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【じみんとうのみなさんへ】 [社会]

ツィッターで、『憲法かえるのやだネット』さんのツィートがとても素晴らしいので、紹介します。秀逸です!

アソウ氏が読めなかった漢字の読みがなが( )の中に書かれていますよ。

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【じみんとうのみなさんへ】

① 安倍政権に対して、私たちが日頃、頻繁(ひんぱん)に感じていることを述べさせてください。
この意見には何の思惑(おもわく)もありません。

② 順風満帆(じゅんぷうまんぱん)のように報道されているけれど
その実、低迷(ていめい)化している日本の政治を憂い、何らかの措置(そち)をとらないといずれこの国は破綻(はたん)すると危惧しての抗議です。

③ 私たち親や大人は子どもに対して、嘘はいけない、ズルはよくない、聞かれたことにはちゃんと答えなさいと教えています。
暴力はいけないよ、いじめはいけないよと教えているのに、今の社会を見たら、ハラスメントだらけです。
ハラスメントの定義はいやがらせやいじめです。

④ 子どもにダメなことと言っているのに、責任ある立場の大人たちが、それをしているのです。
森友学園の公文書改ざん問題、安倍首相の「腹心(ふくしん)の友」である加計孝太郎氏の加計学園に対する疑惑、防衛省の日報隠ぺい、裁量労働制のデータねつ造、教育への政治の介入、セクハラ問題。

⑤ 政権にとって都合の悪いことは隠し、便宜(べんぎ)を図り、改ざんし、ねつ造する。上から圧力をかけ、委縮させ、やめさせる。
嘘に嘘を重ね責任をなすりつけ合う大人の姿が毎日テレビで詳細(しょうさい)に流れているのを、子どもたちは見ています。

⑥ もう大人なんだから、うそをつかないとか、憲法を守って政治をしなくてはいけないとか、大事な文書を書き換えてはいけない、とかそんなことも分からないなら小学生からやり直すべきです。
小学1年生でも、お友だちが発言している時に寝ているとか、椅子にふんぞり返って

⑦ ヤジを飛ばすなんて誰もやりません。けんかで怪我(けが)をして泣いているお友だちに対して、怪我(けが)をさせたお友だちばかりをかばうこともしません。
自民党のみなさんは、政権与党ですので、ウソ、隠ぺい、いじめ、恫喝の安倍政治を許し、支えていることになります。
 
⑧ それでも良いですか?
これは、日本の政治にとって、いわばまさに未曾有(みぞう)の危機だといえます。
何をおいてもまず国民の信頼回復のためにも、焦眉(しょうび)の課題として考えてください。
私たちはまともな政治を取り戻したい。ただその一点に尽きます。

⑨ 子どもたちに「この人たちはみんなの代表で、頑張っているんだよ」と胸を張って話せる国民の代表であって欲しい。
これは、これまでの、政治家たる在り方の踏襲(とうしゅう)や、慣習云々(うんぬん)以前の話です。
憲法改正の完遂(かんすい)や有無(うむ)の論議の前に、

⑩ 人として考えていただきたいと思います。
私たち市民とともに、政権与党の中から立場を超えて、内閣の総辞職をもとめていたただくことを切にのぞみます。

全国一斉自民党前抗議実行委員会@長野

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与党のみなさんに読み聞かせをしてあげたいですね。

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パワハラとセクハラ [社会]

(書きかけの文がそのままになっていました。)


政治のみならず、相撲界、レスリング界、報道界など、いろんな問題がこう噴出してくると、ニュースをちょっと見るだけでイライラ、頭がぐちゃぐちゃになってしまう。
特に当事者が、ウソをついて居直り、相手をバカにする言動を平気でする様子を見て疲れる。
信じられない出来事が多すぎる。

「前はこんなにはひどくなったよね」とか、それとも
「いまだに日本はこうなのか」と考えるべきなのか。


セクハラもパワハラも実際に経験したり、身近にそういう話しを聞く機会がないと、何も知らずに見過ごしてしまう。

問題が明らかにされて良かったと思う。
仕事場でもどこでも、こんな理不尽な環境があることが許せない。

セクハラというのは、「男性優位社会」だからこそ出てくる問題だと考える。
セクハラ事件がニュースで流れると、「あ〜あ、バカな男がいるなー。」とか「男ってどうしようもないな〜。」と思うが、

考えてみれば、男が女よりも「生物学的」に劣っているはずはないと思うので、それは社会のあり方に原因があるのだ。
縦の関係がゆがんで重視される社会では、上位の者が下位の者にいくら無理難題を言っても、下位者はそれに従う事を要求される。
それが一般化されると、
「先輩が白と言ったら、たとえ黒いものでも白と言え」という風潮が生まれる。
実際に、そのままの言葉を投げつけられた例を最近聞いて唖然とした。
そして「男社会」においてはいつでも男性が上位者なのである。

幸いなことに、私はそういうあからさまに酷い環境の中で仕事をしてこなかった。
嫌な「男優位主義者」はいることはいたけれど、鼻の先で笑っていたし、もしえらそうな態度をとったら、当分身の置き所がなくなるようになる、という雰囲気が職場にはあった。もちろん陰では何を言っていたかわからないけれど、それはお互い様。
そこまでいちいち気にしていたら仕事はできない。

私がいた職場は、ある意味恵まれていたのかもしれない。
それに、戦わなければならない相手は他にいて、それは鉄壁のように立ちはだかっていたのである。
その壁との戦いに明け暮れしていたから男女の区別なく一緒に戦っていた。

パワーハラスメントは大きな問題だ。セクハラはパワーハラスメントの中に含まれている。男が女より下位だったならセクハラなんかできないだろうと思う。
相手より自分の方が上位だと思っている人間(勘違いしている人間)が、体罰やら、仕事への難癖やら、セクハラ問題を起こす。

こういう人間は怒鳴りつけて蹴飛ばすくらいがいいのだけれど、仕事上相手をたてなければならない人たちがいる。こういう職業についている人は本当に大変だろう、と思う。本人の力だけでは無理だろう。
周りが(利害関係のない立場にいる人たちが)、嫌がらせを受けている人に代わって制裁を加えないと、いつまでも状況は良くならないのだろうと思う。

セクハラ、パワハラをしたら、本人に徹底的に謝罪(もちろん大勢の第三者が見ている前で)させ、当然今いる仕事上の地位から降格させるべきである。
繰り返しセクハラをするような場合は罰則も必要だろう。

世界の国々の中で、日本は男女平等度が114位(世界経済フォーラムの分析によると)という結果。これでは国際社会の中で「恥ずかしい」極みとしか言いようがない。

男女の差別だけではなく上位下位のがんじがらめの縦社会を何とかしなければならないのだと思う。

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4.14国会前大集合 [社会]

4.14に国会前の集会に参加しました。

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おまわりさんたくさん


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歩道のこちら側とあちら側に分かれて集会とコール

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決壊がはじまり

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合流しました

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国会のすぐ前でみんなでコール


モリカケ問題はもう1年越えです。与党政府が責任を取らずに知らんぷりして逃げ切る姿勢のためにいつまでも解決しないのです。

3月に官邸前の集会に参加した時は警備がものかなり厳重で、永田町の駅のあたりから歩道上に柵が設置されて歩くスペースがすごく狭く、警察がずらり並んでいる中を一列に並んで歩かされ、まるで犯罪者扱いされているようでものすごく不愉快でした。
スピーチやコールが始まってもすぐ脇で警官がハンドスピーカーで「少しずつ進んでください!」「ご協力ください!」と不要なことをガンガン怒鳴るのでうるさくてスピーチが聞こえないほど。明らかにわざと集会の妨害をしているようでした。

4月14日は混雑を避けるため早めに国会前に到着。
力強いスピーチとみんなのコール、あっという間に時間が過ぎました。
回りの人と少し話しをしましたが、浜松から、大阪から、広島から、、、とかなり遠方から参加されていました。「交通費大変ですね」と言うと、80代位の女性の方が「アンタ、お金なんて。。戦争始まったら何もかもおわりなんだよ」と。

一部が終わっていったん帰りかけたのですが、コールの声にもう少しいようと、再び国会前交差点に戻ったちょうどその時に、歩道が決壊しはじめました。

警官の誘導で歩道を渡っていた私も、途中で信号が赤になり、警官が「こっちへ!あっ、こっちか」など言っているうちに真ん中に20人ぐらいの人と取り残され、いつのまにか車道にいました。
歩道から市民の波がジワリジワリと押し寄せて来て車道は開放されました。感動的なシーンでした。

国会前の広々した場所でのコールは、開放感に満たされ活気あふれるものでした!
前回は夜、灯りの少ない国会付近の歩道の最後尾の方にいて、コールリーダーの声も良くききとれないほどの遠さだったので、今回は晴れ晴れ。
すっきりした気持ちで回りの人と一緒にコールできて嬉しかったです。
一人で参加したので方向オンチの私は少し心もとなかったのですが、この場に居合わせることができてすごくラッキーでした!

