。

そんなことに一喜一憂している時代は過ぎ去ってしまった。
花見客のだらしなさなどを気に病んでいるようでは、今の日本ではとうてい生きていくことなんかできないのだ。

静かに普通の生活を送りたいと思っても、「原発問題が片づいていない」「基地問題は理不尽でめちゃくちゃ」「集団的自衛権やら何やら、きなくさい事がどんどん進められ、それを止められない」という現実をつきつけられていては、日常的に神経がかなりのストレスを受けている状態だ。
心おたやかに過ごすことなどとうていできないものである。

だから、花見のばか騒ぎなんかに目くじら立てる余裕はすっかりなくなった。
これまで、いろいろな絶望感、挫折感は味わってきたけれど、こんなに社会的危機を感じることはなかった。また危機を前にしてこれほどの無力感を感じたこと、もなかった気がする。

どう考えても許しちゃいけないでしょう、と思うことが素通りして行く。

現政府の暴走を何とか止めなくてはと誰しもが感じているはず、と思っていたら、それはとんでもない間違いで、「こんなひどい事が・・」と話題にすると、

「え〜っ、そうなの?」と初めて聞いたような返事だったり、
「そんなにひどいとは思わないな〜」というような反応だったり、

大方の人は、今の社会について特に心配はしていないようだ、ということがわかってきた。自分の身に直接ふりかかってくること・・給料が安い、労働環境が悪い、生活がしんどい、という不満はあっても、それは政治とは無関係に感じる事で、政治が変われば、という意識にはならない人が多いようだ。

もちろん、政府のせいで戦争にまきこまれそうになっている、などと考えている人はとても少ない。
むしろ、政府は「国際情勢における不安要素をとりのぞこうと強い姿勢を示してくれている」などと、私とは正反対の受けとめかたをする人の方が多いようだ、と最近わかってきた。

これじゃ、政治が変わるわけはないなあ・・という気持ちが強くなり、
同意見の人たちとたまに話したりすると、ちょっと元気にはなるものの、
少数意見ではどうしようもない。

というわけで、逆境に耐える姿勢を少しずつ身につけた私にとって、
今年の花見は苦痛のかけらもなく、何でもなかった。
人は見ずに、ただ桜だけを眺めていられた。

葛西用水路は1590年に徳川家康が進めた利根川東遷事業で作られてきたもので、埼玉東部から東京東部を流れる。(同じく埼玉・東京を流れる見沼代用水、愛知県の明治用水とともに、日本三大農業用水とよばれる)

用水路沿いの桜は古木が多いが、それでもずっしりと花をたくさんつけていて見事だった。

nice!(4)  コメント(3) 

日本国憲法第9条について思う(その2) [社会]

産経新聞は、

<憎しみの連鎖を断たねばならぬ、というご高説は一見もっともらしい。>

と、憎しみの連鎖を断つ、という考えをまっこうから馬鹿にした記事を書いた。

<仇をとってやらねばならぬ、というのは人間として当たり前の話である。>

仇をとる、などと普通の庶民が考えることだろうか。
この記事を書いた人がそう思ったのだろうか。
現政府は仇を討たなければ、と思うだろうか。

そして、
<第一、日本にとっての「悪夢」の始まりだ」と脅すならず者集団を放っておけば、第二、第三の後藤さんが明日にでも出てこよう。
日本国憲法には、「平和を愛する諸国民の公正と信義」を信頼して、わが国の「安全と生存を保持しようと決意した」とある。

「イスラム国」のみならず、平和を愛していない諸国民がいかに多いことか。
この一点だけでも現行憲法の世界観が、薄っぺらく、自主独立の精神から遠く離れていることがよくわかる。>

これを書いた人は「平和を愛している人」と言えるだろうか。
平和を愛する人間なら、簡単に仇をとるなどと、言わないし思いつかないだろう。

<護憲論者のみなさんは、テロリストに「憲法を読んでね」とでも言うのだろうか。命の危険にさらされた日本人を救えないような憲法なんて、もういらない。>

<護憲論者のみなさんは・・>と人を馬鹿にしたえらそうな物言いには本当に驚く。
これが新聞記事だなんて、信じられない。
私のように、素人が一人で勝手に、細々と、そのときどきの感想を書きとめているブログではないのだ。

