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雪の中で暮らす [雑感]

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新潟の豪雪地帯に住んでいる知人が、雪国というのは燃料費(除雪機などの設備も含め)が莫大にかかる、とこぼしていましたが、確かに雪の中の暮らしは大変です。
同じように雪に覆われていても、単に寒さが厳しい地域と、豪雪地帯とでは、大変さも少し違ってくるようです。

私のいる辺りは、長野の標高1100m の山中ですが、それほど雪が多い方ではなく、本格的に雪が降り始めるのは12月末頃から。
今年も12月下旬になって毎日のように、数センチ〜10センチほどの積雪があり、少しずつ雪が深くなってきました。

雪は急にどさっと降る時があり、こういうときは、外出先で2時間ほど止めてあった車が雪にすっぽり包まれてしまい、道路もあっという間に新雪が深くなり立ち往生します。
この間は、家からほんの数メートル手前で車が雪に巻かれて動かなくなってしまいました。結局、家までシャベルを取りに行って雪かきするしかなく、10分ほど汗をかいて何とか家に入ることができました。(家の前でよかった〜)

その次の朝、車のバッテリーが上がってしまい、年末にひいて直った風邪をぶり返し、おまけに灯油も残り少ないことに気がつき・・という最悪の事態に。
幸い、食料は正月用にかなりあったので、ひたすら省エネにし、家に閉じこもりました。
雪の中での暮らしというのは常にこういう危険と隣り合わせ。

風邪をひいていても、多少の雪かきは毎日しないとなりません。どうせすぐまたすぐ積もってしまうのだけれど、放っておくと家の出入りも困難になる。空から降る雪と、屋根からすべり落ちる雪で、あっという間に入り口が埋もれてしまう。少しでも雪かきをしておくと多少はちがいます。

この雪かきというのはものすごく汗をかくのです。外に出るとき寒くないようについ厚着をしてしまうのがいけない。5分間で汗びっしょりになってしまう。逆に言えばこれは相当エネルギーを消耗している、ということで風邪にはまったく良くありませんでした。

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雪の中の生活は厳しいけれど、雪が降りしきる白と灰色のモノトーンの世界の美しさ、晴れたときの空の青さと白い雲、真っ白な銀世界、の美しさは、魂が吸い込まれるようで、「こんなにきれいなんだから・・ほかには何にもいらないな・・」という気持ちになります。
月が冴え冴えと輝き雪の上にくっきりと木立に陰を描いている夜も本当に美しく、寒さも忘れ、「こんなにきれいな物があるんだから幸せだと思わなければ・・・」とやはり感じるのです。
『美しさ』は『大変さ』とひきかえなんですねぇ。

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目標は30年先 [雑感]

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やはり自然界の美しさには圧倒されます。
人はなぜ「美」を感じるのか?何かを見て「美しい」と感じるこの感情は生物学的にはどういう理由があるのか。考えると不思議です。
「きれいだな〜」と感じるのは万人に共通しているようですが、「これからもずっとこの美しさが見れるといいな」とか、「いろんなところがこんな風だったらいいな」と思う気持ちは、人によって突然変わってしまうようで、これもまた非常に不思議です。

「水に流す」という言葉が示すように、不要なもの、ゴミなどを、昔はけっこう川に捨ててしまう人がいて(今でもいますが)、これは、自分の目前から見えなくなれば取りあえずいい、という考え方から来ているようです。
ゴミはゴミでも土に返る物もあれば、いつまでもどこかに残っていて、そのどこかは汚らしい様相になっていたり深刻な事態になっていたりするのですが。
ふんだんに豊かな自然に囲まれていた時代は、ゴミを川に流すということも、わりとおおらかに考えられていたかもしれないです。

地球上に人類が爆発的に増え、物質文明がここまで進んでしまった現代は、ゴミの処分がものすごく大事な課題です。それはなんとなく各自が考えていくような問題ではなく、きちんと教育によって伝えられなければならないことだと思います。
学校教育に限らず、いろいろな場で、先人が後世の人に伝えていかなければならない問題です。

教育が行政の管理支配下に置かれていれば、「環境を守ること」あるいは「環境を破壊すること」すらも正しくは教えられないでしょう。(上滑りに教えたのではだめだと思います、熱意を持って伝えなければ子供はスローガンを覚えるだけです。)
「平和」は教えられるのでしょうか。誰にも気兼ねなく教えられるのでしょうか?

教育と医療のどっちが大切かと言ったらそれは「教育」だろうと、言い切った人がいましたが、なるほど、そこまで言わないと教育の大切さは一般には伝わらないのではないか、という気がしました。
今の時代の子育て、本当に難しいと思います。
大人自身も日々成長(あるいは変化?)し続けているわけで、このところ、我が身を振り返ってもどうしても悲観的になってしまうことが多いのですから、子供の成長にははなはだ良くないという気がしています。

あまり遠い未来のことはわからないにしても、せめて30年先の社会がどうなるかを考えていくこと、30年先がひどいことになっていないように身近なところでも意識的に努力すること、が大人の果たすべき責任だと思います。


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2011年の終わりに [雑感]

最近 12 カ月間 - 0077.jpg

いろいろ書こうと思っていましたが、もう12月30日です。
あとは新年になってからにします。

テレビでは「この一年を振り返って」の番組が頻繁に流れていますが、わざわざ悲惨な報道を見たり聞いたりするまでもなく、誰もが、大震災、震災からの復興の問題、原発事故の行く末、普天間基地問題、景気の低迷、という状況の中で悩みながら生きています。
先日の沖縄県辺野古の環境影響評価書の強引な押しつけ。年も押し迫っているというのに最後の最後まで政府の強引な政策押しつけ。
これじゃ、一年のまとめも何もあったものじゃない。
悪いことは果てしなく続いて行きます。

大震災の悲劇や原発事故の深刻な被害を報道しながら、原発をこれからどうすべきかという問題に、メディアは真剣にせまっていない。現状の深刻さを訴える被災者の声は報道されるけれど、「もう原発はやめると約束してほしい(それが本当の反省というものでしょう)」という声は流れない。
そういう発言は報道するときにカットされているのかもしれないけれど、聞いている側は何か釈然としない気持ちを持たされる。

沖縄の基地負担を取り上げながら、辺野古は無理だし普天間基地をこのまま膠着してはおけない、とみんな言うけれど、じゃあどうするのか・・?「政府はちゃんとやれ」というだけで、どうすべきかは報道していない。

まったくのど素人の私は、どこにも行き場のない米軍には、日本が解決策を見つけるまで、取りあえず米本国に帰ってもらえばいいんじゃないの・・と思うのですが。

民主党は人々を期待させた政策を何もかも尻つぼみにしてしまい、本当にがっかりしました。かといって期待できる政党、政治家も見当たらないから、ぼんやりした不安感があるのみです。

元気を出そうと久しぶりに宮崎駿の「ハウルの城」を見て過ごした。(繰り返し観て楽しめる作品を創る宮崎駿はやはり本当にすごいです。)

「火」のカルシファーが言う。
「おいら、火薬の火はきらいだよ。奴らにはマナーがないからね」

そうそう。政治(およびメディア)に圧倒的に欠けているのか『マナー』なのだと思いました。
「核燃料や戦闘機はきらいだよ。あれらにはまったくマナーが欠けているからね」

でたらめな環境アセスメントに、不要なダム造り・・・こういうことも人と環境に対するマナーがないから強引に進めることができるのでしょう。

「文明時代」と言われながら、未だにマナーを大事にする社会にならないなんて・・一体どうしてなのだろう?

ということで今年の「ブナの森とふくろう」は終わりにします。
初詣というのはしない私ですが、もし出かける機会があったら、マナーが大切にされる社会になるよう祈ることにしましょう。
厳しい時代を生きていくみなさん(私たち)、身体を鍛えてがんばりましょう。

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2011年を思う(2)教育 [教育]

教育については、ほとんど関心が向けられなかった年だった。
実際、それどころではなかったのだ。
あれだけの大災害に見舞われたのだから、被災者を救うことに国として全力をかたむけなければならないのは当然のことで、これまで大きく取り上げられていたこと、失業や派遣労働の問題、医療福祉の問題、そして子ども達の教育の問題は、かすんでしまった。

被災地の失業問題が非常に深刻に取り上げられるが、だからといって被災しなかった地域での失業問題がなくなったわけではない。自殺者も相変わらずの多さだ。
安心して穏やかに暮らせる社会、というのはますます遠ざかっている気がする。こういう社会において、教育はどういうものになっているのだろう。

大阪新市長は、某テレビ番組で「競争が大事、競争に打ち勝ったからこそ、あなたも私も今こうしてテレビに出演して話している」といきまいていた。「でも、競争に落ちこぼれてしまった人は、私は助けますよ。」などと言っている。
なるほど、よく頭と口が回る。競争第一を唱えるながら落ちこぼれのめんどうを見る、と言うのはまったく傲慢な態度で人をバカにしている。

