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「常識」について [雑感]

CMで、牛がのびのびと放牧されている映像が流れる。可愛いな、と思って見ていると、きれいな女優さんが、「(牛たち)気持ちよさそうですね。このお肉はとっても美味しいんですよ・・」というようなことを宣伝する。
このCMを見る度に胸の中がザワッと居心地が悪い。
可愛い牛と美味しい(牛の)肉、というのは人は心の中でどんな風に折り合いをつけているのだろう・・?と不思議になる。

水族館で大きなマグロがゆうゆうと泳いでいる。1,2歳の子供を抱いた男の人がマイクを向けられた。「いや〜すごいな。立派なものですね。」と言いながら、子供の顔をのぞき込んで「いつも美味しくいただいていま〜す。ね?」と言う。私は子供が混乱しないかと、ちょっとドキッとする。子供はきょとんとして、少し身体を固くしてお父さんの顔を見た、ように私には見えた。

こういう矛盾を平然と受け入れてしまう術を、人は小さな子供の頃から覚えていく。
動物好きな私は、幼い頃、肉が動物の身体だと知ってまったく肉を食べられなくなった時期があった。今は、店頭に並んでいるパック詰めの肉や魚はたまには食べる。
大人になればなるほど、矛盾を平然と受け入れる力が身についていくため、一般に、子供は純真、大人は汚い、という風なことを言うのだろう。

原発事故のためにつらく悲しい生活を送る人々の暮らしを報道しながら、一方で、原発再稼働の話題がのぼるのは、どう考えても理不尽だが、この社会ではこういうのがごく普通のことなのかもしれない。
原発事故のために生活が根こそぎ破綻した人が大勢いるのに、雇用のためには原発再稼働はやむを得ない、など言っている人の声が放送される。これを、人はどう考えたり受け止めたりするのだろう。

再稼働を見直すべきという大阪市長の提言を新聞で読んだら、もっともなことばかり書いてあった。ところがこの人は教育においては、競争至上主義、国歌斉唱にこだわり、斉唱の際の教員の「口元チェック」をよし、とするような人なのだ。これはどう考えてもグロテスクで、このような考えを持った人が、原発再稼働反対、などと言っても、眉唾としか私には思えない。与党政権に入ったとたん、いろいろな見地から、とかなんとか言って好きなように考えや立場を変えるのだろう。
「いざとなったら法律変えればいいんだよ」と常々公言しているらしいから、恥を知らないこの御仁は何をやりだすかわかったものではない。

物事を柔軟に考えることを優れた資質、と一般に言われる。でも日本ではこれを、倒錯したグロテスクな物の考え方を受け入れよ、それが大人というもの、というな使われ方をしているのではないか、という気がする。
「○○は間違っている」とストレートに言ってもなかなか多くの人に伝わらない。それどころかそっぽを向かれてしまう。
言っている内容があまりに正義そのものでシンプルであるためかもしれない。その考えが、普段持っている「常識」とあまりにかけ離れていると、聞いた人はつい顔をそむけたくなるのかもしれない。

<正しいことを正しいと主張するのは大人げない、物事はそう簡単ではなく、別の見方もあるのだ>という考え方、そして、<間違ったことを批判はするものの、かと言って正しいことを積極的に支持するわけでもない>という態度・・・
悲しいけれど、これは幼少の頃から様々な場で行われてきた「教育」の一つの成果であるかもしれない。

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公教育 [教育]

もう卒業式、入学式のシーズンは過ぎてしまったが、この間、朝日新聞の論壇時評というコラムに高橋源一郎氏の<入学式で考えた〜ぼくには「常識」がない?>という文を読んだ。久しぶりに、そうでしょう、そうでしょう、と心が和んだ。

<小学校の入学式に参加したら、保育園の卒園式に比べて、何だかちっとも感動しない。偉い人が壇上に上がるとき、誰もいないのに日の丸に向かってお辞儀をし、何のためにそんなことをするのかわからない、ぼくに「常識」がないのだろうか・・。国歌斉唱になりだんだん憂鬱になってきてしまった。誰がこんなやり方を決めたんだろう、小学校の入学式は子どもたちのためのものではなく、キョウイクイインカイとかそれを指導しているえらい人のための式なんだ、だからイヤになっちゃうのだ・・>というようなことが書かれていた。

本当にそうなのだ。えらい人がもったいぶって誰もいない壇上にうやうやしく礼をする。式の流れは全国一律であって学校ごとの特色や工夫はない。(特色は出してはいけないことになっている。)本来主役であるはずの子どもたちのことは二の次で、教育委員会や管理職は全国一律の式を行うことだけを至上命令としている。こういうのが教育界の「常識」だとすれば私もずいぶん常識からかけ離れていることになる。

大阪維新の会というのが中心になっておかしな教育条例を作ったとき、本当にこれを大阪の人々はこれを受け入れるのだろうか、と思ったが、なんせ条例などというものは密接に関わっていない人にとっては、ことの深刻さも異常さも伝わらないものだ。条例案を真剣に読んでみる人がどれだけいるだろうか。
結局、大阪では教育基本条例が通ってしまい、卒業式だか入学式で、校長が国歌斉唱の際に教員がちゃんと歌っているかどうか、教員の口元をチェックしていたという話がニュースになった。
こういう話は、他国の人にはおよそ理解できないだろう。

生徒の卒業や入学を祝う大事な式(一応、大事という言葉を使っておこう)の中で、子どもたちのことを心から祝うどころか、条例違反はいないかと「口元チェック」していた校長やら管理職メンバーは、教育者としてはまったく失格である。人格的に大問題だと思う。

この事件がどのように世間を騒がせたのか、それとも騒ぎにもならなかったのか、あまり新聞を読まなかった私はよくわからなかった。でも、私の「常識」からすればとんでもない事である。
世間一般では、「公務員なんだから法律は守らなきゃ」「国歌斉唱が嫌だという人は公立の教員にならなければいいんだよ」など、これもまた平然と言う人がいて、世の中変わったのか、それとも昔からずっとこうだったのか・・どうもわからなくなった。

「公教育」という言葉が誤解のもとかもしれない。短絡的に「公のための教育」という風にとらえる人がけっこう多い。確かに公共の精神を学ぶというのも教育の一部ではあるが、「公」を「国家」としてしまうとおかしなことになる。
私は、公教育とか義務教育の意味(目的)は、国民の教育を受ける権利を、国や地方自治体が責任を持って保証するということだと思っている。国民を国に隷属させるためのものではない。
公務員も、国家の番人という意味ではないと思うが、いつのまにか、公務員は政府の言うことを黙って聞け、教員は国家政府の意向に沿うような教育をし、政府の命令に黙って従え、というふうに意味が歪曲されて解釈されているようである。

1999年、日章旗を国旗、君が代を国歌とする、という国歌国旗法が作られたとき、強制はしないという首相答弁があり、まだ遠慮深さというものがあった。
それも、たった15年の間に見事に変わった。
「口元チェック」など、「一体どこの国の話か?」と、国際的に考えても恥ずかしくなるが(日本は一応、民主主義国ですよね)、たいして問題にもされなかったようだ。

しきりに憲法改正をやりたがっている政治家がいて、そういう輩が出す案というのには「国歌、国旗を尊重する」という項目がわざわざ入っている。なぜかはわからないが、国歌国旗というものが、特別に大切なものらしい。
国歌や国旗を特別に大事と思っていない私などは、そのうち「非国民」ということになるのだろうか。
「尊重しないなら日本人やめろ」とか「イヤなら日本から出て行けば?」など言われるのだろうか。
たかだか15年前に作った国家国旗法案をふりかざし、これがいやなら教員をヤメロなどと言う人がいるのだから、まったくふざけた話だ。

もっとも、国旗や国旗に対する不思議な「執着」というのは、普遍的「常識」に含まれないからこそ、わざわざ法律で縛ろうとやっきになる人間が出てくるのかもしれない。
ということはつまり、私の方が「常識」がある、ということになるか・・。

えらい人たちが考えるところの「公教育(日本の教育)」から身を守るには(あるいは子供たちの身を守ってやるには)どうすればよいだろうとあれこれ考えるが、いい案は浮かばない。
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春から初夏へ [雑感]

気がついたら雪の写真のまま4月が過ぎてしまった。

ライブラリ - 11311.jpg4月20日
今年は桜の写真をほとんど撮らなかった。
たった一枚だけ、これは信州の中野市の高梨城址の桜。
高梨城址というのは、私が子どもの頃は本当の廃墟で、残っている堀の回りはびっしりと木や雑草が生い茂って薄暗く、とても近くに寄ってみたい場所ではなかった。初夏になると山吹が堀に沿って咲き、きれいというのではなく不気味だった。
今は整備されすごく明るく何でもない場所になっている。鬱蒼としたうらぶれた廃墟の面影はみじんもない。