「護憲論者」と一括りにして、憲法にすがって生きている人、というイメージを作り出そうとしているように見える。
<「憲法を読んでね」とでも言うのだろうか。>とは、一体どの口が言える言葉だろう。

憲法はあくまでも人が決めた法規にすぎない。
今、憲法を変えようとする動きを封じて「憲法」を守ろうとしている人たちは、ただ「憲法」だからという単純な理由ではないと思う。

もちろん「憲法」を守るというのは、民主主義国家においてはもっとも大事なことである。
国の基盤をつくっている「憲法」を、少数者が自分の都合のために、真面目な議論もせず、ごまかしながら変えようとしたら、それは大問題である。
民主国家が崩壊することになる。
(現に、そういう事態が始まりつつある。)


だが、それとは別に、日本国憲法の示している国の在りようが、非常に優れたものだ、ということを多くの人が感じているから、「憲法」を大事にしようとしているのだ。

薄っぺらな世界観?
どっちが?

やられたらやり返す、というのが薄っぺらな世界観ではないとでも?

理想を持つ人々を馬鹿にする発言には本当に腹が立つ。
こういう記事を書いた人、また、こんな風に思う人に尋ねたい。
「どうやって仇を取るのですか?」と。

自衛隊を派遣して人質を救い出す、などと言う者がいるが、現地に行って一体何をやるというのだろう。何ができるのだろう。
途方もない話、「荒唐無稽」とはこのことだ、と私は思う。

平和な国際社会をめざすことを願って、「日本国憲法」を実際に多く人に(海外の人にも)よく読んでもらい、議論したり考えてもらうことは、本当に小さなことではあるが、平和への具体的な一つの運動になりうると思う。

(でも、「憲法」は立派でも、昨今の政府の動きを思うと、「日本にはこういう憲法があります」とは、恥ずかしくてとても言えませんね。悲しいけど・・。)

それにしても一新聞が(新聞といえばきちんとした組織があり、読者もいて、それなりに社会的な影響力というものをもっているだろうし、それを認識もしているだろうに)、こんなくだらないことを下品な口調で平気で書くようになったのか・・と何とも暗澹たる気持ちになる。



nice!(4)  コメント(4) 

日本国憲法9条の意義を思う [社会]

ここのところ社会の動きが慌ただしく、ニュースを追うだけで精一杯になっている。
日本の「平和」が危うい感じが日に日に強まる。
70年間続いた「平和」も現政府の手で、雪崩のようにくずれてしまうのだろうか。
10年先はわからない、とはよく言うことだが、この勢いだと1,2年先のこともおぼつかない気がする。

ISによる人質事件では、現政権がどんなに危険な方向に日本の社会を引っ張って行ってしまうのかを、まざまざと見るような思いがした。


2月5日の、衆院の「イスラム国」に対する非難決議文には怒りを覚えた。
決議文には、
<非道、卑劣極まりないテロ行為を行ったことを強く非難>
<テロ行為は、いかなる理由や目的によっても正当化されない>

と、当たり前のことが述べられていて、

<我が国および我が国国民は、テロリズムを断固として非難するとともに、決してテロを許さない姿勢を今後も堅持することをここに表明する。>
とある。


この決議文を見てまず感じたのは、こういう決議というのはどういう意味をもつのだろう、ということだ。
テロは許されない行為だ、とは、誰もが思うことだろうし、人の命をもてあそび殺すという残忍な行為を許せないというのは当たり前の感情だ。

ではどのようにして「許さない姿勢」を示していくのか。
そこがはっきりしない。
そこが、肝心なところではないのか。
この決議文にはその肝心なところが抜けている。

決議文には「我が国及び我が国国民は」という言葉(しつこく二度も繰り返し)が入っているので、<私の考え>も勝手にこの中に含まれていることになる。
それはとても理不尽なことだと感じる。
きちんと道筋が示されていないのに、どうやって意見を持てるだろう?