決壊した(デモや集会で人が車道に溢れ出た)というと、「暴徒化した」などと言う人がいますが、そもそも狭い歩道に大勢の人を押し込めることに無理があるのです。
本来、警察の仕事は市民の安全を守ることでしょう。
市民を威圧し、手も足も縛り上げた状態にするのが仕事なら、もはやそれは強権国家です。政治に対して、国民が異議を唱える表現の自由が制限されたら、もう民主主義国家ではありません。
アメリカの銃規制を求めるデモでは、広い車道は市民に開放され、車の方が規制されたそうです。ヨーロッパの国々もそうだと聞きます。
日本だけが真逆の方向に進んでいるような気がします。(警備隊に囲まれて歩くのがいやだという理由で集会に参加したくないという人もいます。)

監視されて縮こまった状態に置かれるのがいかに不快なことであるかをあらためて感じた集会となりました。


* さっそく何人かの知り合いにメールや動画を送ったら、「いいな〜」「かっこいいな〜」「jazzだな〜」とうらやましがられました! 時を開けずに続けてまた抗議の集会をやっていくことが大事だと思いました。

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森友/加計事件の行く末 [社会]

一年前に森友学園事件のことを書いたが、一年過ぎてもまだ事件は解決されない。その上、そこに加計事件も加わった。
国民をまったくナメているとしか言いようがない。

モリカケ事件の問題をまとめると、

①公的権力を私物化して特定の小学校建設に便宜をはかり8億円もの税金を注ぎ込んだ。
②その小学校が目指すのが、戦前戦中のものに酷似したいわゆる極右の教育であったこと
③公的権力を使って大学の学部設置を援助
④これらのことをごまかすために権力を用いて文書改ざん隠蔽を行った


②について言えば、それは第1次アベ政権が発足したときからアベ首相が目指していたものであり、2006年の教育基本法の改悪という大事に至ってしまった。
(やらせミーティングなどの批判を浴びながらの例によっての強行採決)
このことは、教育に携わる人たちにとって、大きな衝撃と悲しみをもたらした。
「教育基本法」の改悪は、塚原幼稚園で実践されているような教育を国全体に行うという安倍首相の悲願(狂願)を強行したものだった。

「教育」は人と人、一対一で向き合うもので、国家権力や外部の力に屈することなく、直接的に責任を持って行う、という戦後教育基本法の理念が破壊された。
日本の教育者たちはどれほど悲しんだことか。「まだ憲法がある」とうのが苦しい慰めだった。

改悪によって、教育への権力の介入はますますおおっぴらに強まって、学校組織は上役と下っ端というピラミッド型に変わり、管理職の下に中間管理職をつくり、職員の分断を図るという「教育」にはもっともふさわしくない構造を持ち込んでしまった。
それにめげずに、まだ以前の(戦後の)教育基本法の精神を大切にして日々教育と向き合っている教員の方たちもいるはずと思うが、世代が変わればそれもなくなってしまうだろう。

「教育基本法」を取り戻したい、というのが私がいつも思っていること。

森友事件で権力の私物化が脚光を浴びているが、どういう教育を目指している学校に便宜を図ろうとしたのかについて、メディアはもっともっと強調してほしい。

それにしても、よく堂々と、こういう戦前戦中に戻すような教育を援助しようとしたのか。信じられないことだ。今の社会はそういうものを認める下地があるのだろうか、ということが一番の憂いになる。

テレビを見ていて、「野党の方が悪者に見える」という人がいる。
いつまでも同じ事を問題にしていて、もっと大事な事を話し合え、という人がいる。
理財局長が「本当に申し訳ない」と繰り返し謝る姿と、野党が追求する場面が、テレビに流れるので、野党は何をいつまでもしつこく追求しているのか、と思うらしい。

一年経とうが何年経とうが許していいことではない。
日常的に「忖度」などある、知り合いだからと便宜をはかってもらうことはある、と考える人がいるようだけれど、

強大な国家権力と国民の税金を預かっている立場にある人間は、「忖度」など、絶対にさせてはいけないし、してはいけないののである。

まして政府が平気で文書改ざん、隠蔽をし、それを放置していたら、この社会はどうなってしまうのだろう。
こどもに「うそはつかない」「ごまかすことは悪いこと」など、もはや教えられない世の中になってしまうだろう。


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名護市長選の結果に思う [社会]

名護市長選挙OTV開票速報を見ると、
年齢別の投票先が見事に分かれていて、思っていたより深刻な社会現象。

10代〜50代は稲嶺氏支持がおよそ38%、与党が推す渡具知氏支持がおよそ62%で、それが60代からは完全に逆になり、稲嶺氏支持がおよそ67%(90代は86%)で渡具知氏支持は平均34%、というものだった。

詳しく引用すると、
   (稲嶺氏支持) (渡具知氏支持)
10代ーーー37% ーーーーー 63%
20代ーーー38% ーーーーー 62%
30代ーーー39% ーーーーー 61%
40代ーーー41%ーーーーー 59%
50代ーーー38%ーーーーー 62%

60代ーーー65% ーーーーー 35%
70代ーーー68% ーーーーー 32%
80代ーーー67% ーーーーー 33%
90代ーーー86% ーーーーー 14%

こんなにはっきり分かれてしまうということはどういうことなのだろう?
現役世代とそうでない世代の分断ということになる。

内田樹氏がツィッターで、「日本もアメリカと同じように”国民的分断”の局面に入ってしまった」ということを書かれていたが、そうなのか、国民的分断とはこういうことなのか、と思った。実際に身近なところでも起こることなのだ。
これまでも人々の意見が層によってあるいは年齢によって分かれる傾向はあるとは思っていたが、ここまで顕著に現れるとは驚きだ。
しかも50代までと60代からの傾向の違いがあまりに際立っている。

沖縄基地辺野古移設反対を表明していた稲嶺氏が負けたことに「えっ!」という驚きと失望と悲しみを持ったが、選挙というのはそういうこともあるだろう。
いろいろな力が働くだろうし、ましてや基地問題にからむと選挙となれば、国(与党政権)は権力を駆使して様々な策をぶつけてくるだろう。
基地の辺野古への移設反対を訴えた人たち(政治家はもちろん沖縄県内外の人たち)はずいぶん頑張っていたし、私の回りには辺野古移設反対派が多いので、稲嶺氏が勝つような気がしていたけれど、そんなに簡単なことではなかった。
トランプを支持しているいる人がいるくらいだから、政治家を選ぶ基準、尺度が、人によってまったく違うということだ。

沖縄タイムスの社説には、「基地疲れ」「経済重視」という見出し。
稲嶺市長の市政では、福祉、教育、雇用問題などすいぶん上向きに改善されてきたのにもかかわらずだ。
社会政策がほんの少し上向きになっていても、日本全体の経済不安の前には、たいした効果なしという判定をされてしまうのだろう。
しかも基地建設に反対し続ければ「再編交付金」は支給されない。
本来ならば、基地をずっと押し付けてきたいうことだけで、その代償分のお金を今後も沖縄県に支払うべきなのだ。「代償交付金」として。

沖縄に基地を押し付けていることは不公正、不平等で明らかに間違っていることであっても、国は圧倒的、暴力的な力を使って基地建設を進める。
「どうしようもないことだ」「もういくら反対しても基地は作られてしまうのだ」と感じる人がいても不思議はない。


やっぱり今の時代、「正義と公正」は弱いものだ。
沖縄への基地押し付けと日米の地位不公正さ、をなんとか正そうと頑張っている人たち(政治家や市民)はたくさんいるのだが、、、。

基地があることによって、日々の生活の中で常に不安と不快を感じ、国家権力の横暴さを目の当たりにしながら生きてくというつらさは、想像するだけで恐ろしい。

これで、「沖縄の人たちの選択だから」という言説がさらにまかり通ることになるのだろうか。

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「正義」と「公正」 [社会]

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正月にテレビで「相棒」を観て、よくできているなあ、と感心した。
最近の政治ネタがしっかり入っていて、ドラマを通して一貫して訴えているのが、「正義」と「公正」。
「相棒」シリーズはその時々の世間の話題になっていることが、うまく織り交ぜてありしかも批判的に描かれているので、見終わってなんとなく元気になってすっきりする。
いつも感じるのは、社会生活を送る人間が一番大切にしなければならないことは「正義」と「公正」だということ。これには文句なしに共感する。

人間として大事にしなければならないことと言うと、
一般的には「平和」とか「思いやり」とか「助け合い」という言葉があがるだろう。

それはそうだ、もちろんそうだ、と思いながらも、
何か居心地の悪さ、おさまりの悪さを感じてしまう。
「思いやり」も「助け合い」も人の感情や情緒といった部分に大きく関係するので、「一日一善」というような訓戒みたいに感じられ、居心地が悪いのだと思う。
「オ、モ、テ、ナ、シ、」を思い浮かべるからよけい居心地が悪い。

言葉は時代と共に微妙な雰囲気をまとっていくものだ。
「リベラル」という言葉も、今では価値がなくなり、むしろマイナスのイメージとして定着してきたのに驚いている。

「リベラル」の語源はともかく、私が学生だった頃使っていたリベラルの意味は、

「迷信や古くさい因習に囚われず、公正で自由な発想と行動力を持ち、
人真似ではなく、自分の進むべき道を果敢に切り開いていくこと」

だった。

だから「リベラル」はかなりのほめ言葉であって、
リベラルのふりをしているだけの人、真にリベラルな人、
という区別もしていた。

それなのに、今の政治の世界ではリベラルと言われるのはよくないことらしい。
それは左翼だからダメということらしい。
「左翼」という言葉だって本当はどうということない言葉で、
右翼に対しの左翼、という意味にとれば、私は左翼ということになる。
レッテル貼り(つまり差別)のために使うから嫌な気分になる。