私はこれまで大阪府元知事の言動を注目して見ていたことがない。どう見てもテレビ人気にあやかった政治家という感じだし、一度テレビ番組で、高校生相手に教育談義をやっていたのを見て、あぁ、この人は高校生にまともな説得力ある話すらできない人だな、と思った。
女子高生が私立高校の助成金を減らされたら困ると訴え、かの知事はただ「そう思うならアナタが大人になって政治家になってやって下さい。」と言い、その高校生は涙ぐんでいた。
こんな返答しかできない元知事が、なんだかテレビでもてはやされているようでやたら名前を聞き、うさんくさい名前の会を立ちあげたりしているようだったが、そういう情報は意識的にシャットアウトしていた。

教育に焦点が当たらなかった年だが、教育界は一体どうだったのだろうと思い返した。民主党政権には教育面で少しの期待もあったのだが・・失望感しかなかった。
そして話題になっている<維新の会>とやらの大阪府教育基本条例骨子を読んでみた。
きちんと読んだのは初めてだったが笑ってしまった。
ちょっと覚え書きとしてその骨子を書いておくと、

・知事が教育委員会と協議し教育目標を設定
・府立高全校長を公募
・3年連続定員割れの府立高は統廃合
・学力テストの学校別結果を公表
・保護者などの学校協議会が校長・教員を評価
・2年連続最低評価の教員は分限処分(免職を含む)

唖然とする内容だ。今になって唖然としている私は遅れているのだろうけど、最近はとにかくニュースをあまり見たくない新聞は読みたくない、状態だったので、今頃驚いている。すべての項目に唖然としてしまう。
これらすべての項目にいちいち意見を述べるのもばかばかしい。
ともかく言えるのは、教育の憲法と言われる教育基本法をまったく無視した内容だということだ。無視というより真逆の内容。

教育基本法は安倍政権で改悪されてしまい、もともとの基本法の精神に、それに反するような内容の項目を無理矢理につけ足してあるので、部分的に読み手が好きなように解釈できてしまう。
いたるところ矛盾があり、都合の良い所だけ使えばいいという感じで、おそろしくぶざまな基本法に変わってしまった。

大阪府教育基本条例は、おそらく《教育行政は、国と地方公共団体との適切な役割分担及び相互の協力の下、公正かつ適正に行われなければならない》という部分を念頭につくった骨子なのだろうが、この条項の最初には実は、
《教育は、不当な支配に服することなく、この法律及び他の法律の定めるところにより行われるべきものであり、》ときちんと書かれている。

「不当な支配」というのは戦時中、学校教育が国家権力によって徹底的に介入され利用されてきたことをあらわしている。「不当な支配に服することなく」というのは、そういう政治的な利用から教育は守られなければならないことを言っているのである。(現場の教員が「今の学校現場に、不当な支配をはね返す力は残っていない」と言っていた。)

また第二章には
第九条  法律に定める学校の教員は、自己の崇高な使命を深く自覚し、絶えず研究と修養に励み、その職責の遂行に努めなければならない。
2  前項の教員については、その使命と職責の重要性にかんがみ、その身分は尊重され、待遇の適正が期せられるとともに、養成と研修の充実が図られなければならない。

とある。
教員をお互いに競わせるなどという考えがどこから生まれるのか、まったく不思議である。

競争というなら、この住みにくい社会で、人々は否応なく、どっぷりと競争にまきこまれている。その競争は具体的にライバルや商売敵と行われることもあるが、もっと大きな組織、社会の枠組みと戦わなければ生き残っていけない。毎日が自分と戦ったり、世の中と戦ったり・・要するに「競争」している。

このような社会で、一体なぜ「競争」を強調しなければならないのか。また、する必要があるのか。
つまりは、うだつが上がらないのは競争に負けたからだという評価を与えることで、組織や社会の枠組みの欠点、不備をぼやけさせる魂胆ではないか。
大阪府教育基本条例には、それが丸見えで、こういうことをやらなければ、学校教育はうまくいきますよ、という見本みたいなものだ。

こういう競争奨励のようなものを、「なかなかいいんじゃない」と思ってしまう人が意外と多い。ダメな教員をあぶり出すのもおおいにけっこうと思ってしまう人がいる。こういう考えは、社会不安の原因を教育のせい(つまりは教員のせい)にしてしまうとすっきりするから生まれるのだろう。

「教育とは何か」など、一般の人はほとんど深く考えない。
それこそがプロの教員が真剣に取り組む問題なのである。
学校にも時には客観的にそこで行われている教育を見つめ直し、新風をふきこむことは必要かもしれない。しかし、日々膨大かつ細々とした仕事に追いまくられ毎日無給残業で疲れ果てている教員にはそれは大変難しいことだと思う。
だからと言って、シロウトのどこかの誰かさんがやれることではなく、それはプロの教員にしかできないのだ。
<教員の適正な待遇>、<養成と研修の充実>が教育基本法に記されているのはそのために他ならない。

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2011年を思う(1) [社会]

大変な年であった。
解決にほど遠く、「一年を振り返って」というようなまとめの感想はとても持てない。進行中の一つの点の上にいる。
原発事故というのは改めて言うまでもなく、決して起こしてはならないものだった。人の創りだした物に事故は必ずあるもの、であることを思えば、原発は持ってはならないものだったということだ。

土地が、水が、作物が放射能で汚染されていることをどう考えたらいいのだろう。人体に影響がない放射線の基準値が常に話題になった。
まず、情報開示すること。そして、正しい情報を得るために、細かくまんべんなく繰り返し放射線を測定すること。
これらのことは人々が安心する上で最低限のことである。
でも、とてもじゃないが十分に行われているとは思えず、それが「風評被害」なるものを作りだしている、という批判もよく言われる。

でもれだけなのだろうか。きちんと検査をして政府の示す許される基準値以下ならその食物は問題はないのだろうか。
私にはどうもそうは思えない。私たちが望むのは、放射線量が基準値より下回っていることではなく、ゼロであることだからだ。
放射能は自然界にだって存在する、と強調する人がいる。自然界に存在するものは仕方がないだろう。われわれ人間も自然の一部であるのだから。
だからと行って自然界にもともとあったわけではなく、人の手によって生み出された余計な放射性物質を、触ったり、口にしてもいい、などと考える人はいないだろう。
他に食べるものがないならばいざ知らず、他所から手に入るならば、放射線量ゼロのものを選ぶのが人情である。

被災農家を応援するために年寄りは進んで食べよう、ということも言われる。もっともだとは思うが、よく考えればこれも片手落ちのおかしな話だと思う。
<人類は大失敗をしてしまった。今後は一切こういうことがないようにする。核燃料を安全に処理するやり方がわからない以上(そんなものは永遠にないように思うが)、一切の原発は止め、廃炉にし管理をしていく。>
そういう風に国としてきちんと原発に決別するということならば、年を取ったものは放射性物質が多少入った物を口にすることをがまんし、子供や若者だけには安全な物を食べさせてやろう、ということにも道理はある。

ところが、これほどの惨状を目の当たりにしながら、原発にきっぱりと背を向けることもできないでいる。そうしたくない人たちがいる。
そうしたくない人たちが、「神経質になりすぎるな」「直接人体に影響があるわけではない」「基準以下だ」などと言っている。ばかばかしい話だ。

先日の毎日新聞に、原発事故の2週間、菅直人前首相の指示で、内閣府原子力委員長(近藤俊介氏)が「(原発事故の)最悪シナリオ」を作成し、菅前首相に提出していたという記事があった。1,3,4号機で相次いで水素爆発が起き、2号機も炉心溶融で放射性物質が放出されていた。「最悪シナリオ」は、1〜3号機のいずれかでさらに水素爆発が起き、余震も続き4号機の使用済み核燃料が全て溶融した、という仮定。
そうなった場合、原発から170km圏内がチェルノブイリ事故の強制移住基準に達する(土壌中のセシウムが1平方メートルあたり148万ベクレル以上)。そして東京都のほぼ全域や横浜市までふくめた250kmの範囲が避難が必要になると。
「避難対象は首都圏、千葉、埼玉、群馬、新潟までをふくめ3000万人になり、国として機能しなくなるかもしれないと思った」と菅直人が退任後の記者会見で証言したそうだ。

確かにこういうことも起こり得ただろう。そう考えると、福島第一原発の事故は、これまでに日本人が直面したことがない(想定外の)悲惨な事故であり、この事故の収束に一体何十年かかるか(そもそも収束とはどうなることか)、すでにどの位地球を汚染してしまったのか、これからさらに汚染が進むのか、全くわからない状態であるが、「これよりももっと大きな事故にもなり得た」あるいは、ほんの少しは「この規模で済んだのは不幸中の幸い」とでもいう見方もできるということなのだ。