中野市にはもともと現在長野市にある善光寺があったところで、当初は中野県と呼ばれていた。急進的な人が多く一揆も多かったため、中野を避け、当時田舎だった長野市を県庁所在地に定め善光寺も移したらしい。
もとの善光寺(今も一部は残っている)は中野市の北に位置し、それを中心に五番の目のように道路が走っている。京都のように、人々は善光寺に向かう、つまり北に行くとき、「上がる」、南にいくときは「下がる」と言っていた。
中野市の方言は、語尾に「・・かっそ」というのをつける。「明日は雨かっそ」「そうかっそ」という具合。今思えばどことなく優雅な感じもする。
中野市の近くの小布施町では「・・かしや〜」となる。こちらはもっと雅な雰囲気。
この方言も今では聞かれなくなってしまった。
道路には真ん中に小さな川が流れ柳や桜が植えられていた。それはとても楽しい風景だったが、車が普及して、川はじゃまになり、埋め立てられ柳や桜もなくなった。
今思ってもすごく残念な感じがする。
何でもないアスファルトの道は、川の風景とはまったく比べようもない無意味さだ。

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さて、関東はあっという間に初夏の風情になってしまった。
みずみずしい緑は桜よりもきれいだ。

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春近し [雑感]

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毎年のことではあるけれど、そろそろ雪も終わりかと思っているとまたドンと降る。
春を待ちわびているから3月の雪はちょっとうらめしい。「あ〜ぁ、またか」とため息が出る。そう思いながらも新雪をかぶった山の樹々の美しさにはみとれてしまう。
こんなにきれいなんだから少々の不便に不満は言えない。

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27日にかなりの雪が降ったが翌日は快晴。樹に積もった雪は午後には溶けてしまった。

そして、なんと、早くもツバメの姿を見た。今年の第一号だ。昼間は日差しが暖かく感じられたが、それでも朝7時の気温はマイナス4度だった。
こんなに早く来てしまって大丈夫なのか、と思う。

カラ類は冬の間中1100mの山の中で元気に過ごし、ベランダの餌台はいつも賑わっていた。雪対策用にペットボトルにもヒマワリの種を入れ下の方に小さな穴を開けておいたら、その穴から器用にヒマワリをついばんで食べていた。
毎朝6時半頃からゴンゴンという音が聞こえるようになった。キツツキが板壁に穴を開けているのかと思ってのぞくと、ゴジュウカラが2階のベランダわきにつけた餌台をくちばしでつついている。ゴンゴン言う音はかなりうるさく、一体何をしているのかと不思議だった。<なわばり宣言だろうか? 仲間を呼んでいるのか?>といろいろ想像していた。
見ていると、ゴジュウカラだけでなくシジュウカラやヤマガラも同じ行動をする。
さらによ〜く見たら理由がわかった。
餌台の縁にとまり両足の間にヒマワリの種をはさみ、それをくちばしで割っているのだった。ゴンゴンいうのはその音だった。
毎朝このゴンゴンで目が覚めるのは贅沢なことというべきだろう。

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相変わらずコジュウカラは一度に4つも5つも口に入れ、木の高い枝に運んでいく。(どこかに蓄えているのだろうか)
日差しが暖かいときなどは、
寒いのを我慢して、手のひらに餌をのせて窓から出して辛抱強く待っていると、小鳥が止まってくれる。小鳥の足の感触は小さくて軽くてとても可愛い。

IMGP3014.jpgたまにはこんなお客さんも

厳冬期、野鳥にはずいぶん慰められた。人間は暑さにも寒さにも弱いのに、あんな小さな小鳥が寒さに適応しているのを見るのはとても不思議で楽しかった。
雪が降りしきるときはどこかでジッとしているのかと思いきや、高い木の梢を追いかけっこみたいに飛び回って遊んでいるように見えた。
雪景色や木だの鳥だのを見ていると気持ちもゆったりする。
こういうものだけは無くなってほしくない、と思う。人が造った建物は壊れてもまたすぐに造れるけれど自然はそうはいかない。
いったん壊れたら再び元に戻るには長い長い年月がかかる。
植林で、「この苗木は20年もすれば立派な木になります」と聞いても、せっかちな私は「遅いな〜」と感じてしまう。
未来のためになることをするのはもちろん必要なことだけど、現在がダメではとても寂しい。
現在も未来も、いい環境の中で生活することが一番。

ライブラリ - 11264.jpg4月2日
今年の初収穫。雪が溶けかかった地面に薄黄緑の顔をのぞかせていたフキノトウ。
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原発の行く末(3) [社会]

新聞記事を読むのがしんどい。
テレビのニュースは、他の事をやりながら、片手間にぼんやりと見ている。
新聞記事の何がしんどいかというと、まず意味がすっと理解できない記事が多い。何やら漢字がたくさん並んだ名称が出てきて、これは何だ、それがどうした、と思うような文が延々と続き、読み終わったあとは疲労困憊、<あ〜時間損した〜読まなきゃ良かった。>と感じることが多い。

何といっても大震災、津波、原発事故、と最大の危機に直面している社会の中に生きている。穏やかに楽な気持ちで日々を過ごせないのは当たり前で、それを嘆くのがお門違いかもしれない。
新聞記事がごちゃごちゃと理解不能になっているのもきっと放射能汚染のせいなのだ。

今日の夕刊(毎日)にも「水田 つもる枯れ草」というタイトルで福島県相馬市の水田跡地で、伸びきった雑草を刈り取って運ぶ農家の人の写真と、「汚泥と細かながれきを取り除くために、草刈り作業が続けられているが、放射性物質の影響で、集めた雑草の処理ができず、枯れ草の山ができるばかり・・」という短い記事が載っていた。

がれき処理も一年たとうとしているが数パーセントしか進んでいないという。
地方自治体ががれきの運び入れを拒否しているという。がれきの中にはただのがれきと、放射能汚染されたがれきがあるが、どれもこれもひっくるめて運び入れは拒否されてしまうという問題があるという。
人々の疑心暗鬼を批判する人もいるが、正確な情報、放射能汚染の処理の見通し、がこれまでほとんど伝えられていないのだから、人々が心配するのも当然のことだと思う。

たとえば水田の枯れ草はどうするのか、ひまわりはどうするのか、処理方法はあるのかないのか。
今、タンクに貯めている汚染水を最終的にどうするのか。タンクに入れないで今でも海に垂れ流しされている汚染水はどうなるのか。(地球の海にあまねく広がってうすまるのを期待しているように思えるが、これを大変なことと騒がれないのは何故だろう??)

毎日、活字にあふれた新聞を読んでも「正解」は決して書いてないので虚しい。
「正解」が書かれていないのは、人々が納得する処理の方法が見つからない、つまり処理できない、ということなのだろう。

それなのに原発再稼働の動きがある。
毎日新聞が行ったアンケートで、原発から半径30キロ圏内の道府県と市町村の首長の57%(142の自治体のうち78自治体)が「条件を満たせば再稼働に賛成」だという。
その条件というのがいろいろ出されているらしいが、
「政府が再稼働の条件、必要な安全基準を示すこと」というが一番多く、次に
「ストレステストが終了すること」
「議会の了承が得られること」
「国の原子力防災指針の改定が正式に決まること」
「福島第一原発事故の原因が究明されること」
「国際原子力機関のチェックが終了すること」
などなど・・
と続いている。

やっぱりこんなに悲惨な状況でも原発はやりたいんだなと、唖然とする。それとも本当は反対だけれど、今まで賛成してきた手前もあるのだろうか。

それにしても「政府が再稼働の条件、必要な安全基準を示すこと」が条件というのは理解できない。ここが一番あてにならない部分で、それがなぜ再稼働の条件になるのか。原発事故の悲劇の収束にこれから何十年かかるかわからない(本当の意味での収束はないでしょう)という現実に直面しながら、
政府が大丈夫と言ったらそれでいい、というのではあまりにもひどすぎる。物事を判断することで自ら責任を取らずにすむようにという魂胆を感じる。
政府が信用に値するかどうかを判断するのが国民の仕事なのだ。

枯れ草の山の処理方法も示すことのできない政府に何を期待できるだろう。(この場合の『政府』というのは、これまで、中心になって原発の推進に関わってきた、政治家、官僚、研究者、という意味ですよ。国の政策に影響を及ぼすような立場にある人たちひっくるめて『政府』ですよ。)
安全基準やら、ストレステストうんぬんの前に、まず、今、直面している汚染物質の処理をどうすべきかでしょう。