そういうことを思いながら、あらためて「正義」と「公正」について考えてみると、これはまだゆるぎない言葉だ。
「正義」と「公正」に真正面から反対する人はいないだろう。
世の中のさまざまなニュース(政治的なものから、毎日のように起こる事故や事件にいたるまで)に、人が腹を立て、話題に取り上げ、事態を見守るのは、「正義」と「公正」がないがしろにされていることについてだ。

そのゆるぎないはずの「正義」と「公正」が最近軽視され始めたような気がする。
特に感じるのは政治における「正義・公正」の軽視だ。これは非常事態だと思う。

「正義・公正」にあらず、ということはすなわち「不正」なのだが、
「不正」が見過ごされて知らんぷりされ、まかり通っていくのを見るのはものすごく大きなストレスだ。このままでいいのか、これを許したら、このあとの「不正」もすべていいことになってしまうのではないか。
これでは社会生活の根幹が崩れてしまう。

森友・加計問題、沖縄基地問題、原発問題、労働問題・・すべてが「不正義」「不公正」に処理されていいるのが許せない。

「正義」と「公正」を大事にする世の中になってほしいというのが今一番の願い、目標だけれど、
「正義」と「公正」を振り回す人間て、今の社会では嫌われるんだろうね。


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2018年の始まり 〜国連総長が世界に警告〜 [社会]

今年は1ヶ月にせめて2回くらいは記録をしておこうと思っていたのにいつの間にか1月が終わってしまった。世の中嫌なことが立て続いて、がたがたグチャグチャしていると、時はすごく早く流れるものらしい・・これ実感です。
2018年は国連総長の警告で始まった。大事なことなので記録しておきます。

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【ニューヨーク共同】国連のグテレス事務総長は31日、新年のあいさつを発表し「2017年は年初に平和を願ったが、残念ながら根本的に逆のことが起きてしまった」
とし、世界の指導者らに団結して立ち向かおうと訴えた。「これはアピールではなく、非常事態の警告だ」と強調した。

グテレス氏は17年初めに就任した。1年間を振り返り「核兵器の脅威は冷戦以降では最も高まった。人権の恐ろしい侵害があり、ナショナリズムと外国人嫌いが勢いを増した」などと列挙した。いずれも具体的な国や地域には言及しなかった。
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どうしてこんな社会になってしまったのかと考えることが多いが、日本だけではなく世界各地で起きている現象であるようだ。
もちろん全体的にということではなく一部ではあると思う(願う)が、ナショナリズムが日本だけでなく世界に遍く台頭してくるというのはとても気持ちが悪いことだ。

歴史のうねりというものが、人間の個々の意思とは関係なく、抗いがたい自然災害みたいに思えてしまう。
日本だけなら、「日本社会にはこういう問題点があり、こういう傾向がある」と分析もしやすく、問題の解決法もなんとか見つけられるような気もするが、世界的にこうだ、ということになってしまうと、考えるすべもなくなるような心もとなさだ。

2018年がどんな年になるのか、予測がつかない。
10年後となるともうまったく予測がつかないが、良くはなっていないとしてもせめてこれ以上ひどい社会になっていないことを願うばかり。


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2017年の終わりに  [社会]

3月に森友学園のことを書いたきり、あれよと思う間に今年も過ぎ去って行く。
何も記録せずにこのまま終わりとなりそうだったけど、雑感だけでも・・。

この年がどうだったかと考えるとやはり気持ちは暗くなる。
いつもいつもマスメディアに踊らされている世間の風潮は、ひどくはなっても決して良くなる気配がない。
現政権の支持率がそれを物語っている。
どんなに酷いことをやっても、依然と今の与党を支持している人がいる。
それが不思議でならない。

森友、加計事件のことだけを考えても、
ある人と話したら、「政治家なんてみんなそんなものだよ、特に今の政権が悪いとは思わない」などと言うのでがっくりしてしまう。
税金を私的な交友関係で動かしたり、その場しのぎの嘘をいくらついても、それもたいしたことはないと思うらしい。
それも、金持ちでもなく質素に暮らしている人が言う。まったく不思議だ。

若者は与党支持者が多いという。これはなんとなくわかる。
政治ニュースに漂う腐った臭いを、若い人は我慢できない。選挙になんか行かない。
自分の身をそういう社会から外に置くことで一応自分を守っているのだろうと思う。

でも政治から遠い場所に身を置いているつもりでも、社会から逃げることはできない。
嫌な社会から目をそむけても、社会の影響を否応なく受ける。
でもそういうことは考えない。毎日がきつい労働で心身がくたくたなので、政治の話題は余計なことで、そんなことより今自分が抱えている問題や環境をなんとかしたい。
何でもどうでもいいという気になる。
本当は、今個人が抱えている悩みや問題や生活は、政治に深い関係があるのだということは思わないだろう。

選挙に行く若者の方がむしろ珍しい。
テレビでインタビューに答えている若者の姿を見るが、
たとえば憲法改正についてどう思うか、と問われたら、「よく考えて、みんなで話し合って決めればいいと思います」という返答をする人が多い。

「よく考えて、みんなで話し合って」ということがいかにむずかしいことか!!

北朝鮮がやたらとミサイルを飛ばしてくるーこれは危ないから何とかしなければならないー日本も軍備をしっかりやらないといけないーそのためには憲法を変えることもやむを得ない。
と、まあ、こんな風なのが「よく考える」ことになってしまう。
若者だけではなくいい年をした大人もこんな風な人が多い。
こういう考え方はとてもシンプルで、一見論理があるようにみえる。

そこに欠けているのは、もう一つの考え方として「武力で平和がつくれるなら、世界はとっくに平和になっているはず」という考えだ。
なぜ日本が70年以上も戦争をしないでこれたか、そもそも戦争はどのように始まってしまうのか、歴史をしっかり学ぶところから始めないと「良く」考えることはできないだろう。
「戦争になりそうで怖い」という人たちの考えには二通りあって、
だから安全保障を強化するべき、という考えと、
武力ではなく友好関係を築くことで、という考え。

後者の考えを実践するのは本当に難しいかもしれないが、個人、民間団体で、実践できている例は多い。
前者の、安全保障=武力強化という考えは、一切ぶちこわして簡単に戦争になだれ込んでいく可能性が大きい。

「戦争が怖い」なら、どういう方向を目指すべきかはっきりしていると思う。
武力を支持する人は、「悪いやつはさっさとやっつけてしまえばいい」と考え、それによって事が起きても、自分や自分の身内には災いは絶対に及ばないという迷信のようなものを持っているのではないかと思える。


「みんなで話し合って決める」

みんなで話し合うことがいかに難しいことであるか・・!!
国会中継を見ていれば、国民の代表者の政治家たちの話し合いを見られる。
ちょっと見ているだけで気分が悪くなる。
議論がかみあわない。それは質問者に対してきちんと答えない政治家がほとんどだからで、こんな会議をやっているようでは「みんなで話し合って決める」ことなどできるわけもない。議論がかみあわないだけではなく、せせら笑ったりにやにやしたり。。
ちょっと見ているだけでうんざりする。胃が痛くなる。

だから、「よく考えてみんなで決める」ことなど簡単にできないということだ。
じゃあ、何もできない・・?
強引に変なことを決めるくらいなら、何にもしない方がむしろましだと思う。
きちんと公正、公平な話し合いができないようなら、法律を作ったり、まして「憲法」をどうにかしようだなんて、滑稽としか言いようがない。

独断的、強圧的な力と、それをとめようとする力(こっちはまだまだ弱い)
先の見えない戦い、
これまでもずっと引きずってきて、
これからもずっと引きずって行くのだろうな、と思うと、
年の終わりも始めもないな〜というのが今、感じていること。


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森友学園事件に思う [教育]

森友学園のニュースはあさましく、地に墜ちたとはこういうこと、の見本みたいで、特に意見を述べる気にもならないでいたけれど、今、真面目に教育の取り組んでいる人たちに対して、やはりエールを送らないとまずい。

世の中めまぐるしくニュースが駆け巡り、一つのことを考えている間に、二つめ、三つめ、とひどい事件が起きるので、いつの間にかボーッとそれを眺めているだけの傍観者になっているような気がしている。
これは良くない傾向だ。

ひどいニュースを日常的に見聞きしていると感覚がまひしてくる、というのは戦争体験者から聞く話だが、こんな風だったのだろうかと感じたりする。

森友学園事件については前代未聞というべき形容がピッタリするのかもしれないが、アベ首相(アベ政権)はこういう人だろうと思っていたことが、そのまま表面に出たということで、特に驚きはないという人も多いだろう。
「類は友を呼ぶ」ということわざ通りなのだ。
公になっただけでも良かったと思うけれど、公になっても大したことは何もできないかもしれない。
これまでも、こんなひどい事が許されるのか、これで何事もなかったかのように政権は保たれて行くのか、ということがずっと続いてきているので、私たちの怒りや勇気がひどくそがれてしまうのである。

アベ首相の考え方は、憲法と真っ向から対立するもので、このような人物によって2009年に「教育基本法」が崩されてしまったことが本当に無念でならない。
「教育基本法」は元通りにしなければならないと今でも思う。

法律は人の手によって作られるものだから、人の手で作り変えることもできる、とは自明のことではある。
問題は、どういう人達(政権)によって、どういう目的で、変更されるか、ということにある。



日本国憲法は、

「国民主権」「基本的人権の尊重」「平和主義(戦争放棄)」の3本柱であると、

中学生、高校生は学校で教わることだろう。
(ちゃんと教わっているだろうか・・?)