もういい加減「地元住民」という考えはやめてほしい。人間にとって、自分の家族や身近な人たち、地域、は確かに一番大切なものであるが、これまで本当の意味で大事にされてきたとは思えない気がする。
「地域」「地元住民」という言葉は、いつも都合良く政治(経済)に利用されてきたのではないか。

原発問題もダムの問題も基地の問題も本当によく似ている。みんながそれを感じている。感じているなら「いい加減にしろ」と怒りの声を挙げられないか、と思うが、「生活」を持ち出されるともう何も言えない。「目先の利益にまどわされず環境を守り、善く生きる道を選ぼう」などと、なかなか他人に言えるものじゃない。

この間テレビで、自然保護を国の指針とした観光によって国の経済を成り立たせているアフリカの小さな国「セーシェル共和国」を紹介していた。インタビュアーがその国の大統領(?)に、東北大震災の復興についてアドヴァイスを求めたら、「あのような大災害から復興しようとしている日本の人々に敬意を表します。」との前置きの後、「このこと(災害)を機にし、国を守るためには、まず環境を守らなくてはならない、ということに気がつかれたらどうでしょうか。」と言われていた。
本当にそれがもっともシンプルで正しい考えだと感じる。


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「防衛局長の発言」をめぐる発言 [雑感]

米軍普天間飛行場の名護市辺野古への移設に向けた環境影響評価(アセスメント)の提出時期を巡っての田中聡沖縄防衛局長の発言がニュースに流れた。
こんな風に思っているんだな、悪いこと(人の道にはずれた)をしているという自覚は十分あるのだ、悪いことをしている自覚があって悪いことをするのだから根っからの悪人なのだろう、悪人というのはやはりいるのだ・・こういう人が社会的に高い地位につけるのだから悪人はかなり大勢いるということになる、いつも仲間内で話しているようなことを記者の前で言ってしまったから、関係者はみんな大慌てで怒りまくっているだろう・・と、私の感想はこんなところだ。

さてその防衛局長発言に対する様々な反応は、与党野党の発言をふくめ報道の仕方も不可解ではっきりしない。
インタビューで、「言語道断」「当然、罷免されるべきことだ」と怒りを現した、短いコメントが紹介されるだけで、何が問題なのかを言わないから本当はどう思っているのか伝わらず不可解なのだ。
「言語道断」とは、一体何のことを指しているのか。
物の例え方の卑しさについてか?
それとも隠しておきたい沖縄県民に対する差別がわかってしまう発言をしたことなのか?

政治家や報道マンやその回りのいろんな人が、防衛局長の発言は沖縄県民の尊厳をふみにじるもので絶対に許されないことだ、と言っている。
私は、防衛局長のこんな発言などで、沖縄の尊厳がふみにじられるものではない、と思う。
こんな、一人の卑しい官僚の、卑しい発言なんかで、他人をふみにじることなどできないものだ。
女性蔑視だと言う人もいる。こんなくだらない発言で女性は蔑視されるものではない。(言っている本人は女性蔑視観が習慣化しているのかもしれないが)私に言わせれば、こういう発言をする男はただ卑しいだけでむしろ哀れなのである。こんな風な考えを持って生きていることが哀れである。

許されないのは(沖縄県民の尊厳を踏みにじるのは)、防衛局長が比喩として使った言葉で現されるような、まさにそういう人の道にはずれた政策を巧妙に強引に沖縄に押しつける事に他ならないと思う。

与党も野党もきちんと意見を述べることができる人はいない。世間の問題になりそうな発言をしたということを、「言語道断」「即、罷免だ」と口々に叫びたてる以外のことは言えない。同じ穴のムジナなのだから。

辺野古の環境アセスメントは理にかなっているものなのか、正義が貫かれているかどうか、をマスコミは問題にすべきなのである。

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「経済」について [雑感]

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夏、秋から冬へと一足飛び、もう雪の顔を見る時期になってしまいました。
9月半ばまで暑さに苦しんでいたのが嘘のようで、人の社会がどうであろうと自然の移り変わりは容赦なくすみやかなものだ、と感じます。

私の目に映る社会の動きは相変わらず膠着状態・・・原発問題がどうなるのかはっきりしないまま、「経済」「経済」の大合唱、と見えます。
社会で起きるさまざまな問題を計るのはこの「経済観念」なのだと痛感します。
世の中に、「経済」をもっとも重視するという人が多ければ、世の流れは「経済」に焦点を合わせて進むのでしょう。多くの人の考えで世の流れが決まり、言い換えれば、社会の様相を見ればその社会の構成者である人間がどういう考えを持っているのかがわかるということになります。

今「生活の発見」という本を読んでいますが、これが半世紀以上も前に書かれた本だとはとても思えない普遍性があり、共感できます。
(林 語堂 著 / 阪本 勝 訳 1966年初版発行 角川文庫、原作は1937年ニューヨークで出版された)
たとえば、TPP 問題のニュースを見ていて不思議に感じたのは、識者の意見が賛成反対と真っ二つにきれいに分かれていたこと。
様々な言い分が同列に並ぶ問題なので、この人たちにとってはこうが良く、あちらの人にとってはああが良く、むずかしいものだな〜・・結局よくはわからない・・というのが普通の人の感じ方ではないかと思います。きっぱりこっちだとなぜ言い切れるのか?
私は経済のことはサッパリわからないので、賛成か反対かと聞かれたら、直感に頼るしかないという情けない状態です。

「生活の発見」の 《第四章 五、 人間性の気まぐれと無軌道について》の中で著者が「経済学」について述べている箇所があります。

<・・・現代においては、人間が人間的反抗性を忘れてそれを喪失し、個人の威厳を見失いつつあるのは、当然のことだと思う。他のあらゆる形の人間的思考を圧倒する経済問題と経済思想ががんばっているために、もっと人間味のある知識や、個人的生活問題を対象とする、もっと人間味のある哲学に対し、われわれはまったく無知になり、無関心になってしまっているのである。けだし当然のことであろう。胃潰瘍の患者が、二六時中胃のことばかり考えているように、経済疾患にかかっている社会は、いつまでたっても、経済のことばかり考えている。ところがその結果、個人というものにぜんぜん無関心となり、自分の存在をほとんど忘れてしまうことになる。・・>

<・・・おそらく私には経済学はわかるまい。しかし、経済学もまた私をわかるまい。経済学が今日なお焦燥をつづけ、科学として一本立ちできないのはそのためである。すなわち人間というものから離れているからである。・・・>

そして、「経済学」というのは人間的動機からはなれるがゆえに科学ではなく、人間的動機の探求に突っ込んでいけばなおさら科学ではなくなる、統計学的平均値によって人間的動機の探求に進むとなれば、せいぜい疑似科学に堕ちるだけ、と著者は言います。

<重要な経済的手段が採用されようとするたびに、二人の経済専門かないし権威者が、まったく正反対の立場に対立するのはそのためである。>

「生活の発見」を読むうちに、経済のことがわからない自分を不安に感じる必要は全くないのだと思い、ちょっとほっとしています。

もちろん経済生活から人は逃れられません。が、「そこそこ食べていける生活」からはるか離れた地点で胸算用をしている人たちの考えが社会に大きな影響力を持っている、ということが普通の人の理解を超えてしまう原因となっているのでしょう。
人間が物事を自分で判断しやりくりできる範囲というのは、非常に小さな単位、エリアの中だと思います。国の単位まで大きくなれば、もう複雑になってしまい、まともな判断ができるとは思えません。(「風が吹けば桶屋がもうかる」くらいの理解力では・・。)
経済がそれ以上の範囲まで広がったら(実際、とっくの昔に広がっているのですが)、ふつうの人には到底理解しがたく、手にあまる問題です。
グローバリズムが個人の精神状態を非常に不安定にするのはそのせいではないかと思います。

一方、原発事故の問題は非常に狭くて身近な場所での問題です。自分が住んでいる地域の空気、土、水が汚染されているかもしれない、ということは、その緊急性、緊迫性をいくら言い立てても大げさなことではないはずです。
福島から2,300km離れた長野ですら、幼稚園などの落ち葉たきの焼き芋大会が中止になりました。
この一番大事な身近な問題をどうするのか。

林語堂は、ある問題か危機にのぞんで行動する国民性を「民族的気質」といいます。

国の「運命」というものは、ただ国民の行動にのみ認められ、国民の最終的進路を決定するのは、一種の選択問題であって、
<あるものを取り、あるものを捨て、あるものを嫌うという問題に帰する。あるものがもう少しほしいとか、いやもう十分だとかいう意思を明らかにする国民の決意である。・・・結局、すべての国民は、その好むもの、その感情にぴったりくるものを取って進み、我慢ならぬものは捨てていくからだ。こういう選択は、国民の思潮と、一連の道義的感情と、社会的好悪にもとづいておこなわれるのである。>

物事が決まるのは、それを望む人が多数かどうかということであり、多数者の意見が自分から見て正しくない、と思えることであっても決まっていきます。
さて、日本人の気質って・・どうなんだろう・・?と、考え込んでいます。