「福島原発事故独立検証委員会(民間事故調)」の報告書というのも新聞で目にした。報告書の骨子が新聞に紹介されていたが、事故後の政府対応についてのどうでもいい(と私には思えた)報告を、仰々しい言葉で述べているだけのようだった。
一番肝心な、「原発は人間がコントロールできるのか」といった根本的な問題の検証をするつもりではないようだ。
ところで、民間の検証委員会というのはよくわからない。一般人が良心的な委員会を作って原発事故の検証をしてもマスコミに取り上げられるはずがない。
新聞の一面に取り上げられるくらいだから、この民間事故調というのはなにがしかの権威を持っているのだろう。どこから得た権威なのか??よくわからない。

原発事故から一年経ったのだ。放射能汚染物質の処理方法だけでもはっきりした形で示せないものか。処理方法について、専門家のあらゆる見解、「こういう方法がある」「これはできる」「これはできない」・・・を人々に示し、国民も考えることに参加できるようにすべきだ。
それは民主主義ではもっとも普通のやり方だと思うが、一向にそういう事がなされないのは、多分、国民に選択をさせたくない(考えさせたくない)からなのだろう。
考えるための材料を見せないようにしているのだろう。

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雪の中で暮らす [雑感]

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新潟の豪雪地帯に住んでいる知人が、雪国というのは燃料費(除雪機などの設備も含め)が莫大にかかる、とこぼしていましたが、確かに雪の中の暮らしは大変です。
同じように雪に覆われていても、単に寒さが厳しい地域と、豪雪地帯とでは、大変さも少し違ってくるようです。

私のいる辺りは、長野の標高1100m の山中ですが、それほど雪が多い方ではなく、本格的に雪が降り始めるのは12月末頃から。
今年も12月下旬になって毎日のように、数センチ〜10センチほどの積雪があり、少しずつ雪が深くなってきました。

雪は急にどさっと降る時があり、こういうときは、外出先で2時間ほど止めてあった車が雪にすっぽり包まれてしまい、道路もあっという間に新雪が深くなり立ち往生します。
この間は、家からほんの数メートル手前で車が雪に巻かれて動かなくなってしまいました。結局、家までシャベルを取りに行って雪かきするしかなく、10分ほど汗をかいて何とか家に入ることができました。(家の前でよかった〜)

その次の朝、車のバッテリーが上がってしまい、年末にひいて直った風邪をぶり返し、おまけに灯油も残り少ないことに気がつき・・という最悪の事態に。
幸い、食料は正月用にかなりあったので、ひたすら省エネにし、家に閉じこもりました。
雪の中での暮らしというのは常にこういう危険と隣り合わせ。

風邪をひいていても、多少の雪かきは毎日しないとなりません。どうせすぐまたすぐ積もってしまうのだけれど、放っておくと家の出入りも困難になる。空から降る雪と、屋根からすべり落ちる雪で、あっという間に入り口が埋もれてしまう。少しでも雪かきをしておくと多少はちがいます。

この雪かきというのはものすごく汗をかくのです。外に出るとき寒くないようについ厚着をしてしまうのがいけない。5分間で汗びっしょりになってしまう。逆に言えばこれは相当エネルギーを消耗している、ということで風邪にはまったく良くありませんでした。

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雪の中の生活は厳しいけれど、雪が降りしきる白と灰色のモノトーンの世界の美しさ、晴れたときの空の青さと白い雲、真っ白な銀世界、の美しさは、魂が吸い込まれるようで、「こんなにきれいなんだから・・ほかには何にもいらないな・・」という気持ちになります。
月が冴え冴えと輝き雪の上にくっきりと木立に陰を描いている夜も本当に美しく、寒さも忘れ、「こんなにきれいな物があるんだから幸せだと思わなければ・・・」とやはり感じるのです。
『美しさ』は『大変さ』とひきかえなんですねぇ。

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目標は30年先 [雑感]

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やはり自然界の美しさには圧倒されます。
人はなぜ「美」を感じるのか?何かを見て「美しい」と感じるこの感情は生物学的にはどういう理由があるのか。考えると不思議です。
「きれいだな〜」と感じるのは万人に共通しているようですが、「これからもずっとこの美しさが見れるといいな」とか、「いろんなところがこんな風だったらいいな」と思う気持ちは、人によって突然変わってしまうようで、これもまた非常に不思議です。

「水に流す」という言葉が示すように、不要なもの、ゴミなどを、昔はけっこう川に捨ててしまう人がいて(今でもいますが)、これは、自分の目前から見えなくなれば取りあえずいい、という考え方から来ているようです。
ゴミはゴミでも土に返る物もあれば、いつまでもどこかに残っていて、そのどこかは汚らしい様相になっていたり深刻な事態になっていたりするのですが。
ふんだんに豊かな自然に囲まれていた時代は、ゴミを川に流すということも、わりとおおらかに考えられていたかもしれないです。

地球上に人類が爆発的に増え、物質文明がここまで進んでしまった現代は、ゴミの処分がものすごく大事な課題です。それはなんとなく各自が考えていくような問題ではなく、きちんと教育によって伝えられなければならないことだと思います。
学校教育に限らず、いろいろな場で、先人が後世の人に伝えていかなければならない問題です。

教育が行政の管理支配下に置かれていれば、「環境を守ること」あるいは「環境を破壊すること」すらも正しくは教えられないでしょう。(上滑りに教えたのではだめだと思います、熱意を持って伝えなければ子供はスローガンを覚えるだけです。)
「平和」は教えられるのでしょうか。誰にも気兼ねなく教えられるのでしょうか?

教育と医療のどっちが大切かと言ったらそれは「教育」だろうと、言い切った人がいましたが、なるほど、そこまで言わないと教育の大切さは一般には伝わらないのではないか、という気がしました。
今の時代の子育て、本当に難しいと思います。
大人自身も日々成長(あるいは変化?)し続けているわけで、このところ、我が身を振り返ってもどうしても悲観的になってしまうことが多いのですから、子供の成長にははなはだ良くないという気がしています。

あまり遠い未来のことはわからないにしても、せめて30年先の社会がどうなるかを考えていくこと、30年先がひどいことになっていないように身近なところでも意識的に努力すること、が大人の果たすべき責任だと思います。


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2011年の終わりに [雑感]

最近 12 カ月間 - 0077.jpg

いろいろ書こうと思っていましたが、もう12月30日です。
あとは新年になってからにします。

テレビでは「この一年を振り返って」の番組が頻繁に流れていますが、わざわざ悲惨な報道を見たり聞いたりするまでもなく、誰もが、大震災、震災からの復興の問題、原発事故の行く末、普天間基地問題、景気の低迷、という状況の中で悩みながら生きています。
先日の沖縄県辺野古の環境影響評価書の強引な押しつけ。年も押し迫っているというのに最後の最後まで政府の強引な政策押しつけ。
これじゃ、一年のまとめも何もあったものじゃない。
悪いことは果てしなく続いて行きます。

大震災の悲劇や原発事故の深刻な被害を報道しながら、原発をこれからどうすべきかという問題に、メディアは真剣にせまっていない。現状の深刻さを訴える被災者の声は報道されるけれど、「もう原発はやめると約束してほしい(それが本当の反省というものでしょう)」という声は流れない。
そういう発言は報道するときにカットされているのかもしれないけれど、聞いている側は何か釈然としない気持ちを持たされる。

沖縄の基地負担を取り上げながら、辺野古は無理だし普天間基地をこのまま膠着してはおけない、とみんな言うけれど、じゃあどうするのか・・?「政府はちゃんとやれ」というだけで、どうすべきかは報道していない。

まったくのど素人の私は、どこにも行き場のない米軍には、日本が解決策を見つけるまで、取りあえず米本国に帰ってもらえばいいんじゃないの・・と思うのですが。

民主党は人々を期待させた政策を何もかも尻つぼみにしてしまい、本当にがっかりしました。かといって期待できる政党、政治家も見当たらないから、ぼんやりした不安感があるのみです。

元気を出そうと久しぶりに宮崎駿の「ハウルの城」を見て過ごした。(繰り返し観て楽しめる作品を創る宮崎駿はやはり本当にすごいです。)

「火」のカルシファーが言う。
「おいら、火薬の火はきらいだよ。奴らにはマナーがないからね」

そうそう。政治(およびメディア)に圧倒的に欠けているのか『マナー』なのだと思いました。
「核燃料や戦闘機はきらいだよ。あれらにはまったくマナーが欠けているからね」

でたらめな環境アセスメントに、不要なダム造り・・・こういうことも人と環境に対するマナーがないから強引に進めることができるのでしょう。

「文明時代」と言われながら、未だにマナーを大事にする社会にならないなんて・・一体どうしてなのだろう?