その3本の柱が戦後の日本の土台を築いて来た。
だから、この3本柱を崩すというのは大変な大変な大変なことなのだ。
私には、アベ政権がこの3本柱を全部変えたがっているとしか見えない。

国を讃える、ということを強調したがる人たちは、国民一人一人を大事にするのではなく、人が集まって成り立っている国というものの枠組みや体裁を重んじる人たちで、つまりは時の政権を讃えることをよしとする人たちだ。このような人物・団体・政体によって、憲法や教育基本法を変える、ということがいかに絶望的であることか。

憲法に沿って、平和を守ることの大切さ、一人一人が言論や表現の自由を持ち、人として生きていける権利を持つこと、一人一人の意見が尊重されなければならないこと、などを、学校でしっかり教えようとすると、「偏向教育ではないか」などと言い出す輩は行政側に必ずいたが、今ではそう言う意見が大勢になって、教員はさからわないようにしているのではないだろうか、と不安になる。

今回の森友学園の問題を見ると、国有地払い下げの問題と同時に、その教育内容についても、その異常さが際だっている。
教育の目標・内容と、学校設置および経営の何もかもが極端に狂っているとしか思えない。

この異常さの根っこがどこにあるのかを見極めないと、こんなことはいくらでも続くことになる。


ばかな政治家の介入を許さないために、先の「戦後の教育基本法」では、教育は「不当な支配に服することなく国民全体に対し直接に責任を負う」という条文(第十条)があった。
学校で教育に携わる者は、行政の命令などで教える内容を変えてはならず、憲法、教育基本法の精神に沿って、生徒や保護者に直接的に責任を持って接しなさい、という意味である。

それを新・教育基本法で「直接の責任」と言う言葉を削ったのは第一次安倍内閣である。
教育行政の中心にあるのは、与党政府の文科省である。
最近「天下り」で悪名を高めたがもう早くもニュース性はが薄れてしまい、関係者は胸をなでおろしていることだろう。(もともと腐りきっている、あるいは腐りがちな所なのだ)
そしてその文科省の息のかかった末端の都道府県や市町村教育委員会が「行政の代表および窓口」なのである。

この行政側の者たちにまかせなさい、つまりは命令することに従って教育しなさい、ということにしたのだ。


「戦後の教育基本法」は、戦前戦中、高校、中学校、小学校のすみずみまで「戦争賛美」の教育が行われたため、これを反省して二度と「時の政権」に利用されないように、教育を政治介入から守るための法律だったと思う。

2009年、第一次アベ政権はまずその教育基本法を切り崩し、そして今、憲法を切り崩そうとしている。
政治というのは大きな力を持つもので、
その前では個人の力は本当にちっぽけで(ちっぽけなんて言葉では言い足りないほど小さくて)、そういう小さな個人が団結したり協力しあうことまでを徹底的に防ぐために、共謀罪だの秘密保護法を作ったりするのだ。

その流れに歯止めはかけられるのだろうか。
どうやって歯止めをかければいいのか。
崖っぷちに立たされている気分だ。


(追記)
一夜明けて、森友学園事件は学園の不正のみが大きく取り上げられ、その裏で大きな影響力を及ぼしている政治世界には、焦点が当たっていない。やっぱりこうなるか。

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2016年から2017年へ 〜 『差別』〜 [社会]

人間の悪徳の中で「差別」という感情・行動がもっとも酷いものではないかと思う。
泥棒や、場合によっては人殺しよりも酷いことだという気がする。
もっとも、差別と人殺しは一体になっていることが多いが。

「差別」の感情は多かれ少なかれどんな人間にもあるものだと思う。
そういう感情を自分の内に見いだしたとき、「あ、これはまずい」「こういう考えは捨てなければならない」と自分で自分を戒める。それを『正義』(社会の中で生きる人間にとって正しい在り方)と言うのではないか。
『差別感情』を抑えられなくなったらアウトなのだが、抑えるつもりもなくしたような人間が増えてしまったのは何故だろう?

人種や民族の違い、社会的地位があるかないか、金があるかないか・・こんなことで人は優越感を持ち、他人を見下し侮蔑するのだ。
未熟な子供の世界では、自分より弱そうと思っただけでいじめ行動が出る。

途方もない富や社会的名声を持ってしまった人間を私は本能的に信用できない。
富や名声は、社会があればこそ生まれるもので、自分で勝ち得たものであるように見えながら、本当は社会を構成している大勢の人たちのおかげなのである。
他人がいなくては金持ちになりようもなく、莫大なお金を持って無人島に行っても、助けてくれる人がいなければどうにもならない。
人は金のあるなしに関わりなく、他人に頼り頼られながら生きていくしかない。

だから、人の労働や仕事に、大事なもの、大事でないもの、はないのである。
なくてもいい仕事と言ったら、たとえばカジノだとか、歓楽街だとかに関わる仕事を思いつく。
これだって、立派な仕事だ、経済効果もある、などもっともらしく言う人はいるだろう。それは屁理屈というもので、実際は、職業に貴賎はあると私は思ってきた。

普段からそんな風に考えているので、2016年は(2016年も、と言うべきか)、ニュースを見てもただただ不快で耐えられなかった。
テレビを見て、「こんな人、本来なら大勢の人を前にして演説なんかをするべき人間じゃないのにな〜」などと思う事がしょっちゅうだった。

人の醜い部分を隠そうともしなくなったらもう終わり。
人の最も醜い『差別感情』をむきだしにしたら、もう人間失格。
『差別』をなくすことが『正義』というものなのだと思う。

とうてい国の代表にはなれないような利己的な資質の持ち主が選挙で選ばれてしまっている。経済利益だけしか考えないような人間の回りに、同じような人間が集まって力を持っていく。そして自分たちの経済利益に反するような人の集団を排除しようとする。
『正義』のないところに私が望む政治というものはない。

私が政治家に望むことは、
「公平であること」「平和な社会をつくること」
「国民の僕という意識を持つこと」ぐらいだが、


ところがたいていの政治家は私が望むこととは正反対の資質を持っているように見える。
政治は一部の人間の経済利益によって動かされ、
それ以外の政策は選挙で勝つための方便にすぎない。

そういうことは露骨に見えているが、
社会の雰囲気はかなりひどくなっていて、今のところそれが変わるという気配は感じられない。
社会を一応代表しているような立場の人が醜さをむき出しにして反省もしないから、それに続けとばかり、堂々と図々しく身勝手な利己主義・差別感をまき散らす人間が増える。
本当に迷惑なことだ。

正義感を持たない政治家が、自分のことを「国のリーダー」「ひとかどの人間」などと勘違いしてしまうのは、マスコミの責任が大きい。
本当なら、批判して軽蔑して無視すべきなのに、ちょっとだけ批判してそれでも期待しましょう的なニュアンスをまき散らしている。
マスコミの中にも自分で「社会をリードしている」などと思っている人間がいるだろうから、本当に仕方がない。
何もかもが仕方がないことだらけだ。

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選挙について〜2016年参院選と都知事選〜 [社会]

参院選について

新聞は選挙直前になって急に『改憲勢力3分の2』という見出しが目につくようになった。
マスコミは、改憲については選挙の争点にのせないようにしているアベ政権の後押しをしているのか、と思えた。
選挙の前日にNHKでは、選挙での各党首の戦いを紹介する番組を流していたが、
何気なくNHKを見て、なんでアベ首相の宣伝番組をやっているのか!!と仰天した。
あわてて新聞の番組欄を見たら、各党首の選挙戦を紹介するというものだったが、あれはどう見ても政府の公報番組だった。
アベ首相のあとに紹介された他の党首については、いかにも「こんな風に戦っています」というただの紹介にすぎなかったが、アベ首相の扱い方は他の党首とはまったく異なりドラマチックに出来上がっていて、アベ首相を取り囲んで笑顔で談笑する若者たちの顔などが印象的に映し出され、日本が今直面している厳しい現実をあまり知らない(感じていない)人が見たら、一番力がありそうで安心して政治をまかせられそう、と思ったに違いない。
制作者は誰?