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実りの秋に [雑感]

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今年は長野の山中の栗の木が豊作で、散歩途中にいくらでも拾えた。
大きなハナイグチも家の回りの何気ない場所に生えていて、『収穫の秋』を感じる。
育てる苦労をせずに、自然に食物が手に入るというのはとても嬉しい。
栗は毎日ゆでて食べ(食べ始めるととまらない)、キノコはきのこ丼にしたりスープにしたり、それでも食べきれないので佃煮にした。

多分このキノコにもセシウムがついているんだろうな、と思いながら食べた。
その話をしたら、ある人が「そうですよね。みんな神経質になりすぎだと思いますよ。ガンになると言うならタバコの方がガンになる危険が多いでしょう。」と言った。
ぎょっとして、「放射能の影響は、現代の医学ではまだ解明されていないから怖いんじゃないですか。自然環境にどういう影響を及ぼすのかだってまだきちんとわかっていないから怖ろしいんですよ。」と言うと「そうですねぇ」と相づちをうつ。
「第一、20年、30年、40年先のことを誰かが責任もって補償してくれると信じられますか。」とたたみかけると「本当にそうですね。」

この人は原発に賛成なのか、反対なのか、どうもわからなくなってくる。

いつも不思議に思うのは、人の考えというのは、論理的に正しいものに傾くとは限らない、ということだ。
原発の事故の処理だって、除染で出たがれき(高放射性廃棄物)や汚染水はどうするのかさえ、まだ決まっていないのだ。
政府と東電は震災から半年以上経ってようやく(17日に)収束の工程表の改定版を発表し、放射性汚染水の地下水への流出を防ぐ遮水壁(地下ダム)工事を今月末に着手することを初めて盛り込んだという。
原発事故が起きてからずっと、地下には汚染水がにじみ出て海にもどんどん垂れ流し状態だったことはあまり大きく報道はされていない。
でも、汚染されたものをどうするか決めないことには除染も進められないことは、誰だって気付くことだ。

新聞に(うちは毎日新聞だけれど)原発事故の被害に関するニュースや意見が載らない日はない。特に毎日新聞の「記者の目」はいつも若い記者が正論をきちんと述べていて心強いし、原発事故の深刻さは毎日報道されている。
その一方で、「反原発は間違っている」などという意見広告がどこかの大手新聞に載っていたりする。

今回の原発事故で誰もがわかったこと、

原発に絶対安全はない。
一度事故を起こしたら被害の大きさは計り知れないほど深刻。
人間は原子力をコントロールできない。
何十年か後、原発による被害がどう扱われるのかわからない。
今直面している事故をどう収束させるのか、答えが見つからない。
地元に多額の交付金を出すことで原発設置を認めさせている

原発についてこれらのことがわかっていて、今もなお原発を再稼働する、増設を再開する、輸出する、などという考えが、どうすれば出てくるのだろう?
原発の利権を持つ財界や政治家が「自分が生きている間は原発を進めたい」というのはわかる。(次の事故はそうすぐには起きないだろうし、今まで原発にかけてきた金を無駄にしたくはないし、電力会社とはずっと協力し合ってきたし、これからも原発で儲けたい・・と、こんなところだろう。)
私があきれるのは、原発利権には何の関係もないような一般市民の中に「原発を止めるわけにはいかないだろう」という考え方をする人がいる、ということだ。

こういう人は何を基準に物事を考えているのだろうと不思議になる。

例えば、きっと、歩行者をあわてて端っこに寄せさせるような乗り方で自転車に乗っている人にちがいない。左右を全く見ないで自転車で飛び出してくる人は「原発推進派」にちがいない、など、私の思考も感情的にぶっとんでいく。
テレビ報道は見る気がせず、新聞記事を読むのもむなしい。(いくらまともな考えが毎日のように紹介されても何も変わらないとしたら、こんなにむなしいことはない。)

秋の味覚を楽しんでいても、何をしていても、「原発事故」の暗雲は頭の上におおいかぶさってくる。
きっとこのままずっとこういう状態でいくのだろうな〜と思う。
日本の美しく豊かな自然を心から喜び愛でる日はもうないのだなぁ、感じている。

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熱中症 [雑感]

今頃になって猛暑の話ですが・・。

9月になって2週間以上も続いた猛暑にまいってしまった。8月はそれでも暑さに負けないでがんばるぞ、という気概はあったが、もう9月なのにと思ったとたん、暑さと戦う気力は完全に萎んでしまい、ただ、暑さに打ちのめされていた。去年の猛暑は相当なものだったので、今年も9月はひどいだろうと覚悟はしていたが、覚悟していた通りというのも辛かった。
暑さに強いという人が心底うらやましい。
以前、黒柳徹子のトットちゃんシリーズを読んでいたら、アフリカのある場所(毎日50℃以上の気温の所)で、黒柳徹子がスタッフに「今日、ちょっと暑くありません?」と言った。スタッフが「黒柳さん何言ってるんですか。今日は56℃(だったかな?)もあるんですよ!」と答えた、という話を読んだ。やはり黒柳徹子という人は並みはずれている、とつくずく思った。

いろいろな本に暑さのことについて書いてあると、それがいつまでも印象に残ってしまう。著者も書名も忘れてしまうけれど、暑さの記述だけは覚えている。
暑い場所に住んでいる人は寒さには順応できるが、寒い所に住んでいる人は暑い場所には順応できないものだ、という文を読んだときも、すぐさま納得した。
暑い国で日盛りに外を歩くとき、木陰を選んで歩く。木陰と言っても、木そのものが少ないから一本の木の下で次の木を見つける。50m先に木があるが、その50mを進むのに勇気をふりしぼる、というような文を読んだときは、そんな所にいない自分を本当に良かった、と思ったものだ。

今年もこの暑さの中で、運動会の練習をしていた小学生が熱中症で倒れる、というニュースが多かった。こういうニュースを聞く度に、ひどい話だなあ(ひどい国だなあ)と思っている。
学校というのは「国」の土台で、その時代時代の「国の顔」が学校教育を見るとよくわかる。「こういう人間を作りたい」というのが教育基本法であり、具体的には学習指導要領であり、直接的には教育委員会や学校管理職の思惑となって下に降りてくる。

異常な暑さの中で何人もの子供が倒れるような事をなぜするのか。
<「暑い」だの、「寒い」だの子供は言うもんじゃない。少々のことでへこたれるようでは立派な大人になれない。これまでだってこうやって学校はやってきたのだ。行事は絶対に変えられない。子供に過保護はいけない。大事なのは根性だ。根性がないからちょっとのことで倒れる・・。>
これがこの国の教育方針なのだ。
こうやって無理矢理に「根性」を押し付けられ、物事には耐えねばならぬ、と教え込まれる。

熱中症のニュースを聞く度に「原発の国だからなあ」と思ってしまう私だった。
<少々の放射能汚染が何だ。そのおかげでみんな電気の心配せずに豊かに暮らすことができるのだ。原発技術のおかげで経済効果も生まれる。今までこうやってきたのだ。失敗したからと言って急に原発を止めるなんてとんでもない。これまでの研究が無駄になる。少々の危険が何だ。20年、30年後の健康がどうか、などと先の心配をしていてはきりがない。今が大事なのだ。
原発事故の被害を受けた人は不運だったが、人間、生きていれば不運なこともある。多くの人の利益を守るために身を捨ててがんばってもらわなければならない。それが日本人の美徳だ、根性だ。>

と、こんな風に熱中症と原発は私の中で結びついてしまう。
9月の半月におよぶ異常な暑さと放射能で汚れた日本の地、まさに地獄のように感じられた。その間に民主党の代表が変わったりしていたけれど、もう何にも興味がなかったですね。

毎日新聞のコラムで五木寛之だったか、「『国破れて山河あり』という言い回しがあるが、今は『山河破れて国あり』になってしまった。」ということを書いていて、なるほど、そうだなあ、と共感した。
私たちは豊かで美しい山や河を失ってしまったのだ。でも国は続いていて政治家は相も変わらずどうでもいい話を長々とやっている。保守的な「国」だけはしっかり残ったのだ・・。

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「国」という言葉 [雑感]

いつもおかしいなと感じるのは「国」という言葉の使われ方だ。
「国の責任」ということが頻繁に言われる。
「原発事故は国の責任」というのはすごくあいまいな表現だ。
このときの「国」って何を指すのだろう。「国」と言ったらワタシやアナタ、すべてが入ってしまう。すべての人の責任ということになってしまう。
これはちがうでしょう。正確には、原発を推進してきた、これまでの政府与党、官僚、学者、電力会社、の責任でしょう。

そうは言っても、みんな電気を使ってきたではないか、と言う人がいる。これは変だ。
私たちには、原発でできた電気とか火力発電による電気とか、選択はできないようになっているのだ。選択できるなら「原発電力」は私は使いませんよ。