ということで今年の「ブナの森とふくろう」は終わりにします。
初詣というのはしない私ですが、もし出かける機会があったら、マナーが大切にされる社会になるよう祈ることにしましょう。
厳しい時代を生きていくみなさん(私たち)、身体を鍛えてがんばりましょう。

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2011年を思う(2)教育 [教育]

教育については、ほとんど関心が向けられなかった年だった。
実際、それどころではなかったのだ。
あれだけの大災害に見舞われたのだから、被災者を救うことに国として全力をかたむけなければならないのは当然のことで、これまで大きく取り上げられていたこと、失業や派遣労働の問題、医療福祉の問題、そして子ども達の教育の問題は、かすんでしまった。

被災地の失業問題が非常に深刻に取り上げられるが、だからといって被災しなかった地域での失業問題がなくなったわけではない。自殺者も相変わらずの多さだ。
安心して穏やかに暮らせる社会、というのはますます遠ざかっている気がする。こういう社会において、教育はどういうものになっているのだろう。

大阪新市長は、某テレビ番組で「競争が大事、競争に打ち勝ったからこそ、あなたも私も今こうしてテレビに出演して話している」といきまいていた。「でも、競争に落ちこぼれてしまった人は、私は助けますよ。」などと言っている。
なるほど、よく頭と口が回る。競争第一を唱えるながら落ちこぼれのめんどうを見る、と言うのはまったく傲慢な態度で人をバカにしている。

私はこれまで大阪府元知事の言動を注目して見ていたことがない。どう見てもテレビ人気にあやかった政治家という感じだし、一度テレビ番組で、高校生相手に教育談義をやっていたのを見て、あぁ、この人は高校生にまともな説得力ある話すらできない人だな、と思った。
女子高生が私立高校の助成金を減らされたら困ると訴え、かの知事はただ「そう思うならアナタが大人になって政治家になってやって下さい。」と言い、その高校生は涙ぐんでいた。
こんな返答しかできない元知事が、なんだかテレビでもてはやされているようでやたら名前を聞き、うさんくさい名前の会を立ちあげたりしているようだったが、そういう情報は意識的にシャットアウトしていた。

教育に焦点が当たらなかった年だが、教育界は一体どうだったのだろうと思い返した。民主党政権には教育面で少しの期待もあったのだが・・失望感しかなかった。
そして話題になっている<維新の会>とやらの大阪府教育基本条例骨子を読んでみた。
きちんと読んだのは初めてだったが笑ってしまった。
ちょっと覚え書きとしてその骨子を書いておくと、

・知事が教育委員会と協議し教育目標を設定
・府立高全校長を公募
・3年連続定員割れの府立高は統廃合
・学力テストの学校別結果を公表
・保護者などの学校協議会が校長・教員を評価
・2年連続最低評価の教員は分限処分(免職を含む)

唖然とする内容だ。今になって唖然としている私は遅れているのだろうけど、最近はとにかくニュースをあまり見たくない新聞は読みたくない、状態だったので、今頃驚いている。すべての項目に唖然としてしまう。
これらすべての項目にいちいち意見を述べるのもばかばかしい。
ともかく言えるのは、教育の憲法と言われる教育基本法をまったく無視した内容だということだ。無視というより真逆の内容。

教育基本法は安倍政権で改悪されてしまい、もともとの基本法の精神に、それに反するような内容の項目を無理矢理につけ足してあるので、部分的に読み手が好きなように解釈できてしまう。
いたるところ矛盾があり、都合の良い所だけ使えばいいという感じで、おそろしくぶざまな基本法に変わってしまった。

大阪府教育基本条例は、おそらく《教育行政は、国と地方公共団体との適切な役割分担及び相互の協力の下、公正かつ適正に行われなければならない》という部分を念頭につくった骨子なのだろうが、この条項の最初には実は、
《教育は、不当な支配に服することなく、この法律及び他の法律の定めるところにより行われるべきものであり、》ときちんと書かれている。

「不当な支配」というのは戦時中、学校教育が国家権力によって徹底的に介入され利用されてきたことをあらわしている。「不当な支配に服することなく」というのは、そういう政治的な利用から教育は守られなければならないことを言っているのである。(現場の教員が「今の学校現場に、不当な支配をはね返す力は残っていない」と言っていた。)

また第二章には
第九条  法律に定める学校の教員は、自己の崇高な使命を深く自覚し、絶えず研究と修養に励み、その職責の遂行に努めなければならない。
2  前項の教員については、その使命と職責の重要性にかんがみ、その身分は尊重され、待遇の適正が期せられるとともに、養成と研修の充実が図られなければならない。

とある。
教員をお互いに競わせるなどという考えがどこから生まれるのか、まったく不思議である。

競争というなら、この住みにくい社会で、人々は否応なく、どっぷりと競争にまきこまれている。その競争は具体的にライバルや商売敵と行われることもあるが、もっと大きな組織、社会の枠組みと戦わなければ生き残っていけない。毎日が自分と戦ったり、世の中と戦ったり・・要するに「競争」している。

このような社会で、一体なぜ「競争」を強調しなければならないのか。また、する必要があるのか。
つまりは、うだつが上がらないのは競争に負けたからだという評価を与えることで、組織や社会の枠組みの欠点、不備をぼやけさせる魂胆ではないか。
大阪府教育基本条例には、それが丸見えで、こういうことをやらなければ、学校教育はうまくいきますよ、という見本みたいなものだ。

こういう競争奨励のようなものを、「なかなかいいんじゃない」と思ってしまう人が意外と多い。ダメな教員をあぶり出すのもおおいにけっこうと思ってしまう人がいる。こういう考えは、社会不安の原因を教育のせい(つまりは教員のせい)にしてしまうとすっきりするから生まれるのだろう。

「教育とは何か」など、一般の人はほとんど深く考えない。
それこそがプロの教員が真剣に取り組む問題なのである。
学校にも時には客観的にそこで行われている教育を見つめ直し、新風をふきこむことは必要かもしれない。しかし、日々膨大かつ細々とした仕事に追いまくられ毎日無給残業で疲れ果てている教員にはそれは大変難しいことだと思う。
だからと言って、シロウトのどこかの誰かさんがやれることではなく、それはプロの教員にしかできないのだ。
<教員の適正な待遇>、<養成と研修の充実>が教育基本法に記されているのはそのために他ならない。

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2011年を思う(1) [社会]

大変な年であった。
解決にほど遠く、「一年を振り返って」というようなまとめの感想はとても持てない。進行中の一つの点の上にいる。
原発事故というのは改めて言うまでもなく、決して起こしてはならないものだった。人の創りだした物に事故は必ずあるもの、であることを思えば、原発は持ってはならないものだったということだ。

土地が、水が、作物が放射能で汚染されていることをどう考えたらいいのだろう。人体に影響がない放射線の基準値が常に話題になった。
まず、情報開示すること。そして、正しい情報を得るために、細かくまんべんなく繰り返し放射線を測定すること。
これらのことは人々が安心する上で最低限のことである。
でも、とてもじゃないが十分に行われているとは思えず、それが「風評被害」なるものを作りだしている、という批判もよく言われる。

でもれだけなのだろうか。きちんと検査をして政府の示す許される基準値以下ならその食物は問題はないのだろうか。
私にはどうもそうは思えない。私たちが望むのは、放射線量が基準値より下回っていることではなく、ゼロであることだからだ。
放射能は自然界にだって存在する、と強調する人がいる。自然界に存在するものは仕方がないだろう。われわれ人間も自然の一部であるのだから。
だからと行って自然界にもともとあったわけではなく、人の手によって生み出された余計な放射性物質を、触ったり、口にしてもいい、などと考える人はいないだろう。
他に食べるものがないならばいざ知らず、他所から手に入るならば、放射線量ゼロのものを選ぶのが人情である。

被災農家を応援するために年寄りは進んで食べよう、ということも言われる。もっともだとは思うが、よく考えればこれも片手落ちのおかしな話だと思う。
<人類は大失敗をしてしまった。今後は一切こういうことがないようにする。核燃料を安全に処理するやり方がわからない以上(そんなものは永遠にないように思うが)、一切の原発は止め、廃炉にし管理をしていく。>
そういう風に国としてきちんと原発に決別するということならば、年を取ったものは放射性物質が多少入った物を口にすることをがまんし、子供や若者だけには安全な物を食べさせてやろう、ということにも道理はある。

ところが、これほどの惨状を目の当たりにしながら、原発にきっぱりと背を向けることもできないでいる。そうしたくない人たちがいる。
そうしたくない人たちが、「神経質になりすぎるな」「直接人体に影響があるわけではない」「基準以下だ」などと言っている。ばかばかしい話だ。