「テロとの戦い」「テロには屈しない」という言葉には、<どのようにして>という一番肝心な所が抜け落ちている。

この決議は、自衛隊の活動範囲をどんどん拡大して、自国防衛という目的で(名目で)他国を攻撃できるようにする条件を整えるための意識づくりだ、という気がした。
そういう決議に「国民は」という言葉を使い、「私」も含まれてしまうのは心外だ。

テロを認める人は誰もいないので、こういう決議文はすんなり通っていく。
だが、「どのようにテロをなくしていくか」という点について具体的に何も示していない決議とは何だろう。
「テロが起きない社会をめざそう」という決議なら納得できる。
「断固許さない」では何の意味も持たない。なぜこんな決議文が採択されるのか不思議でならない。

人質事件において現政府は何をしたのかについては今でもはっきりわからず、「いろいろ交渉はした」という言葉のみ。


テロを起こすような集団は極悪人の集まりだから、交渉なんかしないで武力で撲滅するしかないのだ、ということなのだろう。
でもそれを明言しない。

そういうことを日本政府が明言した場合、「武力行使などしても根本的な解決にはならない」「武力を使えばさらに多くの人々の血を流すことになる」「戦争が何の罪もない人の命をどれほど奪うものか忘れたのか」という大合唱が起こる可能性もある。
うやむやにしておいた方が政府には都合が良いだろう。

「テロとの戦い」「テロには屈しない」という言葉が世間に通っているのは、武力行使という言葉を表に出さないからだろう。

武力に武力をもってしても何も解決にはならず、武力というものは、「人命尊重」からもっとも遠い所にあるものだということは、これまでの歴史や今日の国際情勢を見てもはっきりしていることだと思う。

決議文の
「このようなテロ行為は、いかなる理由や目的によっても正当化されないものである。」の
「テロ行為」を「武力行使」と言い換えたらいいのではないか。


武力に真の力などないことを常に忘れないようにしていないといけないのだと思う。
その道しるべとして日本国憲法9条がある。


憲法9条、「正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」を、国際社会に向けて発信できないものか。
(憲法を変えて他の国と同じようにしたい、と願うような政府には、思いつきもしないことだろうけれど)


「戦後の大改革」と称し、まがりなりにも70年間続いてきた庶民の「平和な生活」を少数の人たちが揺さぶることは許せないし、まったく理解しがたい。


nice!(2)  コメント(4) 

2014年衆院選について [社会]

衆院選の結果は大体予想通りだったので、さほどひどく落胆はしなかった。
投票率の低さも思った通りだった。
投票したい政党や政治家が見あたらなければ、人はわざわざ投票にはいかない。
今の政治にどのくらい危機感を持っているかどうかも人によってかなりの違いがある。
まして、今の政府の暴走を止めるために、良いとも思っていない政治家や政党に一票投じるべきだというような知恵を働かせて行動する人はそう多くはいないだろうと思う。(プロの政治家の集団である政党でさえ、結束すべき時に平気で野党同士、足の引っ張り合いをするくらいなのだから。)

今回の衆院選の投票率は戦後最低の52.6%。
そして投票した人の33%、つまり有権者の17%ほどが自民党を支持して、自公政権は安泰という結果になった。

それでも今回の投票結果には世の中の変化が多少現れていたと思う。

私のいる地域は自共対決になった。
私としては誰に投票するかあれこれ考えずにすむので楽だったが、掲示板に自民党と共産党のポスターだけが貼られているのはちょっと異様な眺めだった。
掲示板の前に立ち止まって2枚のポスターをしげしげと見ている人がいたりして、その光景もまた不思議な感じがあった。

結果は、自民党候補が128938票、共産党候補70074票。
敗れたとはいえ、共産党候補を支持した人が7万というのは、かなりのインパクトがあった。(7万人といえば小さな市の全人口を上回ってしまう数字だ。)

共産党の選挙応援活動をしていた人が、
「7万も支持してくれた人がいたのに驚いた。選挙運動の成果というのではなく、みんな自ら進んで票を入れてくれたという感じだ。逆に言えば、人々の生活は思った以上に深刻で悪くなっているということじゃないだろうか。」と言っていた。
私もそう思う。

消費税が上がり物価が上がっても賃金は上がらない苦しい生活、将来に対する不安・・アベノミクスはこういうものは素通りしてしまっている。
世の中の嘆きの声には耳を塞ぎ、独断的な演説を続ける首相の姿には異常な感じを受ける。