「国に保障を求める」というときの「国」は、私たち全員がふくまれそうだ。「国」ってもともと抽象概念だし、抽象概念である「国」がお金を持っているわけではなく、政府が我々の税金を預かっているだけなのだ。使うのはそのお金だ。災害時に人々が協力し合ってお金を出し合うということは大事だが、「国が保障するお金」というのは、国民一人一人が汗水たらして働いて得た収入の一部を税金としておさめたお金である、ということがぼやけてしまっては困る。

もともと「国」とは、そこに住む人々が作り出したシステムにすぎない。みんなでお金を出し合って、みんなのためになるような事をする、そういうシステムが「国」なのだ。

ところが、国歌(君が代)だの国旗だの、という話になると、突然、歌わない者、不起立者は罰する、などと言い出す奴がいる。ただのシステムである「国」を振りかざしてそんなことを命令するお前は一体何様だ、と言いたくなる。
君が代を歌わない人というのは(私もですが)、国にきちんと税金もおさめ、真面目に働いて、他人に危害を加えず、しかもこそこそ隠れず、自分の考えで、歌わないのである。

法律や条例は所詮、人が作ったものだ。どういう人が作ったかというと、時の権力者、つまり政治家である。たいした得票率がなくても取りあえず選挙で選ばれた人たち。
いったん権力を握るとかなりやりたい放題できる。経済界の大物とつながりを持って、メディアも手中に入れることさえできる。
テレビ番組はどれもこれもくだらないが、みんなくだらないから、それを見る人は、そういうものか、と思ってしまう。知らないうちに感じ方や考え方まで、影響されてしまう。

原発討論会の参加の動員やアンケートでは「やらせ」があった。陰でこっそり「やらせ」に加わったのに何の責任も問われない人がたくさんいる。「やらせ」は詐欺である。しかも、人の命にも関わる重要な問題においての「やらせ」である。
これがどんなに罪深いことか。その後この問題はどうなったのかあまりクローズアップした報道もされていないようだが。
君が代を歌わないことと、どっちが悪いか。(と、これはばかばかしくて比較するのもはばかれるけれど。)
教育基本法を変えたときの「やらせミーティング」についてはその後一体どうなったのだろう。これもお咎めなし、で終わったのだろうか。何といってもそういうことがありながら、『教育基本法』変えてしまったのだから、権力というのは恐ろしい。

「国」という言葉は、悪いことを隠す人間には大変都合がいい。「国の責任」と言ってしまえば、特定の誰かではなく、みんなに責任があることになるからだ。マスコミが好んで「国の責任」という「言葉をつかうのもそういうわけなのだろう。
あいまいな言葉を使うと「何がダメだったのか」がわからなくなり、結局、「何を反省すべきか」もはっきりさせないままに終わってしまうことになる。

どんなにひどいことが行われても、いつの間にか人々のショックや関心が薄まり、元の木阿弥になってしまうのは、日本語のあいまいな面が、うまく利用されているからかもしれない。


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原発という事業の汚さ [社会]

人混みがきらいなのでなるべく近寄らないようにしているけれど、この夏は二度も花火大会を見物する機会があった。
言い古されていることだけど、今年の花火は特に、人の世のはかなさ命のはかなさ、を象徴しているように感じられてもの悲しかった。ちょうど月が右上にあり、打ち上げられた花火は月をめがけて何度も何度もシュルシュル上って行く。そして、幻の華を空いっぱいに描いてあっという間に消え落ちる。
人間界は悲しい。誰もがいつまでも平穏に生きられたら、という願いを持ちながら、病気や不慮の事故で若くして命を落とす人がいる。
心配事をいっぱい抱えて、どれも解決しないまま、命尽きる人もいる。

ただ普通に生きているだけで、悲しいことが多いというのに、「核」などという危険なものをコントロールもできないのに使ってみようする。
そうして事故が起きて悲惨な状態が続いていても、まだ、考え方が変わらない人間もいる。これが人間だと思うと悲しい。

「原発」という事業は、あまりにも汚すぎる。何がきたないといって、それを取り扱う人間たちの精神がきたない。「原発」にかぎらず、「基地問題」にしても「ダム開発」にしても同じ。
経済効果などと人を惑わすようなことを言って、何もかも金の力を使って行うやり方が汚い。「原発」や「基地」の誘致が雇用が生み、町の発展になるなら、それ以上よけいな交付金はいらないはずだ。金のやりとりが人の思考を曲げてしまう。公然とした賄賂を国が行っているのだ。

NHKの番組で、原発事故の後始末に、法の目をすり抜けて不当な条件で作業員を雇っているという話をやっていた。
命を売り買いしている。気持ち悪くて途中で見るのをやめた。
人の命を金で買っているのが、日本の政府や最大手の企業だという事実・・。常識では考えられない。中国の列車事故の後始末のやり方を愚かだと言えない。

この「汚さ」が原発や基地問題の本質なのだろう。こういう汚い事業(?)をどうして認める人がいるのか、理解できない。

泊原発再開というニュースが流れた。
北海道知事高橋はるみ、なにを考えているのだろう。
福島原発事故による社会混乱、不安の真っ直中。まだ何も解決もしていないというのに。
そもそも解決するのかどうかもあやふやだというのに。

悲劇に対する日本人の受け止め方には独特なものがあるように思う。気質の底に「無常観」のようなものがあるのだろうか。「仕方ない」「まあいいじゃないか」「どうとでもなれ」というあきらめ、そしてある種の明るさ・・・これは悲劇や不幸を切り抜けるための、日本人の大きな知恵だと思うが、福島原発事故6ヶ月目に、他の「原発再開決定」はいくらなんでもひどすぎる。

原発事故は他の事故とはちがう。
原発事故が起きてしまえば、原発がある一部の地域の被害だけではすまされないということ。何十年たっても被害地の回復はできそうもないこと。
このことを国民は身にしみてわかったはずだ。

それなのに、はっきりと「脱原発」を認めたくない人がいる。一体、人の命に影響を及ぼすような事業をなぜ推し進めることができるのだろう。たとえ、賛成者が多数だとしても、それはやってはならないはずだ。反対をする少数者の命を保証できないとしたら、これは多数決で決めるような問題ではないということだ。

菅首相が「脱原発宣言」をしたとき、NHKのニュースでは、なでしこジャパンのニュースが最優先だった。これでは、世間は、放射能汚染にも少しずつ慣れっこになるに違いないという気がした。
「そう簡単には原発はやめられない」という人がいるが、まず「やめる」という覚悟がなければ、再生可能エネルギーの取り組みなど、一時の流行のようなうすっぺらなものになってしまうのではないか。
「原発はやめる」という強い目標がまずあってこそ、その目標に向かって最大限の努力も始まるはずだと思う。

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終戦から65年目の悲劇 [社会]

8月になった。原爆記念日と終戦記念日の月。
終戦から65年、東日本大震災と福島第一原発事故からは5ヶ月になる。
世界で唯一の被爆国である日本が、終戦から65年目に原発事故で再び放射能汚染によ苦しむことになった現在。
戦争による放射能汚染ではなく、「原子力の平和利用」による放射能汚染。
汚染の規模は桁はずれに大きい。取り返しがつかない。

放射能汚染による被害の報道は広がるばかり。被爆の実態が徐々に明らかになってくる。水も米も野菜も肉も魚も、何もかも汚染の心配をしなければならない。
東北地方の生産物の「風評被害」が問題になっているが(非科学的でナンセンスな風評被害はあるとしても)、被害の実態は「風評」などはるかに超えて深刻だろう。
放射能汚染は200km圏を超えて広がっているのだから。
こんなに広い地域の生産物を、一体どうやって細かく調べられるだろう。範囲を区切ってその地域の一カ所を調べ、そのサンプルが安全だからと言って、その辺一帯のものは全部大丈夫と言い切れるのだろうか。サンプルをごまかして低い数値のものを発表したりしないだろうか。

スーパーで買い物するとき、自分一人ならどうでもいいや、と居直れるが、小さな子供の口にも入るとなると、すごく神経を使う。今までは「国産」がいいと思っていたのに、今は「外国産」の方がまだ安心か、と迷っている。
買い物で私があれこれ気にしていたら、「そんなの気にしたって遅いよ。もう我々は十分に汚染されているよ」と言う人がいて、そうだろうな、と思った。

核の恐ろしさを十分わかっている国が核を持ち「平和利用です」と言い、原発を造ってきたのは、本当にグロテスクなことだ。
「平和」と言う言葉を、簡単にある言葉の前につけてはいけないのだ。「平和利用」とは「平和のための利用」という意味しかないはずだが、まったく逆の結果をもたらした。
核を「商業利用」して、原発で金儲けをした人はたくさんいるだろうが、一般の人は、大きな脅威にさらされながらそれを知らずに、のんきに生活していた。
原発推進に使われた「平和利用」という言葉は、その絶対的な危険性(『人類および地球上の生命体にとっての絶対悪』)を非常に巧妙に隠してきた。多少とも良心が疼く人は、「必要悪」という言葉を都合よく使っているようだ。