先日の毎日新聞に、原発事故の2週間、菅直人前首相の指示で、内閣府原子力委員長(近藤俊介氏)が「(原発事故の)最悪シナリオ」を作成し、菅前首相に提出していたという記事があった。1,3,4号機で相次いで水素爆発が起き、2号機も炉心溶融で放射性物質が放出されていた。「最悪シナリオ」は、1〜3号機のいずれかでさらに水素爆発が起き、余震も続き4号機の使用済み核燃料が全て溶融した、という仮定。
そうなった場合、原発から170km圏内がチェルノブイリ事故の強制移住基準に達する(土壌中のセシウムが1平方メートルあたり148万ベクレル以上)。そして東京都のほぼ全域や横浜市までふくめた250kmの範囲が避難が必要になると。
「避難対象は首都圏、千葉、埼玉、群馬、新潟までをふくめ3000万人になり、国として機能しなくなるかもしれないと思った」と菅直人が退任後の記者会見で証言したそうだ。

確かにこういうことも起こり得ただろう。そう考えると、福島第一原発の事故は、これまでに日本人が直面したことがない(想定外の)悲惨な事故であり、この事故の収束に一体何十年かかるか(そもそも収束とはどうなることか)、すでにどの位地球を汚染してしまったのか、これからさらに汚染が進むのか、全くわからない状態であるが、「これよりももっと大きな事故にもなり得た」あるいは、ほんの少しは「この規模で済んだのは不幸中の幸い」とでもいう見方もできるということなのだ。

もういい加減「地元住民」という考えはやめてほしい。人間にとって、自分の家族や身近な人たち、地域、は確かに一番大切なものであるが、これまで本当の意味で大事にされてきたとは思えない気がする。
「地域」「地元住民」という言葉は、いつも都合良く政治(経済)に利用されてきたのではないか。

原発問題もダムの問題も基地の問題も本当によく似ている。みんながそれを感じている。感じているなら「いい加減にしろ」と怒りの声を挙げられないか、と思うが、「生活」を持ち出されるともう何も言えない。「目先の利益にまどわされず環境を守り、善く生きる道を選ぼう」などと、なかなか他人に言えるものじゃない。

この間テレビで、自然保護を国の指針とした観光によって国の経済を成り立たせているアフリカの小さな国「セーシェル共和国」を紹介していた。インタビュアーがその国の大統領(?)に、東北大震災の復興についてアドヴァイスを求めたら、「あのような大災害から復興しようとしている日本の人々に敬意を表します。」との前置きの後、「このこと(災害)を機にし、国を守るためには、まず環境を守らなくてはならない、ということに気がつかれたらどうでしょうか。」と言われていた。
本当にそれがもっともシンプルで正しい考えだと感じる。


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「防衛局長の発言」をめぐる発言 [雑感]

米軍普天間飛行場の名護市辺野古への移設に向けた環境影響評価(アセスメント)の提出時期を巡っての田中聡沖縄防衛局長の発言がニュースに流れた。
こんな風に思っているんだな、悪いこと(人の道にはずれた)をしているという自覚は十分あるのだ、悪いことをしている自覚があって悪いことをするのだから根っからの悪人なのだろう、悪人というのはやはりいるのだ・・こういう人が社会的に高い地位につけるのだから悪人はかなり大勢いるということになる、いつも仲間内で話しているようなことを記者の前で言ってしまったから、関係者はみんな大慌てで怒りまくっているだろう・・と、私の感想はこんなところだ。

さてその防衛局長発言に対する様々な反応は、与党野党の発言をふくめ報道の仕方も不可解ではっきりしない。
インタビューで、「言語道断」「当然、罷免されるべきことだ」と怒りを現した、短いコメントが紹介されるだけで、何が問題なのかを言わないから本当はどう思っているのか伝わらず不可解なのだ。
「言語道断」とは、一体何のことを指しているのか。
物の例え方の卑しさについてか?
それとも隠しておきたい沖縄県民に対する差別がわかってしまう発言をしたことなのか?

政治家や報道マンやその回りのいろんな人が、防衛局長の発言は沖縄県民の尊厳をふみにじるもので絶対に許されないことだ、と言っている。
私は、防衛局長のこんな発言などで、沖縄の尊厳がふみにじられるものではない、と思う。
こんな、一人の卑しい官僚の、卑しい発言なんかで、他人をふみにじることなどできないものだ。
女性蔑視だと言う人もいる。こんなくだらない発言で女性は蔑視されるものではない。(言っている本人は女性蔑視観が習慣化しているのかもしれないが)私に言わせれば、こういう発言をする男はただ卑しいだけでむしろ哀れなのである。こんな風な考えを持って生きていることが哀れである。

許されないのは(沖縄県民の尊厳を踏みにじるのは)、防衛局長が比喩として使った言葉で現されるような、まさにそういう人の道にはずれた政策を巧妙に強引に沖縄に押しつける事に他ならないと思う。

与党も野党もきちんと意見を述べることができる人はいない。世間の問題になりそうな発言をしたということを、「言語道断」「即、罷免だ」と口々に叫びたてる以外のことは言えない。同じ穴のムジナなのだから。

辺野古の環境アセスメントは理にかなっているものなのか、正義が貫かれているかどうか、をマスコミは問題にすべきなのである。

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「経済」について [雑感]

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夏、秋から冬へと一足飛び、もう雪の顔を見る時期になってしまいました。
9月半ばまで暑さに苦しんでいたのが嘘のようで、人の社会がどうであろうと自然の移り変わりは容赦なくすみやかなものだ、と感じます。

私の目に映る社会の動きは相変わらず膠着状態・・・原発問題がどうなるのかはっきりしないまま、「経済」「経済」の大合唱、と見えます。
社会で起きるさまざまな問題を計るのはこの「経済観念」なのだと痛感します。
世の中に、「経済」をもっとも重視するという人が多ければ、世の流れは「経済」に焦点を合わせて進むのでしょう。多くの人の考えで世の流れが決まり、言い換えれば、社会の様相を見ればその社会の構成者である人間がどういう考えを持っているのかがわかるということになります。

今「生活の発見」という本を読んでいますが、これが半世紀以上も前に書かれた本だとはとても思えない普遍性があり、共感できます。
(林 語堂 著 / 阪本 勝 訳 1966年初版発行 角川文庫、原作は1937年ニューヨークで出版された)
たとえば、TPP 問題のニュースを見ていて不思議に感じたのは、識者の意見が賛成反対と真っ二つにきれいに分かれていたこと。
様々な言い分が同列に並ぶ問題なので、この人たちにとってはこうが良く、あちらの人にとってはああが良く、むずかしいものだな〜・・結局よくはわからない・・というのが普通の人の感じ方ではないかと思います。きっぱりこっちだとなぜ言い切れるのか?
私は経済のことはサッパリわからないので、賛成か反対かと聞かれたら、直感に頼るしかないという情けない状態です。

「生活の発見」の 《第四章 五、 人間性の気まぐれと無軌道について》の中で著者が「経済学」について述べている箇所があります。

<・・・現代においては、人間が人間的反抗性を忘れてそれを喪失し、個人の威厳を見失いつつあるのは、当然のことだと思う。他のあらゆる形の人間的思考を圧倒する経済問題と経済思想ががんばっているために、もっと人間味のある知識や、個人的生活問題を対象とする、もっと人間味のある哲学に対し、われわれはまったく無知になり、無関心になってしまっているのである。けだし当然のことであろう。胃潰瘍の患者が、二六時中胃のことばかり考えているように、経済疾患にかかっている社会は、いつまでたっても、経済のことばかり考えている。ところがその結果、個人というものにぜんぜん無関心となり、自分の存在をほとんど忘れてしまうことになる。・・>

<・・・おそらく私には経済学はわかるまい。しかし、経済学もまた私をわかるまい。経済学が今日なお焦燥をつづけ、科学として一本立ちできないのはそのためである。すなわち人間というものから離れているからである。・・・>

そして、「経済学」というのは人間的動機からはなれるがゆえに科学ではなく、人間的動機の探求に突っ込んでいけばなおさら科学ではなくなる、統計学的平均値によって人間的動機の探求に進むとなれば、せいぜい疑似科学に堕ちるだけ、と著者は言います。

<重要な経済的手段が採用されようとするたびに、二人の経済専門かないし権威者が、まったく正反対の立場に対立するのはそのためである。>

「生活の発見」を読むうちに、経済のことがわからない自分を不安に感じる必要は全くないのだと思い、ちょっとほっとしています。

もちろん経済生活から人は逃れられません。が、「そこそこ食べていける生活」からはるか離れた地点で胸算用をしている人たちの考えが社会に大きな影響力を持っている、ということが普通の人の理解を超えてしまう原因となっているのでしょう。
人間が物事を自分で判断しやりくりできる範囲というのは、非常に小さな単位、エリアの中だと思います。国の単位まで大きくなれば、もう複雑になってしまい、まともな判断ができるとは思えません。(「風が吹けば桶屋がもうかる」くらいの理解力では・・。)
経済がそれ以上の範囲まで広がったら(実際、とっくの昔に広がっているのですが)、ふつうの人には到底理解しがたく、手にあまる問題です。
グローバリズムが個人の精神状態を非常に不安定にするのはそのせいではないかと思います。