こういうメデイアに取り囲まれて私たちは日々過ごしているわけだ。
時代が変わり、ただ「平和主義」を振りかざしているだけでは危ないですよ、という宣伝。
これからも、もっともっと経済は発展して安心できますよ、という宣伝。
健康食品や健康器具を売るのと同じ感覚で、国策も宣伝され、効き目があるのかどうかわからなくても取りあえず宣伝される方向へ人はなびいていく。

それに加えて、「改憲」という言葉にも「3分の2」という言葉にもまったく関心を持たない人たちもいる。
今の生活や自分の未来について何の不安もない、ということはある意味で幸せな状態とも言える。こういう人たちのことこそ「平和ぼけ」というのだろうと思う。
大人でも、「『基本的人権』って何か知らない」という人がいてびっくりすることもあるが、自分の関心がないことはいくらニュースで取り上げられようと耳を素通りしていく、という経験は誰にでもある。
私はスポーツに関してはほとんど素通りで、なでしこジャパンて何のチームだったっけ、バレーボール?ソフトボール?という記憶力だし、
芸能に関しては、物まね番組を見てなにかおもしろそうなことをやっているな、とは思っても、物まねしている人の名前も知らなければ、物まねされている当人の顔も名前も知らない、というおんちぶり。

だから「基本的人権」も「立憲主義」も知らない人がいても当たり前なのだと思うようになった。最低限「民主主義」という言葉ならわかりやすくて誰でも知っているのではないかと思うのだが。

選挙当日の夜8時からの開票速報からは目が離せなかった。
結果はテレビや新聞で予想されていた通りのもので意外性はなかったけれど、興味深い点もあった。
私の住む地域は3人区で自民党と民進党が当選を決め、残る一議席を公明党と共産党が最後まで接戦していた。5000票差で共産党が負けた。
いつも熱心に共産党の応援で電話がけをしている知人のKさんが、今回は「民進党か共産党のどちらかにぜひ票を入れて下さい」とお願いしたそうだ。「あなた一人ぐらい共産党をよろしく、と売り込んでいれば共産党も勝てたかもしれないのに」と言うと笑っていた。

私の実家の地域は一人区で激戦区の一つと言われ、3回もアベ首相が訪問したという。
結果は野党統一候補が勝った。
あっちにもどって住むのもいいな、と思った。

今回の参院選で思ったこと、
全体としては「改憲勢力3分の2」かもしれないが、地域によって違いがあり、国全体が一つの方向にひきずられている、というのではないな、ということ。
地域ごとに頑張れるところは力を合わせて頑張る道もある、と思った。
オール与党みたいな都道府県には近寄りたくないです、私は・・。



参院選の後の知事選について

もちろん野党共闘して勝ってほしいけれど、本当は都知事選は私にはそれほどの大きな意味はない。
降ってわいたような都知事選だし、焦点、争点がはっきりしない。
保育や介護の問題はどの候補者も唱えることで、オリンピックはもうやると決められていて、何かが大きく変わるということはなさそうだ。

都知事にやってほしいと私が思っていることを一つだけあげると、それは「教育に自治の力を取り戻す」ということだ。
石原知事によってずたずたにされ(と、私は感じているが)、すっかり萎縮してしまった教育現場(教育)に本来の力を戻してほしいと思う。今は学校現場はどうなっているのだろう。職員会議では発言してはならない、採決はしない、などというウソみたいな通達が都教育委員会から出たという話、あれはその後どうなったのだろう。

こういうことができないなら都知事は誰がなってもたいして変わりはないような気がしている。政治家が誠実に真面目に職務を行うというのは最低限のことであって、それ以上のことではないと思う。

立候補者を選ぶ段階で野党も与党もごたごたもたつきがあったが、立候補というのは本人だけがするものではなく必ず取り巻きがいてスタートするものだからごたごたも仕方がない。
私もある市長選のお手伝いをしたことがあるけれど、同じ候補者を支えているというつながりはあっても、10人いれば10の意見があり、それも様々な意見があって良いなどというきれい事ではすまないような大きな違いだったりする。支持者の意見を取り入れながら方向を決めていくのは本当に難しいだろうと思う。

参院選が終わってちょっと淋しくなったのはSEALDsが解散したこと。
ツイッターでフォローしていたのが、パタッとなくなってしまったので淋しい。
国会前にデモ集会に行ったときは、SEALDsの若者たちはとても光っていて、人混みにヘトヘトの私などはずいぶん元気づけられた。
マスコミが過剰に持ち上げるから、いろいろなところで厭がらせを受けたようで本当に気の毒だった。「出る杭は打たれる」という表現を使う人もいるが、SEALDsは、どこにも出過ぎてはおらず、砂の中に輝いている砂が混じっている、という風に私には感じられた。




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カルガモの子育て [環境・自然]

一年で、ご近所さんが一番仲良くなれる時期。

今年も家の近くの小さなため池でカモの子育てが始まった。
池の中に小さな浮島(直径1メートルぐらい)があり、毎年、その草の中でヒナが孵る。
時期は昨年と全く同じ。

IMG_7901.JPGIMG_7891.JPG

抱卵は25日ぐらいというが、その間(浮島の巣は道路のすぐ近くにあるというのに)、カモがいることにはまったく気づかなかった。
注意して見てもカモがいるようには見えず、今年はカモは巣作りをしなかったのだとあきらめていたら、まるで降ってわいたように、突然10羽のヒナが母がもと池をすいすい泳いでいるのを見た。

カモの雛は最初は10羽くらいいるが、日を追うごとに、ヒナの数は減っていき全滅してしまう。
陸地に巣がある場合はカラスや猫にやられるらしいが、ここでは泳いでいるときに、池に住みついているライギョやカメにたべられてしまう。
魚やカメがヒナを追い回している光景をよく目にする。
それが昨年は10年ぶり(だそうだ)に2羽生き延びた。

今年も初めて見かけたときのヒナの数は10羽。
それが少しずつ減って4月29日に6羽になった。
昨年の日記を見たらやはり4月29日に6羽確認と書いてあった。

この池のカモの行動はどうもよくわからないことが多い。
親の回りにヒナがくっついて泳いでいることもあるが、ヒナだけでそれぞればらばらな方向に動いていることもある。朝にそういうことが多い。
このとき親は池の反対側で羽づくろいをしていたりする。
そうしてしばらくすると、また、親が心配そうにヒナの近く来て見守っている。
母ガモの背に登ろうとしているヒナがいて、これは母ガモに振り落とされていた。
夕方4時頃にヒナは巣の回りに集まって寝る準備をする。
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カルガモの生態を調べたけれどあまり詳しいのはない。
カルガモは住む環境がいろいろなため、生態の個体差が大きいせいだろうか。


ヒナが生まれると池の回りを散歩する人が増える。
みな池をのぞきこみ、同じように池を眺めている人と自然に会話が始まる。
「いましたか?」「6羽いましたよ。」「昨日は8羽だったんですけどね・・。」という具合に。

とてもシンプルな会話なのだけれど知らない人同士が話をするのはこの時期だけ。
子育てが終わりカモがいなくなると、また、みな黙りこくってすれちがうようになる。

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ヒナがあまりに可愛らしいので、ヒナが減っていくということに胸を痛める人が多い。それが自然の摂理、とわかっていても、「すぐに食べられてしまうのなら生まれてこなければよかったのに・・」とつい思ってしまう。

今年は、連休明けまで生き残るヒナはいるだろうか。
ある程度成長するともう魚やカメにはやられない。

昨年、2羽のヒナが成長すると親はいなくなったが、夕方になると戻って来て、ヒナを促すように水面すれすれを飛び、その親を追って、成長した2羽のヒナが羽をばたつかせながら水面をすごい勢いで走る姿が観察できた。
飛行機の滑走のような飛ぶ練習は何日間か続き、それを見るのはとても面白かった。

今年は時々、母ガモの他に数羽の成長したカモが一緒にいることがあったが、多分、去年巣立った2羽もその中にいるのだろう。


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新年に 〜2016年1月4日〜 [雑感]

新年の幕開けは厳しい・・。
ツイッターを見ていたら、目を疑うようなツイートがあった。

初詣に行った神社に、憲法改正賛成ののぼりが立っていたり、賛成署名用紙が置いてあったりした、というツイートだった。

これはあまりにもひどい新年の幕開けだ。ひどすぎる。
多くの人が集まる初詣の人に向けて、憲法改正反対の署名活動をする市民団体がいるのはわかるが、
神社そのものが、境内に「改正賛成のぼり」を立てたり、社務所に「賛成署名」が置いてあったら、大問題ではないか。
大問題などという生やさしい言葉では言い表せない。本当にショックだ。


なぜここまでひどくなってしまったのか、数年前までは「九条を守ろう」という運動を冷ややかに、あるいは無関心に見ていただけだった人が、公然と「愛国心(と呼べばいいのか)」をむき出しにして行動し始めた気がする。

前々回のブログにもかいたけれど、「教育基本法改悪」の影響がここまで大きく世の中を動かしたのだと思う。「公共の精神」「我が国と郷土を愛する態度」が、新・教育基本法の目標の中に入れられることによって、与党の後押しをする人たちは全くの勘違いをした。
「公共」とは「与党政府が目指す社会」のことであり、「我が国と郷土」とは、「与党政府が支配する国と郷土」という風に。

だから公民館などで、憲法の学習会というと公民館を貸さないようにしたり、憲法9条という言葉が入った俳句を排除しようとしたり、公務員(特に教員)に「君が代・起立斉唱」を監視してまで強要したり、ということが平気で行われるようになった。
「公共」「我が国」というのは与党政府が握っているもので、下々はそれを敬い、その下僕としてふるまうのが当然と思っているようだ。

神社はこうなると「神」を祀る場ではなく、与党政府の掲げる『神のようなもの』を祀る場になったのかもしれない。もっとも神社とて営業しているわけだから、地元の議員からたくさん寄進があったりすれば、そういう人たちの喜ぶようなことをするだろう。それでも以前は、そこまであからさまなことはしなかった。完全にたががはずれてしまっている。
もちろん立派な神社は多く、「憲法改正賛同署名」を置いておくような神社は少数であることを願うが。