選挙の翌々日(16日)の毎日新聞の一面見出しは「安倍首相、改憲へ『努力』」、17日の夕刊「高浜原発 新基準適合ー川内に続き2例目」、そして今日17日は「原発建て替え検討」
選挙が終わってさっそくの暴走開始。

改憲も原発再稼働も、国民の多数は支持していない。


nice!(4)  コメント(5) 

10月の風景 [環境・自然]

IMG_3593.JPG

IMG_3603.JPG

IMG_3734.JPG

IMG_3831.JPG

IMG_3853.JPG

IMG_3901.JPG

height="266" border="0" align="" alt="IMG_2270.jpg" />
nice!(4)  コメント(0) 

「花子とアン」にえがかれる戦争 [雑感]

第二次大戦の時代を背景にしたドラマは多いが、「純情きらり」は音楽家、画家への弾圧がえがかれていていい作品だと思った。
「花子とアン」も、やはり戦争が時代背景となっている。
いつも見ているわけではないが、135話、136話は、戦争に対して人々がどのような感情を持ち、どういう立場をとり、どう行動するかが、わかりやすく(誠実に)えがかれていた。
ドラマのセリフを拾い出すと、

<なぜ危険なことをするのか(反戦争という思想)、という花子の問いに、れんこが答える。>

れんこ
「(龍一さんは)間違ったことはしていない。誰よりも子ども達の将来を考えている。
だから今の国策にがまんができないの。

<花子はラジオの子供の新聞という番組の語り手をしているが、子供たちに楽しいお話を聞かせたいという思いはかなわず、戦争のニュースばかり伝えてことに悩んでいる。>

はなこ(ラジオで)
「みなさんは戦地の兵隊さんが安心して戦え、誉れの凱旋ができるよう、おうちのお手伝いをしてしっかりお勉強いたしましょう。」

れんこ
「まるで、みんながんばって強い兵隊になれと言っているように聞こえたわ。」
ーーー(あれは、といいかける花子)

「花子さんも誰かに読まされているんでしょう。
そうやって、戦争をしたくてたまらない人たちは国民を扇動しているのよ。
あなたは本当はどう思っているの。ラジオのマイクの前で、
日本軍がどこを攻撃したとか、占領したとか、そんなニュースばかり読んで、ああいうニュースを毎日毎日聞かされたら、純粋な子ども達はたちまち感化されてしまうわ。
お国のために命をささげるのは立派だと思ってしまう。」

はなこ
「私だって戦争のニュースばかり伝えたくない。
でも、こういうときだからこそ、子ども達の心を明るくしたいの。
私の『ごきげんよう』を待ってくれる子ども達がいるかぎり、私は語り手を続けるわ。」

れんこ
「そんなのは偽善よ。
やさしい言葉で語りかけて子ども達を怖ろしいところに導いているかもしれないのよ。」

はなこ
「私一人抵抗したところで世の中の流れを止めることなんかできないわ。大きな波がせまってきている。その波にのみこまれるかのりこえられるか、誰にもわからない。
私たちの想像を超えたはるかに大きな波なんですもの。私もすごく怖ろしい。
でもその波にさからったら今の暮らしも何もかも失ってしまう。大切な家族すら守れなくなるのよ。」

れんこ
「私は時代の波に平服したりしない。世の中がどこへ向かおうと言いたいことを言い、書きたいことを書くわ。」

「あなたのようにひきょうな生き方をしたくないの。」

はなこ
「私たち生きる道がちがってしまったわね。」


<この段階では、二人とも戦争に反対の気持ちを持ちながらも、その立場は微妙にずれ分かれることになる。その後、はなこはラジオの語り手を辞めるのだが>

一方で、戦争を賛美する声として

宇田川

「私はペン部隊の一員として、わが皇軍将兵の勇戦敢闘ぶりを、この目でしかと見てまいりました。
私は心の中で叫びました。『遠き故国日本の母よ、姉よ、かくまた恋人よ。あなたがたのいつくしんだ人たちは、今破竹の勢いで猛進撃を続けております。これをあなたがたがごらんになれば、きっと涙にむせびつつ、同時に誇らしく思われることでありましょう。』」