一方、原発事故の問題は非常に狭くて身近な場所での問題です。自分が住んでいる地域の空気、土、水が汚染されているかもしれない、ということは、その緊急性、緊迫性をいくら言い立てても大げさなことではないはずです。
福島から2,300km離れた長野ですら、幼稚園などの落ち葉たきの焼き芋大会が中止になりました。
この一番大事な身近な問題をどうするのか。

林語堂は、ある問題か危機にのぞんで行動する国民性を「民族的気質」といいます。

国の「運命」というものは、ただ国民の行動にのみ認められ、国民の最終的進路を決定するのは、一種の選択問題であって、
<あるものを取り、あるものを捨て、あるものを嫌うという問題に帰する。あるものがもう少しほしいとか、いやもう十分だとかいう意思を明らかにする国民の決意である。・・・結局、すべての国民は、その好むもの、その感情にぴったりくるものを取って進み、我慢ならぬものは捨てていくからだ。こういう選択は、国民の思潮と、一連の道義的感情と、社会的好悪にもとづいておこなわれるのである。>

物事が決まるのは、それを望む人が多数かどうかということであり、多数者の意見が自分から見て正しくない、と思えることであっても決まっていきます。
さて、日本人の気質って・・どうなんだろう・・?と、考え込んでいます。



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実りの秋に [雑感]

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今年は長野の山中の栗の木が豊作で、散歩途中にいくらでも拾えた。
大きなハナイグチも家の回りの何気ない場所に生えていて、『収穫の秋』を感じる。
育てる苦労をせずに、自然に食物が手に入るというのはとても嬉しい。
栗は毎日ゆでて食べ(食べ始めるととまらない)、キノコはきのこ丼にしたりスープにしたり、それでも食べきれないので佃煮にした。

多分このキノコにもセシウムがついているんだろうな、と思いながら食べた。
その話をしたら、ある人が「そうですよね。みんな神経質になりすぎだと思いますよ。ガンになると言うならタバコの方がガンになる危険が多いでしょう。」と言った。
ぎょっとして、「放射能の影響は、現代の医学ではまだ解明されていないから怖いんじゃないですか。自然環境にどういう影響を及ぼすのかだってまだきちんとわかっていないから怖ろしいんですよ。」と言うと「そうですねぇ」と相づちをうつ。
「第一、20年、30年、40年先のことを誰かが責任もって補償してくれると信じられますか。」とたたみかけると「本当にそうですね。」

この人は原発に賛成なのか、反対なのか、どうもわからなくなってくる。

いつも不思議に思うのは、人の考えというのは、論理的に正しいものに傾くとは限らない、ということだ。
原発の事故の処理だって、除染で出たがれき(高放射性廃棄物)や汚染水はどうするのかさえ、まだ決まっていないのだ。
政府と東電は震災から半年以上経ってようやく(17日に)収束の工程表の改定版を発表し、放射性汚染水の地下水への流出を防ぐ遮水壁(地下ダム)工事を今月末に着手することを初めて盛り込んだという。
原発事故が起きてからずっと、地下には汚染水がにじみ出て海にもどんどん垂れ流し状態だったことはあまり大きく報道はされていない。
でも、汚染されたものをどうするか決めないことには除染も進められないことは、誰だって気付くことだ。

新聞に(うちは毎日新聞だけれど)原発事故の被害に関するニュースや意見が載らない日はない。特に毎日新聞の「記者の目」はいつも若い記者が正論をきちんと述べていて心強いし、原発事故の深刻さは毎日報道されている。
その一方で、「反原発は間違っている」などという意見広告がどこかの大手新聞に載っていたりする。

今回の原発事故で誰もがわかったこと、

原発に絶対安全はない。
一度事故を起こしたら被害の大きさは計り知れないほど深刻。
人間は原子力をコントロールできない。
何十年か後、原発による被害がどう扱われるのかわからない。
今直面している事故をどう収束させるのか、答えが見つからない。
地元に多額の交付金を出すことで原発設置を認めさせている

原発についてこれらのことがわかっていて、今もなお原発を再稼働する、増設を再開する、輸出する、などという考えが、どうすれば出てくるのだろう?
原発の利権を持つ財界や政治家が「自分が生きている間は原発を進めたい」というのはわかる。(次の事故はそうすぐには起きないだろうし、今まで原発にかけてきた金を無駄にしたくはないし、電力会社とはずっと協力し合ってきたし、これからも原発で儲けたい・・と、こんなところだろう。)
私があきれるのは、原発利権には何の関係もないような一般市民の中に「原発を止めるわけにはいかないだろう」という考え方をする人がいる、ということだ。

こういう人は何を基準に物事を考えているのだろうと不思議になる。

例えば、きっと、歩行者をあわてて端っこに寄せさせるような乗り方で自転車に乗っている人にちがいない。左右を全く見ないで自転車で飛び出してくる人は「原発推進派」にちがいない、など、私の思考も感情的にぶっとんでいく。
テレビ報道は見る気がせず、新聞記事を読むのもむなしい。(いくらまともな考えが毎日のように紹介されても何も変わらないとしたら、こんなにむなしいことはない。)

秋の味覚を楽しんでいても、何をしていても、「原発事故」の暗雲は頭の上におおいかぶさってくる。
きっとこのままずっとこういう状態でいくのだろうな〜と思う。
日本の美しく豊かな自然を心から喜び愛でる日はもうないのだなぁ、感じている。

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熱中症 [雑感]

今頃になって猛暑の話ですが・・。

9月になって2週間以上も続いた猛暑にまいってしまった。8月はそれでも暑さに負けないでがんばるぞ、という気概はあったが、もう9月なのにと思ったとたん、暑さと戦う気力は完全に萎んでしまい、ただ、暑さに打ちのめされていた。去年の猛暑は相当なものだったので、今年も9月はひどいだろうと覚悟はしていたが、覚悟していた通りというのも辛かった。
暑さに強いという人が心底うらやましい。
以前、黒柳徹子のトットちゃんシリーズを読んでいたら、アフリカのある場所(毎日50℃以上の気温の所)で、黒柳徹子がスタッフに「今日、ちょっと暑くありません?」と言った。スタッフが「黒柳さん何言ってるんですか。今日は56℃(だったかな?)もあるんですよ!」と答えた、という話を読んだ。やはり黒柳徹子という人は並みはずれている、とつくずく思った。

いろいろな本に暑さのことについて書いてあると、それがいつまでも印象に残ってしまう。著者も書名も忘れてしまうけれど、暑さの記述だけは覚えている。
暑い場所に住んでいる人は寒さには順応できるが、寒い所に住んでいる人は暑い場所には順応できないものだ、という文を読んだときも、すぐさま納得した。
暑い国で日盛りに外を歩くとき、木陰を選んで歩く。木陰と言っても、木そのものが少ないから一本の木の下で次の木を見つける。50m先に木があるが、その50mを進むのに勇気をふりしぼる、というような文を読んだときは、そんな所にいない自分を本当に良かった、と思ったものだ。

今年もこの暑さの中で、運動会の練習をしていた小学生が熱中症で倒れる、というニュースが多かった。こういうニュースを聞く度に、ひどい話だなあ(ひどい国だなあ)と思っている。
学校というのは「国」の土台で、その時代時代の「国の顔」が学校教育を見るとよくわかる。「こういう人間を作りたい」というのが教育基本法であり、具体的には学習指導要領であり、直接的には教育委員会や学校管理職の思惑となって下に降りてくる。

異常な暑さの中で何人もの子供が倒れるような事をなぜするのか。
<「暑い」だの、「寒い」だの子供は言うもんじゃない。少々のことでへこたれるようでは立派な大人になれない。これまでだってこうやって学校はやってきたのだ。行事は絶対に変えられない。子供に過保護はいけない。大事なのは根性だ。根性がないからちょっとのことで倒れる・・。>
これがこの国の教育方針なのだ。
こうやって無理矢理に「根性」を押し付けられ、物事には耐えねばならぬ、と教え込まれる。

熱中症のニュースを聞く度に「原発の国だからなあ」と思ってしまう私だった。
<少々の放射能汚染が何だ。そのおかげでみんな電気の心配せずに豊かに暮らすことができるのだ。原発技術のおかげで経済効果も生まれる。今までこうやってきたのだ。失敗したからと言って急に原発を止めるなんてとんでもない。これまでの研究が無駄になる。少々の危険が何だ。20年、30年後の健康がどうか、などと先の心配をしていてはきりがない。今が大事なのだ。
原発事故の被害を受けた人は不運だったが、人間、生きていれば不運なこともある。多くの人の利益を守るために身を捨ててがんばってもらわなければならない。それが日本人の美徳だ、根性だ。>