一方、『赤旗』には長野市の善光寺の白蓮坊住職の言葉が紹介されていた。

{「これまで自民党支持だったが」と切り出したのは、善光寺白蓮坊の若麻績住職。「戦時中、仏教界は戦争に反対するどころか荷担し、内外で多くの命が奪われた。仏教精神に反する。命を大事にする政治を」と戦争法(安保法)反対の意思を表した。}

善光寺はがんばっている。
IMG_7332.jpg善光寺
北京オリンピックのときにも善光寺が長野での聖火リレーの出発点に決定していたが、チベット問題に対する抗議表明で、出発点になることを返上した。

いろいろな立場の人が、いろいろな場面で「政治的中立」という態度で済まそうとするが、戦争が推し進められようとしているまさにその時に、「中立である」ということの意味は一体何だろう。
戦争に関しては、反対するか賛成するかのどちらかの選択肢しかない。真ん中のどっちつかずという立場はあり得ない。
戦争には反対である、という事をなぜ堂々と言えないか。言わないのは賛成だということだ。

社会では、仕事上や付き合い上で、政治についての話題は避けてしまう傾向が強い。
かくいう私も政治に関しては人を選んで話しをしている。
そうしないと、回りじゅうが私の敵だと感じてしまうことになり、いろいろめんどうくさい。自分と考え方(特に戦争、平和、人権などに関して)が違う人間とは付き合いたくない。

私は友人があまりいないことをそう残念だとは思わない。(思わないようにしているといってもいいが。)ともかく、安保法案に賛成するような人と仲良くすることに何の意味があるか、と思っている。

そうは言っても生活していく上では考えの違う人ともある程度の付き合いが必要なこともある。自分の政治についての考えは隠して他の所で(つまりたわいのないことで)話を合わせるようにしている。

でも、もうそんな悠長なことを言っている時期ではなくなったのかも知れない。
むしろ積極的に話題にしていく必要がある時になったのかもしれない。
といっても普通の市民がやれることは、署名活動やデモや集会に参加することしかなく、回りの人間に議論を持ちかけても嫌がられるだけで思うようにはいかないのである。

(週末に善光寺に初詣に行こうと思う。)

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2015年の終わりに思うこと [教育]

毎年のことだけれど、年の瀬というのはどうも気持ちが落ち着かない。
子供の頃はそうではなかった。暮れの大掃除や正月に向けて買い物したり料理したりの手伝いなど、わくわくしたものだった。
大人になってからはだめになった。

世相が悪化しているのに、ニュース全般が、一年をまとめて一応の区切りをつけようとする雰囲気になるのが嫌なのだ。「問題は残されている」という締めくくり方も一辺倒で気に入らない。
「残されている」のではなく、今まさにその渦中にいるのだから。

それは正月も同じ・・。
状況も変わらず希望もないのに、さあ、新しい年だ、気持ちを新たにがんばろう、という雰囲気が強制的にテレビニュースなどで流れる。
「新しい気持ちでがんばる」とか「今年こそこういう年にしたい」「希望を持とう」とかいう言葉を聞くのがけっこう虚しくてつらい。
絶望の中にいるからこそ『希望』という言葉も出てくるのだろうけど、『絶望的状況』は『希望』という言葉で緩和されるわけではない。

2015年のまとめとして、今どういう絶望的状況にあるかを書いておこうと思う。

3・11あたりから日本の社会は以前にも増して住みにくくなってきた感じがする。
原発事故の処理ができずにそのままになっているから、常にのどに堅い物が突き刺さっている感じが消えない。処理などできないのだから半永久的にこのままいくしかないのだ。
そのつらさに加え、特定秘密保護法の施行、マイナンバー制度の施行、安保法案の強行採決、沖縄辺野古基地移設反対への暴力的圧力、などなど・・、重要かつ悪質な法案や行使がどんどん推し進められている。
その根底にあるのは「立憲主義」「民主主義」というものの軽視であることがいよいよはっきりしてきた。

なぜ「立憲主義」や「民主主義」がこんなに軽視されるようになったのか?軽視する政府を依然として支持する人達がいるのはなぜか?いつも大きな疑問だった。

国全体のあり方、進むべき方向、という大事な問題を、反対の声が大きく上がっているにもかかわらず、議員の数の力だけで強硬に決めてしまうことが、いかに独裁的で大変な事であるか、誰にだってわかるはずだ、と思った。
住民の反対があるにもかかわらず沖縄だけに基地を押しつけて平然としていることがいかに異常なことか、テロをくいとめるためにテロリストがいると思われる地域を空爆するなどということがいかに人道にはずれているか、国の最高法規である憲法を軽視し無視することがいかに重要な意味をもつことであるか・・誰にだってわかることだと思っていた。

それなのにまだ政府与党を支持する人がいるということが不思議でならなかったが・・。

ようやく最近になって、「立憲主義」や「民主主義」を声高に唱えること人たちのことをあまりよく思わない人がいるのだということに気がついてきた。
ネットなどで誹謗、中傷、悪意のある言葉をまき散らすことを趣味にしているような人達は抜きにして、社会的にも安定した地位と生活があり、一般的な常識や教養を持っているような人達で、「民主主義なんて」と思っている人がけっこういるのだということに気がつき始めた。
決して政府がしていることを知らないのではなく積極的に賛同している人達。
(もちろん新聞報道などとは無縁で、政治に関心を持てず何が起きているか知らないという人も多いだろうけれど)
おそらく「民主主義は基本」と考える人間とは、思考回路が違うのだろう。

社会の3分の1くらいの人は、平和は大切と言いながらも、
原発事故は不幸なことであり事故の被害にあった地域は気の毒ではあるけれど、国の経済のためには今後も原発が必要となるのはいたしかたない、と考える。
沖縄県は基地が多くて大変だとは思うけど、現実問題として抑止力のために沖縄に基地を置くのが最善であり他に移設するのは現実的ではない。と考える。
戦争になるのは困るので集団的自衛権には賛成できないけれど、これですぐに戦争になるというわけではないだろうし、景気安定のために政府にはこれからも力を注いでもらわなければならない・・と、こんな風に考えているのだろう。

格差拡大の問題? 確かにあまりに格差が広がって貧困問題が大きくなるのはまずいので、今よりも景気が上向き、その上で貧困問題もうまく解決されればそれが一番いい、と考えるのだろう。

とにかく何よりも今の安定した生活を手放さないですむことが最優先だという考えが根強いのだ。

最近よく思うのは、資本主義という仕組みの限界(欠陥点)ゆえに「格差」が広がってしまったのではなく、「格差を拡大すること」によって資本主義が発展してきたのではないか、ということ。
誰かの犠牲の上に、誰かが得をする。
こう考えるとアベ政権がいまだに一定の支持を持っていることが納得できる。

多勢に無勢だから、何事も思うようにはいかない。
これが今の現実だということを肝に銘じておこうと思っている。

2015年は何かにたいして、自分の意見をまとめて記録しようという気持ちがほとんど湧いてこなかった。重要な社会問題があっても、考え込んでいるうちにもう次の問題が起きてしまい、またそのことを考えなければならなかった。
そのくり返しで(無力感が強くなり)あっという間に一年が過ぎてしまったような気がする。
また来年もそういう調子で過ぎていくのだろう。

重苦しいことばかりの一年だったが、SEALDsなど若者の活動に元気づけられもした。
彼らの活動を見るのは楽しく、安保法案反対集会が明るくなった。
絶望的状況でもあまりくよくよせず、悲観的な気分にとらわれないように、自分のすべきことをしていこうと思っている。



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教育基本法改定から9年〜12月の憂鬱〜 [教育]

寒い季節は苦手で(暑いのもだめだが)、少し鬱気味になる方だけれど、この10年ほどは、11月末から12月にかけてその傾向がかなり強く現れるようになった。

それは9年前の12月15日に現場の教員の強い反対にもかかわらず、第一次安倍政権によって「新・教育基本法」が参院本会議で成立(自民・公明が賛成。民主党、共産党、社民党、国民新党などが反対)、してしまった事を思い出すからである。
寒い中、おろおろと暗い国会前の反対集会に通っていたことが体感として残っている。
(12月は教員は2学期の成績処理などに追われている時期だ。)

「新教育基本法」は見たくない代物で、戦争の反省に基づいて、できる限りの民主的な(人間、児童や学生を大切にしようという考えに基づいた)、選び抜かれた言葉で書かれたそれまでの「戦後の教育基本法」とは似ても似つかないものになってしまった。

教育に深く関わっていた人でなければ、その落差の大きさ(私に言わせれば180度の転換)には気がつかないかもしれない。
法案決定に至るまで、やらせタウンミーティングなど数々の問題が浮上して世間の目にもその異常さは明らかにはされていたものの、安保法案強行採決と同じように、独裁的な採決となった。

9年前、「もう日本の教育はこれで終わりだな」という思いを持った学校関係者は多かったと思う。
その後は、第一次安倍内閣は頓挫したものの、教育の改悪はどんどん進められ、まず公立の小学校、中学校、高校、ついには大学まで公立私立を問わず、めったぎりである。

法が変わったからといって、教員が変わるわけではないから、これまでの「戦後の教育基本法の精神」も受け継がれてはいただろうけれど、年を経て教員の世代交代が進むにつれ、じわじわと「新・教育基本法のねらい」は教育現場にしみ込んで来ているはずだと思う。
教育関係者以外にそれは決して伝わらない。