「危険は危険」「悪は悪」で、それを平和という言葉でくるんできたことはものすごいことだ。こんな非道なことは他にないだろう。こんな罪深いことはないだろう。

ある人が「私はもともと原発には反対でしたが、一応見てみようと『原発見学ツアー』に参加したら、原発推進派にちょっと変わっていました。」と言っていたから恐ろしい。
「原発は安全」という信仰はいろんな手段を使ってものの見事に作られてきたが、人は、本当は安全ではないと知っているからこそ、「国が安全を保証してくれるなら」と、自分の責任を捨て(思考ストップして)、他に責任をゆだねてしまうのだろう。

福島原発の事故の結末はどうなるのか。数十年経てば何か回復の兆しはあるのか、それとも数十年経ってもこの先どうなるのかわからない状態なのか、見当もつがない。
こういう惨い事態に直面していてもまだ、「仕方がない、原発を止めるわけにはいかないだろう」と言う人がいることが不思議でならない。

朝ドラで、終戦を迎えたときのシーンを見た。若尾文子がセリフで、世の中急に「民主主義」を言い出したことについて、「いやだったわ、私。 こういうときに『鬼の首』を取ったみたいに言う人っているでしょ。『それみたことか』って・・。私、そういうのはきらいなの。」
(セリフはちょっとうろ覚えだけれど確かこんな感じだった。)
若尾文子のちょっと鼻にかかったこのセリフは、けっこう強烈な印象だった。
震災で原発事故が起きてしまったときも、若尾文子のセリフみたいに、「こういうときに『鬼の首』を取ったみたいに原発反対を叫ぶのは良くない」みたいなことを言う人がいて驚いたが、あれと似ていると思った。

『鬼の首』って何? 戦争で勝った日本人っているの?
今回の原発事故で勝った日本人ているの? 原発反対者は勝ちましたか?
日本人みんな負けたんではないの、と思う。

国土を汚染され、見えない放射能にこれまでもこれからも脅え、国土のみならずよその国や海まで汚染して、もうこれ以上の「負け」は無いでしょう。

日本人の多くは「原発はもうこりごり」と思っているだろう。まだ原発を続けると言う人は、「原発事故はすぐには二度目は起きないにちがいない。安全点検をして国が安全だと宣言してくれれば、まだ続けていける。少なくとも自分が生きている間にはそうひどいことは起きないだろう」と考えているのだろうか。

新たな「安全点検」などと言っても、たいしたことはできないだろう。実際に地震を起こす実験はできないのだから。それに「安全点検」は当然、毎日行われているはずのものだろう。
「安全点検してくれるなら」と、また国に判断と責任をなすりつけている。

戦後60数年の間にいったい日本人は何を学んできたのか、と、どこかの誰かに責められたとしても不思議はない。責めらて当然だ。
ところが、そういうことを言ってくれる「どこかの誰か」は、非常に少なくて遠慮深くて、力もなく目立たない。世界中見渡したって、どこの国も、どこの誰も(私も)、みんな脛に傷を持つ人間ばかり。だから徹底的には他人を責められない。「悪」を糾弾できない。だから「悪」はのさばる。

平然と他人を責めることができるのは、もっとも腐敗した世界に身を置く政治家ばかり、というのは何とも皮肉なことだと思う。

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蛍飛び交う / 巣箱のその後 [環境・自然]

IMGP0021.jpg蛍の生息場所

7月30日に家の周りでホタルが飛び交い始めた。
ここから50mほど下の場所では一週間前に今年はじめてのホタルを見たので、そろそろかなと思っていた。標高50mの差は、案外に大きな環境差となる。
気温も湿気も違い、梅や桃や桜が開花するのも一週間遅れ。

いきなり飛び交い始めたホタルは感動的だった。
光の点滅の速度からいってゲンジボタル? それとも両方かな。けっこう速い点滅もあるし・・。
ホタルの動き方は神秘。フワフワただよっているかと思えば急降下したり、あるいは花火の残り火が落ちるように弧を描いて静かに下に降りたり・・。時々はまっすぐ水平にす〜っと流れるように飛んでいく。これがかなりのスピードで驚く。どんどん木の上の方に上がっていき、急に光がみえなくなったかと思うと、思いがけない場所にポッと光が現れる。まるで遊んでいるように二匹で一定の距離を保って飛んだりもしている。
また地面でも草むらの陰でホタルが光っている。これは地蛍のよう。
間近で数えられたのは8匹ぐらい。


さて、中をきれいにして再び取り付けた巣箱だが、そのうちの二つの巣箱にはまたシジュウカラが入った。一つの巣箱で7月21日から餌を運ぶシジュウカラの親鳥の姿が見られ、最近は餌運びの回数も増えて来た。7月20日頃ヒナがかえったのだとすると巣立ちは8月4日〜6日あたり?昨年は巣立ちの瞬間を見ることができたけれど、そうそううまく見られるとはかぎらない。

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餌を運んで巣箱の前の小枝に止まり、しばらく周りを伺っている親鳥。
かなり慎重に警戒している様子。

雌が餌をくわえて小枝に止まっているときに雄も餌を運んできた。
雌は餌をくわえたまま羽を小刻みに動かし、雄も同じように羽をすごい速さで動かしている。あれは鳥同士のあいさつだろうか?
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二羽で巣箱に入り、ヒナのふんをくわえて出て行った。
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もう一方の巣箱では、出入りはほとんどなく、親鳥が卵を温めているみたいだ。たまに巣から顔をのぞかせたりする。日に数回は外に出ていって食事をしてくるようだ。

7月30日、小鳥の警戒のさえずりが激しくなり、あわてて行ってみるとやはり木の根元に猫がうずくまっていた。両方の巣箱の親鳥が騒いでいる。人間を見て猫は逃げて行った。
前回、猫の襲撃に懲りたので、木の回りに猫よけ(プラスティックでトゲトゲがついている)を付けてある。すぐに追い払わずに猫よけの効き目を確かめるべきだったか?

また三つ目の巣箱には一週間前、何か見えたと思い双眼鏡でみると、なんとヘビだった。
う〜ん、卵を食べてしまったのか、それともとりあえず木に登って巣箱に入ってみたのか・・・なんともわからない。ヘビをどうしてよいかもわからず・・。
これが自然の摂理だと思えば仕方ないのだ。でも自分が作った巣箱にヘビが入っているのはかなり不愉快。外からほうきで巣箱をたたいて追いだそうとしたら、逆にヘビも中でじっと固まってしまった様子。ヘビだって自分の身は守ろうとするわけで・・・。
あきらめてほうって置くことにした。
その後でヘビよけにガムテープをまきつけた。
ちょっとみっともないけれど子育てが終わる8月末まではこうしておきます。
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巣箱の放棄 [環境・自然]

4月下旬、巣作りの準備が始まった。まず巣箱の下調べ。
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P5055700.jpgニュウナイスズメ

去年より一週間遅かったが鳥たちが次々にやって来て巣箱を下調べ。
どうやら気に入ったらしく、巣づくりが始まった。
今年は新顔のニュウナイスズメもゴジュウカラと争いながらも巣箱に入居。

2週間後、そろそろヒナが孵る頃と思って気をつけて見ていたが、巣箱は静まりかえっている。ヒナが孵ると餌運びが始まるので親鳥がひんぱんに餌を運んでくるのにそういう動きがないまま三週間。

あるとき、四つのうちの一つの巣箱の屋根の上にキジトラの猫がうずくまっていた。あわてて追い払ったけれどしばらくするとまた巣箱の上に登り上から出入り口の穴を見張っている。
心配になってはしごをかけ巣箱を覗いてみた。
残念なことにシジュウカラの親鳥が中で死んでいた。巣箱にあった卵は9個。

他の巣箱も心配になり調べたら、一つはピンク色の卵がやはり9個ぐらいありなんとなく放置されている気配。ニュウナイスズメが入ったと思われる巣箱は箱の上の方まで枯れ葉のようなものがいっぱいで中がよく見えない。
そっと手をいれると、ブ〜ンという虫の羽音みたいなのが聞こえる。
鳥の威嚇音かと思ったが、結局はここの巣箱も卵が放置されていて、その代わりにハチが巣作りをしていた。マルハナバチのようだった。手を入れても攻撃して来ないのであまり人に危害を加えるハチではなさそうだったが、この巣箱は取り外すことにした。

最後の一つミズナラの樹に取り付けた巣箱は下が開くようになっていて、開けたらヒナを暖めているシジュウカラの親鳥と顔をハチ合わせしてびっくり。あわてて蓋を閉めたが鳥もさぞびっくりしただろう。