こういう意見の食い違いというのは、昔も今も、人間の間の超えられない溝のようなものを形づくっているような気がする。
花子、れんこ、宇田川に見られる三者三様の考え方は当時を代表するものだったのだろうと思うが、今でもさまざまな場面で見られるように思える。

そして「現代」の特徴を現すのは、このような考え方のさらにその上に「あらゆることにおいて目先の経済発展こそがなによりも優先」という考えが君臨していることだと思う。
それが今もっとも幅をきかせている考え、行動、であるならば、それに対抗するのは非常に難しい事だという気がしている。


nice!(4)  コメント(7) 

7月も終わり・・ [雑感]

IMG_2642.jpg

7月1日に「集団的自衛権」が閣議決定という事態になり、こういう状況はどうすれば変わるのだろうと、個人が考えてもどうしようもないことを考え落ち込んだりしているうちに、7月も終わってしまう。

6月28日の毎日新聞に「集団的自衛権」閣議決定に対する何らかの反対表明を出した地方自治体についての記事があった。6月28日の時点で137の市町村名が反対または慎重に、の立場をとり、137のうちの35市町村は長野県(私の出身地)で、長野県はなかなかがんばっているなと思った。その中でも生まれ故郷の市は「強く反対」を表明、と地方ニュースで報道され、ちょっとうれしかった。
7月になると反対する市町村はさらに増えたが、そんなことはお構いなしの閣議決定である。アベ内閣の支持率は下がりつつあるけれどまだまだ独走を止めることはできない。

なぜこんな独裁政治がまかり通るのか不思議なのだが、国会での答弁やテレビ番組のインタビューなどアベ首相や幹部らの発言を聞くと、明らかにある特徴がある。
どんな質問に対しても、<「集団的自衛権」によって戦争につき進むようなことは決してない>、<抑止力はこれによって高まりこれまでよりもっと安全になる>、の二つを、さも確信ありげに堂々と言い切っていること。

これを聞くと、いくらかの不安を感じた人も、そうか、まさか戦争になることはないだろう、と納得してしまう。
世論調査では、「集団的自衛権」の閣議決定に対しては、反対もしくは懐疑的という人の方が多いようだが、大方の人は(賛成派反対派ともに)、「まあ、すぐにどうこうならないだろう」「簡単に戦争になるということはあるまい」という楽観的気分が強いのではないだろうか。
政府の公報活動は巧みで、NHKも総力あげて政府の後押しをしているようだから、知らず知らずのうちに「今の時代は『集団的自衛権』も必要なのではないか」という考え(というより気分)が広がっていくのも無理はないと思う。
いろいろな場面で、自民党のいろいろな立場の人が世間に聞こえのいい言葉を無責任に発しているから、漠然と聞いていたら、問題点などさほどないように見える。

これまで65年間も戦争をしていないので「戦争」がどのように始まるものなのかを意識しない人も多いだろう。
「平和ぼけ」という言葉があるが、これまで平和を謳歌できたのはなんと言っても「平和憲法」のおかげだと言える。
それが「平和憲法」の実績というものだ。

「集団的自衛権」がこれからどういうことをもたらすのかの十分な検証・国民的論議もないまま、これまでの「平和憲法」の実績をまったく無視して、別の方向に無理矢理に舵取りしようとする内閣はまったく信用に値しない。

国民の安全や暮らしを守る、と言いながら、いまだ福島原発事故は収束もできないまま、これまで自民党が推し進めてきた原発の事故の責任も取らず(あやまってもいないのではないか)、まだ原発を経済政策の一つとして捨てようとはしない政府。

集団的自衛権の閣議決定の次は、実力行使による沖縄辺野古への基地移設。
貴重な生物の宝庫である辺野古の海を平気で破壊し、その理由は「危険な普天間基地を一刻も早く他に移すことが重要だ」と強調するばかりで、なぜ同じ沖縄県内に移設なのか、なぜ新たな環境破壊までして辺野古に基地を移すのか、については一言も答えず知らん顔だ。

誰がどうみたってひどすぎる話だ。
それなのにその暴走をとめられない、というのはどうしてなのだろう。
こういうことをずっと考えくよくよしていた7月だった。


nice!(4)  コメント(4) 
前の18件 | -
メッセージを送る