「戦後教育基本法」は、『教育の独立性(時の政治や国家権力に左右されないこと)』を明確に現していた法で、「新・教育基本法」は、国家権力の下に置かれ、時の政権を支えることを目的にしている。
だから、国家権力の側に立つ政治家、財界人、彼らのやり方を支持する人々には、都合がいい。
まさに「政治は教育から」である。

こうして、教育、学問は政治の道具となり、「敬意」を全く払われなくなった。
こんなに悲しいことがあるだろうか。
本来、学問の場、人間形成の場は、権力とは離れた立ち位置にあって孤高の世界を持つべきだ。
人間は、経済のために存在するのではなく、人間社会の存続のために、経済力も少しは必要、というものだと思う。
完全に本末転倒している。

教育基本法の改定、安保法案強行採決、沖縄基地の辺野古移設への執着、原発事故への無反省、貧困層の拡大・・これがすべて今の政権が推し進めていることだ。

人間性を何よりも重視しようとしていた「戦後の教育基本法」は、もう忘れ去られてしまうのだろうか。


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参院特別委〜安保法案強行採決に思う〜 [社会]

数の力で押し切られることは当然の予想だったけど、その予想は別としても、総括質疑をなくし、いきなり抜き打ちの採決(あれが採決と呼べるものなら)という、目を疑う酷いものだった。何が起こったのかわからないくらいの卑怯なやり方で。
話し合いをする気などハナからないのだけれど、話し合いをするふりすらしなかった。
せっかくの公聴会での討論もユーチューブで見るしかなかった。

参院特別委員会では、民主党の福山哲郎が必死で鴻池委員長不信任の動議理由を述べた。討論は力強く、これまでの国会での論議を総括した感じでわかりやすく、誠意が感じられものだった。
共産党の井上哲士議員は公聴会での公述人の言葉を引用し、この強行採決がいかに理不尽かを説明した。山本太郎議員も福島みずほ議員もがんばっていた。
福島みずほ議員がいつものおっとりした口調で要点を咬み下すように語っていると、そばでなんとなくテレビを見ていた7才の女の子が「この人いいこと言うよね。」(こどもにもわかるんだ、瑞穂さんの言葉は・・!)
強行採決の直前の鴻池委員長不信任動議の野党の討論が落ち着いて聞くことができただけでもましだったかもしれない。

この日、NHKでこれほど長時間参院特別委の様子や国会前の様子を流していたのは、もう決まりだから流してOKということだったのだろうか?
安保法案についてのニュースはこれまで本当に少なかった。
ユーチューブを日常的に見る人の数なんて、若い人はいざしらず、中年以上は圧倒的に少ない。情報はテレビと新聞だけという人が多いのだ。

鴻池委員長はあれを、「強行採決だとは思わない。10党のうち5党は賛成したのだから。質疑も100時間を超えて充分やり尽くした」と。
質疑応答が充分かどうかは、時間ではかられるののではない。
討論はどれだけ時間をかけたかだけではなく、どれだけ議論が深まっていったかという「質」が問題だ。話のかみ合わない(多数派にかみ合わせる気がない)議論を1000時間続けたとしても何にもならない、実は結ばないだろう。

強行採決して、自民党議員が「気持ちよかったなあ」と言ったとか、民主党の蓮ほう議員がツイートしていたけれど、与党議員はほとんどそう感じたことだろう。

法案を通そうとしている与党は、国民が集会やデモで反対表明をするのが(すればするほど)気にくわなくて仕方がなかっただろう。その国民の声を力に野党ががんばっているのも気にくわなくて仕方なかっただろう。
強行採決で「決まり」となれば、ザマアミロという気持ちになったとしても驚かない。
それでも「こんか決め方でいいのだろうか」と思った人も与党議員の中にはいたのだろうか?

自民党は「普通の国」という言葉を好んで使うけれど、「普通」に考えれば国会での与党の答弁は「恥知らず」の一語につきた。

「恥知らず」とは、答弁をころころ変えること、
質問に答えられなくても平然とピント外れの答えをしてすませること、
国民のために働いているという姿勢が失われていること、
「国民のため」という言葉を政策を通すためだけに利用すること、
選挙では国民にぺこぺこし、デモや集会に国民が参加して声をあげると軽蔑し無視すること、
選挙で勝つことしか考えていないこと・・

国会前の
「勝手に決めるな!」「国民なめんな!」のコール。
『ナメんな』という言葉は嫌な言葉だと今まで思っていたが、今回ほど『ナメるな』という言葉がしっくりくる状況はないと感じた。
本当に、本当に「国民なめるな!」だった。
国民のものである憲法を無視するとは、国民に対する最大の愚弄だ。

なぜ「集団的自衛権」などという危険な法案を通したがるのか、通したがる人間がいるのか、私にはどうしても理解できない。憲法を無視してもいいと考える人たちはどうやっても理解不能なのだ。

政府が閣議決定で集団的自衛権を決定したときから、意見の違いがどうこう言う以前に、討論によって考えをお互いに深めより良い方向を探っていこう、という意志は皆無に見えた。
よく考えてみれば、話し合いを大事にする(これが民主主義)意志を持った人が、憲法違反の戦争法案など出してくるはずがないのだ。
つまり、憲法をないがしろにして集団的自衛権を持ち出すような人は、他の人とは話し合いを持とうとしない人、ということになる。

NEWS23で、憲法学者の石川健治氏がこう語っている。

「賛成する人も含めてこれから国民は大きなものを失おうとしている。問題のはじめは<集団的自衛権の行使容認した閣議決定>だった」と指摘し、

「私の理解では法学的な意味ではクーデターという説明をしている。
国民なりおおもとの規範が置き去りの状態で法秩序が断絶された場合をクーデターと認識する。まさに大きな断絶が去年の7月1日に走っている。

いざという時には法的安全・安定は国家の安全の二の次という選択が今回なされた。
法的安全は何のためにあるかー自由のためにある。国民の自由のためにある。
だから自由をないがしろにしてよいとの態度の決定、基本的な価値の選択を今回政府はやってしまった。

憲法を守って国が滅んだらどうするんだという人は、端的に言えば『専制主義者』だし『非立憲の人』だと言わざるを得ない。
肝心のことを議論したかったけど議論する前提をおろそかにして、しかもその手順を踏まないで、あるいは手順を粉砕して先に進んだのがこの一年だったのでは。」


とてもわかりやすい。政府に対するすべての意見、反論は無駄になるわけだ。
専制主義者、非立憲の人と話がかみ合わないのは当然なのである。
少数派が抵抗すればするほど「黙って言うこときいていればいいんだ」と思うだけで、いよいよその抵抗に終止符が打たれ反対派が退けられれば、「ああ、気持ちよかったなあ。」という感想を抱くのだ。

社会にはそういう人が数パーセントは必ずいて、しかもそういう人たちに政治の実権を握られてしまっていることは、悲劇としかいいようがない。

ではどうすればいいのか。

今後について、石川健治氏はこう語る。

「権限が与えられたかrといって行使できるわけではなくて、行使できる理由がなければ行使できない。
場合によっては空文化・死文化することがままあるので、この部分は世論に依拠するところが非常に大きいから議論し続けなくてはいけない。
これで何かが始まったわけでも終わったわけでもないと考えていい。

しかし、世論無視の政府には、選挙で逆転し、法案を一から考え直すのが一番だ。
今回決まるかもしれない法案を、今後変えられる政治家(政党)はいるのだろうか。
民主党政権が「基地は少なくとも県外を」と訴えながら完全に潰されたことを考えると、政治界には私たち一般の人間にははかりしれない力(某国とか経済界とか何だとかの)がかかっているのかもしれない。
そういうものをはねのけることはできるだろうか。

それでも希望は常に0ではない。突然、社会が変わることはこれまでも歴史の中で起きたことだ。
それが、いつ、どんな風にかはわからないけれど、そういう変化は上に立つ政治家がもたらすものではなく、下から、つまり庶民の側(力)から、ということだけは確かだと思う。


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情けない新聞報道 [社会]

今日(9月7日)の毎日新聞のオピニオン。
8月30日の国会前大集会のニュースを翌日(8月31日朝刊)各紙がどう扱ったかという記事だった。

私は毎日、読売、東京新聞を比べて見たが、正直言ってとてもガッカリした。
私が購読している毎日新聞は一面を半分ほど使っての記事だったが、トップ記事ではなかった。
トップ記事は「訪日客向け『民泊』拡大」という見出しで、なぜそれが安保法案反対の最大規模の集会の記事よりも大事なニュースであるのか全く理解できなかった。
新聞社の中にもいろいろな部署があり、報道部がいかにがんばってこの大事態を報道しようとしても上のどこかで止められてしまうのだろうか。
今回ばかりは、もう新聞は止めようかと思った。「特集ワイド」でいくら識者の素晴らしい意見を載せてくれているとしても、安保法案に反対する必死な人々の思いを大切にしないような新聞はもう読みたくない。

朝日を購読している知人が、朝日も同じような感じだ、と言っていた。
どうせそうだろう。

読売新聞なんか、ニュースがどこにあるのかなかなか見つからず、やっと一番後ろの社会面にほんのちいさな記事。問題外。悪意を感じるのみ。

東京新聞だけが、大集会の報道に一面全部を使い、紙面いっぱいに国会前に押し寄せた人々の写真を載せていた。
国会前のあの写真は非常にインパクトがあるので、あれを大きく載せるかそれとも小さなサイズにして載せるかは、ものすごい違いになってしまう。