昨年は3つの巣箱から(4回)元気にヒナが巣立って行ったのに、今年は1つだけ無事であとはダメだった。
やはり高原に猫などいるとどうもまずい気がする。リスも警戒して来なくなってしまったし。近所の猫なのだが、どこにでも自由に歩き回っているので、防ぎようがない。
犬は今の時代放し飼いはしないし、国立公園内は犬は入れないことになっている。

卵を生んだ状態で巣が放棄されているのは、とても残念で、気持ちが沈んでしまった。
私は大の猫好きで家にも2匹いるが外には出さない。市街地は猫が外を自由に出歩いていることも多いが、もともと人家が密集して環境も壊れているし、それほど気にならないのだけれど、山の中はやめてほしいなあ。
ミズナラの樹のシジュウカラ一家は無事に子育て終わるのだろうか。
5月18日に餌を運び始めたので、巣立ちは7月上旬のはず。

中をきれいにしてかけ直した巣箱に、また、巣作りする鳥がいるかもしれないと少し期待している。去年は同じ巣で二回ヒナが孵った。
でも一度猫の襲撃などがあると警戒して、その場所には近づかなくなってしまうのだろうか。

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イワナとカワネズミ [環境・自然]

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山中の家の前の川では毎年イワナが孵化して、雪解けの4月にはかわいい稚魚を見ることができる。川の数百mぐらいの間に10カ所ほど川の流れがおそくなっている所があり(淵というにはあまりにも小さいが)、そういう場所ごとに必ずイワナがいる。
一番大きな場所には一番大きなイワナがいる。
ふしぎだなぁと思っていたのは、毎年孵化しているのに成長したイワナの数があまり増えないことだ。
減りはしないが増えもしない。

ここでは誰もイワナを釣ったりしないのだが、やはり生きのびるのはむずかしいのだろうか。
そう思っていたら、家の前のU字溝から銀色に光る小さなものがシャシャシャーッ、と川を登って行くのを見た。
イワナが身をくねらせて泳いでいるのかと思っていたが、どうもイワナの動きとちがうようだ。
数回それを見て、ネズミだと気がついた。
調べて見ると渓流にはカワネズミが住むという。
「こいつがイワナの稚魚を食べていたのか」となぜか腹が立ってしまった。
考えてみればイワナも川ネズミもこの川の住人であり、カワネズミに悪いところはない。
なのにいつもイワナを眺めて楽しんでいる私は、カワネズミは可愛いイワナを食べる奴、という風に一瞬思っていた。
似たような勘違いをすることは多いような気がする。人間は錯覚しやすいのだ。

カワネズミは日本固有種。
<長野県では、北信、中信、東信、南信に生息し低地から標高2.000mまでの山間地の渓流に生息。個体数が少なく、長野県では準絶滅危惧種NTに指定され、「かっては県内の河川に広く分布していたが、水質汚染などにより、山間地の渓流に分布域が縮小していると考えられる。」とされている(長野県版レッドデ−タ・ブック、動物編、2004)>
イワナもカワネズミもきれいな川にしか住めないのだ。

天敵から生きのびたイワナは小さくても丸々太っていて敏捷。人の気配を感じるとサッと葉の陰や川底の落ち葉の中にもぐりこむ。
何年か生きのびて大きくなったイワナはライトで照らしてもそれほどあわてて逃げまどったりせず、ゆったりと泳いでいる。
堂々として立派でほれぼれしてしまう。

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内閣不信任案否決のあげく [社会]

内閣不信任案が否決され、あれっ、可決しなかったのか、と思っていたら、まだ「はやく辞任しろ」とやっている。
菅内閣をやめさせようとしてやめさせられなかったのが「不信任案否決」なわけで、なぜまた「やめろ」の声が大きくなっているのかがわからない。
「ペテン師」だの「サギ」だの、ちゃんとした大人が、公の場で人を批判するに使える言葉とも思えない言葉が飛び交っている。
こういう報道は本当に気持ち悪いし、教育上も良くないから、今は災害緊急時だけどさっさと解散総選挙しちゃえば、と思ったりする。
さてそうなったときにどこに票を入れればいいのだろう?

国会中継や政治家の記者会見やその他の報道を見れば、政治家はみんな狂っている、としか思えない。何を言いたいのかサッパリわからない。
「災害復旧のめどがついたら世代交代を考える。それまでは責任を持たせてほしい。」という菅首相の言葉は、ごくごく普通の言葉に思えるのだけど、政治界ではそれではすまされないみたいだ。

不信任案が否決されたらさっそく「辞任することを考えているような内閣に国事はまかせられない、外国からも相手にされない」という負け惜しみのような批判が野党から出始めた・・と思ったら、「いつやめるのか明言していない。6月中とか7月いっぱい、とかはっきりしろ」みたいな批判が出る。
何がなんだかわからないでしょ。
たとえ6月いっぱいで辞任を考えていたとしても、総理大臣が「6月いっぱいで辞任します」と明言はしないでしょう。それはまずいでしょう。(国際的に見ても)
町内会の会長じゃないんだから。
政治家の一言一句で利権が動き、株価が変動する・・としたら、首相の発言というのはいつだってこんな風に煮え切らないものになってしまうのだろう。
日本の首相は、たとえ反原発を目指すべきだと思っていたとしても、「反原発」などと、国内でも国外でも言える立場じゃない。
なんといっても「正義より金儲け」の世の中なのだ。

官僚とうまくいっていない、という評判の菅首相。
こういう首相を辞めさせて、官僚とうまくやっていけてこれまでの利権を守っていける内閣をつくりたいというのが大方の政治家の考えなのではないか。
自民党のタニガキが「カンさん、あなたとは一緒にやっていけない!」と何度も繰り返していたが、意味不明であり、逆にものすごく意味がはっきりしているとも言える。
一体、誰とならいいのか?自民党が連立してもいいと思うのは民主党の誰なのか?
自民党が連立してもいいと思うような『誰か』よりは、菅首相の方がまし、と私は思ってしまう。

恥知らずな報道にはもうウンザリだ。
偶然チャンネル回していて、民放の番組にタレントみたいな顔をした政治家たちが毒舌を吐いていたりする場面を見たりするとぎょっとする。

次の総選挙もまた得票率が減るだろうな、と思う。

<追加>
わざわざ書くのも面倒なので付け加え。(6月11日)

菅首相の退陣がいよいよ間近となると、次の政権をどうするかってことに血眼になって「裏工作」やら何やらに時間を割いているのだろうな、日本の政治家は・・。
震災復興など二の次にちがいない。菅首相は震災および原発事故を「首相の座にしがみつく理由として利用した」など言われているが、カン降ろしを進めている側は、もっと震災・原発事故を利用しているのではないかと思う。
これまで原発推進してきた政党は、責任を感じる立場であって批判する資格などまったく無い。ただ黙ってみんなで震災復旧に向け協力だけしていればよいのだ。

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原発の行く末(2) [環境・自然]

震災以後、新聞は以前よりずっと丁寧に隅々まで目を通すようになった。
今は毎日新聞を購読しているけど、毎日新聞の震災に関する報道はかなり詳しく、また、その時々のまとめの記事もていねいでわかりやすい。
紙面論調は一貫して「原発見直し」「新エネルギーへの転換を」というもので、読んでいても「読み甲斐」がある。
新聞を読み比べたりはしないが、回りの人の話を聞くと、原発事故の記事に関しては毎日新聞は他紙に勝っているようだ。

それに比べNHKの報道はひどい。どんどんひどくなっている。
先日、1号機の燃料がメルトダウンをして圧力容器の底に穴があいているらしい、という事実が報道された。
この大変な事態を説明するのに、NHKのニュースキャスターとコメンテーターが、平気な顔してまるで何でもないことが起こったような口ぶりで話していた。
毎回、深刻な事態をことさら何でもないことのように報道するのに腹が立つが、13日の報道には本当にひどかった。キャスターが大越健介、コメンテーターが岡本孝司。
明るい声で大越キャスターが言う。「今回のことについてどう思われますか?」 岡本氏が明るい表情で「こうなるとは思っていなかったんですがね。ちょっと残念ですねぇ。」あっけにとられた。
何が「ちょっと残念」だ。なぜ「大変な事態に起きていた」と言わないのか。

浜岡原発の停止を菅首相が要請したときは、市民の声として、唐突だ、他の原発も影響をこうむる、電力不足が心配だ、など反対意見ばかりを報道しているように思われた。
(スズキ自動車会社の鈴木会長がインタビューで「昨年の猛暑のときの電力需要でも、原発ぬきの電力供給で間に合う数字だった」と述べていたが、そうだろう、そうだろう、と思った。不思議なことに、去年の猛暑では「節電」の必要性がさっぱり聞かれなかった。)

今はさすがに浜岡原発停止に対する反対意見はなりをひそめている感じ。
今日(5月16日)の毎日新聞の世論調査(被災地をのぞく)によると、浜岡原子力発電所停止について「評価する」が66%、「評価しない」(25%)だった。
浜岡原発以外の原発については「停止する必要はない」が54%、「停止すべきだ」は34%。
これからの日本のエネルギー政策については、「原発は減らすべきだ」が前回より6ポイント増え47%、「原発は全て廃止すべきだ」が12%、「やむを得ない」が9ポイント減って31%、とあった。