と、こんな風に熱中症と原発は私の中で結びついてしまう。
9月の半月におよぶ異常な暑さと放射能で汚れた日本の地、まさに地獄のように感じられた。その間に民主党の代表が変わったりしていたけれど、もう何にも興味がなかったですね。

毎日新聞のコラムで五木寛之だったか、「『国破れて山河あり』という言い回しがあるが、今は『山河破れて国あり』になってしまった。」ということを書いていて、なるほど、そうだなあ、と共感した。
私たちは豊かで美しい山や河を失ってしまったのだ。でも国は続いていて政治家は相も変わらずどうでもいい話を長々とやっている。保守的な「国」だけはしっかり残ったのだ・・。

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「国」という言葉 [雑感]

いつもおかしいなと感じるのは「国」という言葉の使われ方だ。
「国の責任」ということが頻繁に言われる。
「原発事故は国の責任」というのはすごくあいまいな表現だ。
このときの「国」って何を指すのだろう。「国」と言ったらワタシやアナタ、すべてが入ってしまう。すべての人の責任ということになってしまう。
これはちがうでしょう。正確には、原発を推進してきた、これまでの政府与党、官僚、学者、電力会社、の責任でしょう。

そうは言っても、みんな電気を使ってきたではないか、と言う人がいる。これは変だ。
私たちには、原発でできた電気とか火力発電による電気とか、選択はできないようになっているのだ。選択できるなら「原発電力」は私は使いませんよ。

「国に保障を求める」というときの「国」は、私たち全員がふくまれそうだ。「国」ってもともと抽象概念だし、抽象概念である「国」がお金を持っているわけではなく、政府が我々の税金を預かっているだけなのだ。使うのはそのお金だ。災害時に人々が協力し合ってお金を出し合うということは大事だが、「国が保障するお金」というのは、国民一人一人が汗水たらして働いて得た収入の一部を税金としておさめたお金である、ということがぼやけてしまっては困る。

もともと「国」とは、そこに住む人々が作り出したシステムにすぎない。みんなでお金を出し合って、みんなのためになるような事をする、そういうシステムが「国」なのだ。

ところが、国歌(君が代)だの国旗だの、という話になると、突然、歌わない者、不起立者は罰する、などと言い出す奴がいる。ただのシステムである「国」を振りかざしてそんなことを命令するお前は一体何様だ、と言いたくなる。
君が代を歌わない人というのは(私もですが)、国にきちんと税金もおさめ、真面目に働いて、他人に危害を加えず、しかもこそこそ隠れず、自分の考えで、歌わないのである。

法律や条例は所詮、人が作ったものだ。どういう人が作ったかというと、時の権力者、つまり政治家である。たいした得票率がなくても取りあえず選挙で選ばれた人たち。
いったん権力を握るとかなりやりたい放題できる。経済界の大物とつながりを持って、メディアも手中に入れることさえできる。
テレビ番組はどれもこれもくだらないが、みんなくだらないから、それを見る人は、そういうものか、と思ってしまう。知らないうちに感じ方や考え方まで、影響されてしまう。

原発討論会の参加の動員やアンケートでは「やらせ」があった。陰でこっそり「やらせ」に加わったのに何の責任も問われない人がたくさんいる。「やらせ」は詐欺である。しかも、人の命にも関わる重要な問題においての「やらせ」である。
これがどんなに罪深いことか。その後この問題はどうなったのかあまりクローズアップした報道もされていないようだが。
君が代を歌わないことと、どっちが悪いか。(と、これはばかばかしくて比較するのもはばかれるけれど。)
教育基本法を変えたときの「やらせミーティング」についてはその後一体どうなったのだろう。これもお咎めなし、で終わったのだろうか。何といってもそういうことがありながら、『教育基本法』変えてしまったのだから、権力というのは恐ろしい。

「国」という言葉は、悪いことを隠す人間には大変都合がいい。「国の責任」と言ってしまえば、特定の誰かではなく、みんなに責任があることになるからだ。マスコミが好んで「国の責任」という「言葉をつかうのもそういうわけなのだろう。
あいまいな言葉を使うと「何がダメだったのか」がわからなくなり、結局、「何を反省すべきか」もはっきりさせないままに終わってしまうことになる。

どんなにひどいことが行われても、いつの間にか人々のショックや関心が薄まり、元の木阿弥になってしまうのは、日本語のあいまいな面が、うまく利用されているからかもしれない。


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原発という事業の汚さ [社会]

人混みがきらいなのでなるべく近寄らないようにしているけれど、この夏は二度も花火大会を見物する機会があった。
言い古されていることだけど、今年の花火は特に、人の世のはかなさ命のはかなさ、を象徴しているように感じられてもの悲しかった。ちょうど月が右上にあり、打ち上げられた花火は月をめがけて何度も何度もシュルシュル上って行く。そして、幻の華を空いっぱいに描いてあっという間に消え落ちる。
人間界は悲しい。誰もがいつまでも平穏に生きられたら、という願いを持ちながら、病気や不慮の事故で若くして命を落とす人がいる。
心配事をいっぱい抱えて、どれも解決しないまま、命尽きる人もいる。

ただ普通に生きているだけで、悲しいことが多いというのに、「核」などという危険なものをコントロールもできないのに使ってみようする。
そうして事故が起きて悲惨な状態が続いていても、まだ、考え方が変わらない人間もいる。これが人間だと思うと悲しい。

「原発」という事業は、あまりにも汚すぎる。何がきたないといって、それを取り扱う人間たちの精神がきたない。「原発」にかぎらず、「基地問題」にしても「ダム開発」にしても同じ。
経済効果などと人を惑わすようなことを言って、何もかも金の力を使って行うやり方が汚い。「原発」や「基地」の誘致が雇用が生み、町の発展になるなら、それ以上よけいな交付金はいらないはずだ。金のやりとりが人の思考を曲げてしまう。公然とした賄賂を国が行っているのだ。

NHKの番組で、原発事故の後始末に、法の目をすり抜けて不当な条件で作業員を雇っているという話をやっていた。
命を売り買いしている。気持ち悪くて途中で見るのをやめた。
人の命を金で買っているのが、日本の政府や最大手の企業だという事実・・。常識では考えられない。中国の列車事故の後始末のやり方を愚かだと言えない。

この「汚さ」が原発や基地問題の本質なのだろう。こういう汚い事業(?)をどうして認める人がいるのか、理解できない。

泊原発再開というニュースが流れた。
北海道知事高橋はるみ、なにを考えているのだろう。
福島原発事故による社会混乱、不安の真っ直中。まだ何も解決もしていないというのに。
そもそも解決するのかどうかもあやふやだというのに。

悲劇に対する日本人の受け止め方には独特なものがあるように思う。気質の底に「無常観」のようなものがあるのだろうか。「仕方ない」「まあいいじゃないか」「どうとでもなれ」というあきらめ、そしてある種の明るさ・・・これは悲劇や不幸を切り抜けるための、日本人の大きな知恵だと思うが、福島原発事故6ヶ月目に、他の「原発再開決定」はいくらなんでもひどすぎる。

原発事故は他の事故とはちがう。
原発事故が起きてしまえば、原発がある一部の地域の被害だけではすまされないということ。何十年たっても被害地の回復はできそうもないこと。
このことを国民は身にしみてわかったはずだ。

それなのに、はっきりと「脱原発」を認めたくない人がいる。一体、人の命に影響を及ぼすような事業をなぜ推し進めることができるのだろう。たとえ、賛成者が多数だとしても、それはやってはならないはずだ。反対をする少数者の命を保証できないとしたら、これは多数決で決めるような問題ではないということだ。

菅首相が「脱原発宣言」をしたとき、NHKのニュースでは、なでしこジャパンのニュースが最優先だった。これでは、世間は、放射能汚染にも少しずつ慣れっこになるに違いないという気がした。
「そう簡単には原発はやめられない」という人がいるが、まず「やめる」という覚悟がなければ、再生可能エネルギーの取り組みなど、一時の流行のようなうすっぺらなものになってしまうのではないか。
「原発はやめる」という強い目標がまずあってこそ、その目標に向かって最大限の努力も始まるはずだと思う。

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終戦から65年目の悲劇 [社会]

8月になった。原爆記念日と終戦記念日の月。
終戦から65年、東日本大震災と福島第一原発事故からは5ヶ月になる。
世界で唯一の被爆国である日本が、終戦から65年目に原発事故で再び放射能汚染によ苦しむことになった現在。
戦争による放射能汚染ではなく、「原子力の平和利用」による放射能汚染。
汚染の規模は桁はずれに大きい。取り返しがつかない。