その8月30日、私は大集会が終わる3時頃国会前に行った。
抗議表明をするために出かけていくのだから、時間は自分の都合のつく範囲に出かけることにしている。どこの団体に参加するとかは関係なく、できる範囲で参加する。
一ヶ月ほど前に行ったとき、みんながんばっているな〜、特に若者が目立つな〜、という感想を持った。
でもまだまだ集まる人が少ないと感じたし、この10倍(10万人)くらい集まればいいな、と思った。

でも実際に10万人集会の規模になると、参加するのも容易ではない。
何回目かの集会に友人が出かけたときはかなりの人出で、「身の危険を感じるくらいで、早々に退散した。」と言っていた。
私も人混みは大の苦手で、人がぎっしり集まり身動きできない状態というのは、考えるだけで怖ろしく、それで8月30日も時間差で参加した。
大集会は散会していたが、私と同様に遅い時間にもどんどん人は集まって、スピーチ、シュプレヒコールが行われていた。
私が行ったとき、スピーチ、シュプレヒコールの中心になっていたのは、SEALDs(?)だったが、中年の人、年配の人、一人静かに離れたところに立っている人・・など、要するに年代を超えて安保法案に反対する人が集まっていたのだ。

若い人のスピーチは新鮮でなかなかいいものだなと思った。
シュプレヒコールはとてもリズミカルで、「アベは、やめろ」「アベは、やめろ」が二拍子で繰り返されていたかと思うとそれがすっと「ア、ベ、は、や、め、ろ」の三拍子に変わったり、「集団的自衛権はいらない」は8拍、「集団的自衛権は許さない」だと9拍というふうに自由自在に拍子を取る。「自民党ってなんか感じ悪いよね」などという長い言葉もうまく9拍のリズムに乗って唱えてしまう。
すごく感心した。
(私の時代だと「○○、はんた〜い!」と生真面目で単調なシュプレヒコールばかりで、私はこのシュプレヒコールがとても苦手で、ほとんど声を出さなかった。)

共産党の「赤旗」の号外がもう配られていて、この日の大集会がいかにすごいものだったかを写真で見て震撼した。

あの集会を警察が3万と発表し、主宰者側は12万と発表し、自民党の幹部の誰かが「なぜこんなに違うんでしょうね〜」とせせら笑うような発言をしていたが、写真見てわからないのか、と思った。
競馬中継などで「今日は8万人の観衆です」だの「10万人もの人が・・」など言っているのを聞くと、「これだけの人が国会を取り囲んでくれたらな〜」など、時々ばかげた空想をしてしまう癖があるけど、
この日のこの写真の国会前の人の数は本当にすごかった。
「数は問題じゃない」などという人がいるけれど、あの写真はまぎれもなく10万以上でしょう。
あの中にいなくて良かった、と思ったほど。
いったん中に入ったら身動きもできないだろうし、大勢のけが人が出ても不思議ではない。
だからイラク戦争の時、各国で200万人だの100万人だの80万人などの戦争反対デモのニュースを聞いて驚いていたけれど、もっと驚くべきだったのだ・・と思った。
日本は道路も狭く、広場も狭く、何十万などという人が集まったら危険すぎてそんな集会はできないだろう。

あとは国会前のみならず、地方でも大集会が同時に起これば効果があるかもしれない。
地方でも反対の声はしっかりあがっているが、規模が小さく少人数集会が多いのでトータルとなると、政治家に見くびられてしまうのだろうか。

8月のある週末に長野に行ったとき、どこかで集会をやっていないかな〜と思い、ネットで調べたら、その日に所用で行く予定の中野市のバラ公園での集会というのを見つけた。
ちょうど良かったと思って急いで用事を済ませ1時間だけ参加したら、小さな可愛い公園で思った通りの少人数の集会。
ステージで歌う人に合わて歌を歌ったり、絵本の読み聞かせがあったり・・とても静かでなごやかな雰囲気だった。
小さな子供を連れたお母さん達が多かったから、あんな感じが合っているのだな、と思った。
驚いたのは中野市長さんからのメッセージが届いていたこと。
そして、そこでもらった9月6日の「歴史にマナブ、事実をマナブ〜歌い語り継ぐ平和へのメッセージ〜」という集会のチラシにも、後援が、中野市と市教育委員会となっていて、今どきこういう市町村があるのだ、と本当に驚いた。
信濃町でも平和を語り継ぐ会が、信濃町、信濃町教育委員会の後援で行われ、町長さんの挨拶もあったという。長野ではけっこうそういう自治体があるのだろうか。
(長野県は2014年7月の集団的自衛権の閣議決定に反対表明を出した自治体数が全国の中でも群をぬいて多かった。)

自民党は国民がいかに反対しようとお構いなく安保法案を通すと堂々と言っている。
違憲の法案を「国民を守るために必要」などと偉そうに言う。
憲法に抵触するような法案を、与党の議員数を武器にして通してしまうのか。

世論と深く関わるメディアは、それに真っ向から反対しないのか。
違憲法案が決まってしまうという大事な局面で、政治から距離を少し置いて無難にやり過ごそうというのか。





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教育と政治 [教育]

2006年12月6日、教育基本法改定が参議院を通過したときの失望感、絶望感は大きかった。
これから日本の教育はどうなってしまうのだろう、この先どういう社会が待っているのだろう、という不安がぬぐいきれなかった。
「まだ日本国憲法がある」という言葉が、教育基本法改悪に反対した人達の間でなぐさめのように言われたけどあまりなぐさめにはならなかった。
それから8〜9年を経て、世相は確実におかしな方向に変わってきた。

安保法制に反対する人達を批判する人は、「まるで今すぐ戦争が始まるようなことを言うのはおかしい」などと言う。
戦争は今すぐ(この1,2年以内)に始まるということは可能性としては低いかもしれない。
簡単に戦争を始められるものではない。
今、集団的自衛権などの安保法制に反対するのは、10年後、20年後のことが心配だからだ。
時間をかけてゆっくりと知らず知らずのうちに、戦争態勢というものは作られていくのだろう。

戦争をする国になるためには国民の心がその方向に向かうことが必須だ。
だから、権力者は「教育のあり方」を気にする。戦後、この教育基本法を変えようとする動きは何度もあったがかろうじて守られてきた。
第一次安倍内閣が、教育現場の猛反対を押し切って(大きなエネルギーを使って)、教育基本法を変えたことは、8年後の集団的自衛権の内閣決議に見事につながっていた。
そういう目的があればこそ、教育基本法を変えたかったのだろう。
ほとんどの人々は、暮らし向きや経済の心配はしても、教育のことなどあまり気に留めないのだから。


政治家でも、一般の人でも、その人がどういう考えの持ち主かを知るには、「教育というものをどう考えるか」という一点だけを見れば十分だと私は思っている。
「教育」にこそ、人間の考え方が如実に現れる。

羽仁五郎の言葉
「教育というものは自由でなければいkない。教育と権力はあいいれない。つまり命令されて人間はいい人間になれるわけがない。自分でなろうとしなければだめだ。上から命令すればするほど自発性はなくなっていく。教育の根本はその自発性なのだ。」

教育基本法を変えたのは、まさにその『教育の自発性』をそぎ落とし、制限するのが目的だった。
今の学校は、小学校から大学まで権力が幅をきかせている。

自民党の国会議員の、
「若者が戦争に行きたくないなどというのは自己中心、利己的考えで、その原因は戦後教育のせいだ」という発言は、権力者の気持ちというものを知る上でとてもわかりやすい。

「権力」は、子供や若者に自発性を持たせたくないのだ。
教員に子供や若者に自発性を持たせるような教育をさせたくないのだ。
「権力に従わせる」「権力に進んで従う人間を作る」のが権力側の理想だろう。
そこでまずは「愛国心」を育てるという目標が生まれる。全国津々浦々に国の威光を示すために、入学式や卒業式を使う。君が代を強要する。国への忠誠があるかどうかの踏み絵がわりだ。

教育の内容にあれこれ口を出し、自由な発想を教育現場で生み出させないよう、いろんな意味のない研究会、調査、報告、レポート提出などを押しつけて、教員の時間を奪ってしまう。
無理矢理に「学校間の競争」を取り入れて、学問の場から矜持を奪ってしまう。


これが今の日本の教育の実態だ。
こういう教育環境の中で、安保法制に反対するSEALDsや高校生の集まりがよく生まれてきたものだと思う。
権力がいかに国民を手の内に納めようとしても、それは簡単ではない、ということだ。
それでも、場合によっては戦前の日本のように国のためには命を投げ出すのが当たり前、という雰囲気が一気に生まれる可能性が無いとは言えない。

15、6才頃の純真な(信じ込みやすい)心には、家族や国を守るためには命を捨てるという考えが、容易に入り込むだろう。かつての特攻隊員がそうであったように(痛々しい)。
これが「洗脳」だ。「偏向教育」の最たる例だ。

憲法を遵守し、憲法の精神をしっかりと児童、学生に教えていくのが教育者の務めだと思う。
どうか権力に負けないでほしい。

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