浜岡原発の運転停止については、内閣支持層の78%、不支持層でも61%が評価したていて、支持政党別にみると、民主党支持層の79%が評価、自民党支持層でも58%、公明党支持層でも55%がそれぞれ評価しているとあった。

14日の日曜討論を半分くらい見ていたら「これからは自然エネルギーの方向」をどの党も強調していて(確か公明党は「原発の安全性を確認しつつ」とも言っていたけれど)、原発志向が方向を変えつつあるように思えた。
菅首相の「一番危険な浜岡原発をストップ」は、推進派からはあれこれ言われたが、これまでの流れを大きく変える布石になったのだと思える。でも油断はできない。
必ず反対方向へ揺さぶろうとする力は働くだろうから。

今一部で話題になっている、「内閣不信任案」の話も、そういう力の一つだろうか、という気がしてきた。
野党と与党内の小沢派(?)が、政府の福島第一原子力発電所の事故対応について、
「今のような対応を続ければ、被害は拡大し、取り返しのつかないことになる」と批判を強めているのだという。
今のような対応が何をさすのかわからないけれど、政府の対応がおかしいという所はたくさんある。文科省などまったく信じがたい対応ぶり。
ただ、これらの対応のすべての責任が菅首相にあるということにはならないような気がする。

たまたまヤフーの「内閣不信任案の提出は『適切』か『不適切』かという意識調査を見たら、結果があるはっきりした傾向を示していた。(信憑性が持てない調査という気がするけれど、もともとあてにならないのが世論というもので、あてにならずフワフワしていてもそれなりに影響力を持つからこわい。)

それによると、内閣不信任に賛成しているのは、支持政党別にみると、自民党支持者、公明党支持者の7割以上、民主党支持者の51%くらい。これに対して、今の時期は不適当と答えているのは、共産党と社民党の7〜8割、というものだった。
菅首相はつまり、保守派から疎まれ、革新勢力から支持を得ているようだ。ようやく、政治界のいろいろな動きの不愉快さの正体がわかったような気がする。
(この政党別の結果表は今は削除されているみたいです)

菅首相への批判が、私からみるとどうもピント外れな感じがする理由がここにあるように思った。たぶん、菅首相は「左」からの支持もあるため、同じ民主党内の別の派閥や、自民党や公明党やら、NHKから疎まれるのではないか。
愛国心を掲げる人たちから絶対に嫌われるタイプなんだと思う。

福島原発の見通しはますますわからなくなってしまった。原発被災は果てもなく続くのだろう。「原発ぬきのエネルギーを、節約して使う方法」を考えていく方がかえって現実的な策になったのではないかと思う。



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原発の行く末 [環境・自然]

菅首相が浜岡原子力発電所のすべての原子炉の運転停止を中部電力に対して要請した。
よかった、よかった。と、今はこう素直に喜んでいる。
これで逃げ場がなくなるということはなくなった。何しろ、日本列島を取り囲むように原発があって、安全な場所など日本にはほとんどない。何かあったらどこにも逃げようがない。3.11後も執拗に余震あるいは別の地震があって、これは東海地方は危ないな、そうなったら日本も終わりだな、と感じている。
地震国の日本で原発はどう考えても無理だったのだ。

福島原発事故が起きて、原発は無理なのではという世論が高まり、もと原発推進派の研究者や学者の反省なども報道されてきたけれど、一体この先原発をどうするのかについては、はっきりしていない。震災復興に全力を挙げたいときなのに、原発をどうするかという問題をそのままにしては、復興もスムーズに行かないだろう。

浜岡原発の全面停止も、安全面で強化ができるまで(およそ2年間は必要だそうだ)、というもので、50機以上ある原発をどうするかもまだ棚上げのままだ。それでも浜岡原発全面停止というのは膠着状態の原発問題に対する大きな一歩だと感じる。
さっそく、「菅首相のパフォーマンス」だの「政権維持のための苦肉の策」などいろんな意見がテレビやネットを飛び交っている。
(じゃ、全面停止を提言しなければよかったの・・? いいよ、いいよ、首相の座にしがみついたって・・。自民党だったら止まらなかったよ。)
たとえ、そういうことも考えての提言だとしても、菅首相には浜岡原発を危ないと思う気持ちが真に無い、などということはないだろうし、浜岡原発を止めることは取り合えず良かったというのは事実だ。
ウラのウラの話など事細かく知ってもそれでどうにかなるものではない。

福島原発事故によって、原発を今後どうするかは避けて通れない緊急の問題となった。
災害復興は場当たり的にはできないだろう。これまではそうであっても、これほどの震災が起きた後では、多くの人が一致して目指すことができる「理想の方向」というものが必要になるだろう。そのときに、「原発をどうするのか」はどうしても考えなければならないことなのだ。

不思議なのはこれほどの大事故が起きても、まだ、原発をなくすわけにはいかないだろう、と考える人がいることだ。これからも安全面の対策を強化してもらえば続けてもよい、と考える人がいる。「安全面を強化して」という言葉が、原発を受け入れることになり、その結果こういう事態に至ったのに、まだそんなことを言えるのは、やはり被災したのが自分ではないからなのだろうか。自分や自分の家族が放射線被害に直面する事態になるまでは考えは変わらないのだろうか。

人間が造ったものに事故はつきもの、という「あきらめ」の考えも一般的にある。安全管理の手抜きから、飛行機や列車の大事故も起きる。車の事故など日常的にある。
しかし、原発の事故を飛行機や列車事故と同列に並べることはできない。
飛行機や列車の事故は一瞬にして大惨事を引き起こすが、原発事故は一瞬の惨事で終わりなのではなく、その災害がいつ果てるともわからずに続くのだ。

「風評被害」ということがさかんに言われるが、それが放射能というものでしょう。目にみえないし、ちゃんと放射線量を測っているのかどうかも私たちにはわからない。
ここの野菜に、ヨウ素が、セシウムが、見つかった、と言われて、ではその周辺の野菜は大丈夫なのだろうかとは誰でも思うことだ。すべての周辺の土地、野菜をまんべんなく調べることなど、到底できそうにない気がする。
原発に備えてあるはずの測定器さえ、故障だの、数が足りないなど言っている始末なのだ。一カ所検査してその辺りは大丈夫、と言われても、他は大丈夫か、全部ちゃんと調べたのか、と、人が疑心暗鬼になるのは当たり前のことだ。
私などは、そんなに神経質には考えなくてもいいや、と思う質だけれど、若い人、小さな子供がいる家族はそうはいかないだろう。

海の中の放射線量など、とても測れるものではないと感じる。たまたまどこかで測ったらこうだった、という情報しか得られないと思う。

福島原発事故で避難した方が、「いつになったら帰れるのか」「戻れるのかもどれないのかはっきりしてほしい」と思うのは当然のことだが、「事故の収束に今後どの位の年月がかかるのかわからない。永久に一部の地域が立ち入り禁止になるかもしれない。」というのが原発事故の特徴なのだと思う。

原発事故はそうしたものだということを知っているかどうかは「教育の問題」もある。
経済に支配されている社会では、経済効果ありという政策が、巧妙にあらゆるメディアを使って宣伝され、人々の頭にしみこんでいく。<この世で一番大切のは金(経済)ですよ。それを考えないのは大人ではありませんよ!>
これに対抗して、科学的に見て可能なのか、危険性はどうなのか、は「教育」(学校だけではなく広い意味で)でしか伝えられない。
それなのに、原発が日本に造られ始めると、全国の校長、教頭を対象に「原発に対する理解を深める」ための講習会を開き、ぜいたくな接待まで行われていたらしい。(参加した人から聞いた話)
学校で、原子力について講演をしてもらおうとすると、原発に反対っぽいの立場のひとは困る、と言われる始末だった。大方の学校では、原子力の平和利用をすばらしいものとして教えていたのではないかしらん。

今、こういう事態になって、さすがそれはできなくなっただろう。
でも、まだまだ、みんな呑気すぎるよ、と感じることは多い。

今まで、原発推進の力が君臨してきたのだから、いきなり全原発撤廃はむずかしいだろう。でも5年、10年計画で、原発をなくす方向でいく、ということは共通の目標にできるはずだ。そうなってほしい。
少なくとも、福島原発の事故が完全に収束し、最後どうなるかを見届けるまでは日本中の原発停止を進めるよう必死に努力べきだ。陸から海まで汚染し続けながら、平気で、これまでと変わらず原発利用はおかしいだろう。

チェルノブイリは25年経ってもまだ終わっていない。
福島原発の最後を見届ける前に、たぶん私はこの世にはいないね。
ところで誰かが言っていた。これからは「廃炉ビジネスが儲かるぞ〜」と。

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