放射能汚染による被害の報道は広がるばかり。被爆の実態が徐々に明らかになってくる。水も米も野菜も肉も魚も、何もかも汚染の心配をしなければならない。
東北地方の生産物の「風評被害」が問題になっているが(非科学的でナンセンスな風評被害はあるとしても)、被害の実態は「風評」などはるかに超えて深刻だろう。
放射能汚染は200km圏を超えて広がっているのだから。
こんなに広い地域の生産物を、一体どうやって細かく調べられるだろう。範囲を区切ってその地域の一カ所を調べ、そのサンプルが安全だからと言って、その辺一帯のものは全部大丈夫と言い切れるのだろうか。サンプルをごまかして低い数値のものを発表したりしないだろうか。

スーパーで買い物するとき、自分一人ならどうでもいいや、と居直れるが、小さな子供の口にも入るとなると、すごく神経を使う。今までは「国産」がいいと思っていたのに、今は「外国産」の方がまだ安心か、と迷っている。
買い物で私があれこれ気にしていたら、「そんなの気にしたって遅いよ。もう我々は十分に汚染されているよ」と言う人がいて、そうだろうな、と思った。

核の恐ろしさを十分わかっている国が核を持ち「平和利用です」と言い、原発を造ってきたのは、本当にグロテスクなことだ。
「平和」と言う言葉を、簡単にある言葉の前につけてはいけないのだ。「平和利用」とは「平和のための利用」という意味しかないはずだが、まったく逆の結果をもたらした。
核を「商業利用」して、原発で金儲けをした人はたくさんいるだろうが、一般の人は、大きな脅威にさらされながらそれを知らずに、のんきに生活していた。
原発推進に使われた「平和利用」という言葉は、その絶対的な危険性(『人類および地球上の生命体にとっての絶対悪』)を非常に巧妙に隠してきた。多少とも良心が疼く人は、「必要悪」という言葉を都合よく使っているようだ。

「危険は危険」「悪は悪」で、それを平和という言葉でくるんできたことはものすごいことだ。こんな非道なことは他にないだろう。こんな罪深いことはないだろう。

ある人が「私はもともと原発には反対でしたが、一応見てみようと『原発見学ツアー』に参加したら、原発推進派にちょっと変わっていました。」と言っていたから恐ろしい。
「原発は安全」という信仰はいろんな手段を使ってものの見事に作られてきたが、人は、本当は安全ではないと知っているからこそ、「国が安全を保証してくれるなら」と、自分の責任を捨て(思考ストップして)、他に責任をゆだねてしまうのだろう。

福島原発の事故の結末はどうなるのか。数十年経てば何か回復の兆しはあるのか、それとも数十年経ってもこの先どうなるのかわからない状態なのか、見当もつがない。
こういう惨い事態に直面していてもまだ、「仕方がない、原発を止めるわけにはいかないだろう」と言う人がいることが不思議でならない。

朝ドラで、終戦を迎えたときのシーンを見た。若尾文子がセリフで、世の中急に「民主主義」を言い出したことについて、「いやだったわ、私。 こういうときに『鬼の首』を取ったみたいに言う人っているでしょ。『それみたことか』って・・。私、そういうのはきらいなの。」
(セリフはちょっとうろ覚えだけれど確かこんな感じだった。)
若尾文子のちょっと鼻にかかったこのセリフは、けっこう強烈な印象だった。
震災で原発事故が起きてしまったときも、若尾文子のセリフみたいに、「こういうときに『鬼の首』を取ったみたいに原発反対を叫ぶのは良くない」みたいなことを言う人がいて驚いたが、あれと似ていると思った。

『鬼の首』って何? 戦争で勝った日本人っているの?
今回の原発事故で勝った日本人ているの? 原発反対者は勝ちましたか?
日本人みんな負けたんではないの、と思う。

国土を汚染され、見えない放射能にこれまでもこれからも脅え、国土のみならずよその国や海まで汚染して、もうこれ以上の「負け」は無いでしょう。

日本人の多くは「原発はもうこりごり」と思っているだろう。まだ原発を続けると言う人は、「原発事故はすぐには二度目は起きないにちがいない。安全点検をして国が安全だと宣言してくれれば、まだ続けていける。少なくとも自分が生きている間にはそうひどいことは起きないだろう」と考えているのだろうか。

新たな「安全点検」などと言っても、たいしたことはできないだろう。実際に地震を起こす実験はできないのだから。それに「安全点検」は当然、毎日行われているはずのものだろう。
「安全点検してくれるなら」と、また国に判断と責任をなすりつけている。

戦後60数年の間にいったい日本人は何を学んできたのか、と、どこかの誰かに責められたとしても不思議はない。責めらて当然だ。
ところが、そういうことを言ってくれる「どこかの誰か」は、非常に少なくて遠慮深くて、力もなく目立たない。世界中見渡したって、どこの国も、どこの誰も(私も)、みんな脛に傷を持つ人間ばかり。だから徹底的には他人を責められない。「悪」を糾弾できない。だから「悪」はのさばる。

平然と他人を責めることができるのは、もっとも腐敗した世界に身を置く政治家ばかり、というのは何とも皮肉なことだと思う。

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蛍飛び交う / 巣箱のその後 [環境・自然]

IMGP0021.jpg蛍の生息場所

7月30日に家の周りでホタルが飛び交い始めた。
ここから50mほど下の場所では一週間前に今年はじめてのホタルを見たので、そろそろかなと思っていた。標高50mの差は、案外に大きな環境差となる。
気温も湿気も違い、梅や桃や桜が開花するのも一週間遅れ。

いきなり飛び交い始めたホタルは感動的だった。
光の点滅の速度からいってゲンジボタル? それとも両方かな。けっこう速い点滅もあるし・・。
ホタルの動き方は神秘。フワフワただよっているかと思えば急降下したり、あるいは花火の残り火が落ちるように弧を描いて静かに下に降りたり・・。時々はまっすぐ水平にす〜っと流れるように飛んでいく。これがかなりのスピードで驚く。どんどん木の上の方に上がっていき、急に光がみえなくなったかと思うと、思いがけない場所にポッと光が現れる。まるで遊んでいるように二匹で一定の距離を保って飛んだりもしている。
また地面でも草むらの陰でホタルが光っている。これは地蛍のよう。
間近で数えられたのは8匹ぐらい。


さて、中をきれいにして再び取り付けた巣箱だが、そのうちの二つの巣箱にはまたシジュウカラが入った。一つの巣箱で7月21日から餌を運ぶシジュウカラの親鳥の姿が見られ、最近は餌運びの回数も増えて来た。7月20日頃ヒナがかえったのだとすると巣立ちは8月4日〜6日あたり?昨年は巣立ちの瞬間を見ることができたけれど、そうそううまく見られるとはかぎらない。

P1010384.jpg
餌を運んで巣箱の前の小枝に止まり、しばらく周りを伺っている親鳥。
かなり慎重に警戒している様子。

雌が餌をくわえて小枝に止まっているときに雄も餌を運んできた。
雌は餌をくわえたまま羽を小刻みに動かし、雄も同じように羽をすごい速さで動かしている。あれは鳥同士のあいさつだろうか?
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二羽で巣箱に入り、ヒナのふんをくわえて出て行った。
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もう一方の巣箱では、出入りはほとんどなく、親鳥が卵を温めているみたいだ。たまに巣から顔をのぞかせたりする。日に数回は外に出ていって食事をしてくるようだ。

7月30日、小鳥の警戒のさえずりが激しくなり、あわてて行ってみるとやはり木の根元に猫がうずくまっていた。両方の巣箱の親鳥が騒いでいる。人間を見て猫は逃げて行った。
前回、猫の襲撃に懲りたので、木の回りに猫よけ(プラスティックでトゲトゲがついている)を付けてある。すぐに追い払わずに猫よけの効き目を確かめるべきだったか?

また三つ目の巣箱には一週間前、何か見えたと思い双眼鏡でみると、なんとヘビだった。
う〜ん、卵を食べてしまったのか、それともとりあえず木に登って巣箱に入ってみたのか・・・なんともわからない。ヘビをどうしてよいかもわからず・・。
これが自然の摂理だと思えば仕方ないのだ。でも自分が作った巣箱にヘビが入っているのはかなり不愉快。外からほうきで巣箱をたたいて追いだそうとしたら、逆にヘビも中でじっと固まってしまった様子。ヘビだって自分の身は守ろうとするわけで・・・。
あきらめてほうって置くことにした。
その後でヘビよけにガムテープをまきつけた。
ちょっとみっともないけれど子育てが終わる8月末まではこうしておきます。
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