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2015年の終わりに思うこと [教育]

毎年のことだけれど、年の瀬というのはどうも気持ちが落ち着かない。
子供の頃はそうではなかった。暮れの大掃除や正月に向けて買い物したり料理したりの手伝いなど、わくわくしたものだった。
大人になってからはだめになった。

世相が悪化しているのに、ニュース全般が、一年をまとめて一応の区切りをつけようとする雰囲気になるのが嫌なのだ。「問題は残されている」という締めくくり方も一辺倒で気に入らない。
「残されている」のではなく、今まさにその渦中にいるのだから。

それは正月も同じ・・。
状況も変わらず希望もないのに、さあ、新しい年だ、気持ちを新たにがんばろう、という雰囲気が強制的にテレビニュースなどで流れる。
「新しい気持ちでがんばる」とか「今年こそこういう年にしたい」「希望を持とう」とかいう言葉を聞くのがけっこう虚しくてつらい。
絶望の中にいるからこそ『希望』という言葉も出てくるのだろうけど、『絶望的状況』は『希望』という言葉で緩和されるわけではない。

2015年のまとめとして、今どういう絶望的状況にあるかを書いておこうと思う。

3・11あたりから日本の社会は以前にも増して住みにくくなってきた感じがする。
原発事故の処理ができずにそのままになっているから、常にのどに堅い物が突き刺さっている感じが消えない。処理などできないのだから半永久的にこのままいくしかないのだ。
そのつらさに加え、特定秘密保護法の施行、マイナンバー制度の施行、安保法案の強行採決、沖縄辺野古基地移設反対への暴力的圧力、などなど・・、重要かつ悪質な法案や行使がどんどん推し進められている。
その根底にあるのは「立憲主義」「民主主義」というものの軽視であることがいよいよはっきりしてきた。

なぜ「立憲主義」や「民主主義」がこんなに軽視されるようになったのか?軽視する政府を依然として支持する人達がいるのはなぜか?いつも大きな疑問だった。

国全体のあり方、進むべき方向、という大事な問題を、反対の声が大きく上がっているにもかかわらず、議員の数の力だけで強硬に決めてしまうことが、いかに独裁的で大変な事であるか、誰にだってわかるはずだ、と思った。
住民の反対があるにもかかわらず沖縄だけに基地を押しつけて平然としていることがいかに異常なことか、テロをくいとめるためにテロリストがいると思われる地域を空爆するなどということがいかに人道にはずれているか、国の最高法規である憲法を軽視し無視することがいかに重要な意味をもつことであるか・・誰にだってわかることだと思っていた。

それなのにまだ政府与党を支持する人がいるということが不思議でならなかったが・・。

ようやく最近になって、「立憲主義」や「民主主義」を声高に唱えること人たちのことをあまりよく思わない人がいるのだということに気がついてきた。
ネットなどで誹謗、中傷、悪意のある言葉をまき散らすことを趣味にしているような人達は抜きにして、社会的にも安定した地位と生活があり、一般的な常識や教養を持っているような人達で、「民主主義なんて」と思っている人がけっこういるのだということに気がつき始めた。
決して政府がしていることを知らないのではなく積極的に賛同している人達。
(もちろん新聞報道などとは無縁で、政治に関心を持てず何が起きているか知らないという人も多いだろうけれど)
おそらく「民主主義は基本」と考える人間とは、思考回路が違うのだろう。

社会の3分の1くらいの人は、平和は大切と言いながらも、
原発事故は不幸なことであり事故の被害にあった地域は気の毒ではあるけれど、国の経済のためには今後も原発が必要となるのはいたしかたない、と考える。
沖縄県は基地が多くて大変だとは思うけど、現実問題として抑止力のために沖縄に基地を置くのが最善であり他に移設するのは現実的ではない。と考える。
戦争になるのは困るので集団的自衛権には賛成できないけれど、これですぐに戦争になるというわけではないだろうし、景気安定のために政府にはこれからも力を注いでもらわなければならない・・と、こんな風に考えているのだろう。

格差拡大の問題? 確かにあまりに格差が広がって貧困問題が大きくなるのはまずいので、今よりも景気が上向き、その上で貧困問題もうまく解決されればそれが一番いい、と考えるのだろう。

とにかく何よりも今の安定した生活を手放さないですむことが最優先だという考えが根強いのだ。

最近よく思うのは、資本主義という仕組みの限界(欠陥点)ゆえに「格差」が広がってしまったのではなく、「格差を拡大すること」によって資本主義が発展してきたのではないか、ということ。
誰かの犠牲の上に、誰かが得をする。
こう考えるとアベ政権がいまだに一定の支持を持っていることが納得できる。

多勢に無勢だから、何事も思うようにはいかない。
これが今の現実だということを肝に銘じておこうと思っている。

2015年は何かにたいして、自分の意見をまとめて記録しようという気持ちがほとんど湧いてこなかった。重要な社会問題があっても、考え込んでいるうちにもう次の問題が起きてしまい、またそのことを考えなければならなかった。
そのくり返しで(無力感が強くなり)あっという間に一年が過ぎてしまったような気がする。
また来年もそういう調子で過ぎていくのだろう。

重苦しいことばかりの一年だったが、SEALDsなど若者の活動に元気づけられもした。
彼らの活動を見るのは楽しく、安保法案反対集会が明るくなった。
絶望的状況でもあまりくよくよせず、悲観的な気分にとらわれないように、自分のすべきことをしていこうと思っている。



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コメント 4

shira

 私は2015年は日本国憲法が停止された年と位置づけています。憲法に関する意見表明が自粛や取り締りの対象になっている現状もこれを裏打ちしています。SEALDsを筆頭とする市民運動がかつてない規模で動いたのは、憲法停止というクーデターに対する抵抗としてしごく真っ当な規模の反応だったと思います。
 SEALDsらの活動は真の意味の保守であるということを内田樹はじめ多くの論者が評しています。実際、SEALDsはその前身のSASPLから「変えること」を求めたことは一切なく、新しい法律を作ることに反対し、憲法を「守る」ことを叫んでいました。
 今や自民公明ら与党は現状を急激に変えようとする急進派のジジイたちであり、その急進派がギャーギャーやっている国会に対して「君たち、もっと冷静になりたまえ」と言っていたのが学生たちだった。
 まあでも、犯罪を犯す人間が一番少ないのは若い年代で、年代が上に上がるほどダメという事実からすれば、これは必然だとも言えるでしょう。学校現場で働いている私からすれば、希望は若者にこそあると思います。もちろんそれは若者に全部任せるという意味じゃないですよ。
by shira (2015-12-30 23:12) 

tamara

「日本国憲法が停止された年」とは、どうしても認めたくない気持ちが強く働いてしまいます。でもこの4,5年の社会の動きは確実にそうであることを物語っていますね。 SEALDsの身軽で自由な行動力は、多くの人々を元気づけたし、これからのいろいろな市民運動の活力にもなると思います。若者には希望を見いだせますが、 賢くならずに年を取ることほど悲惨なことはないと感じています。
by tamara (2015-12-31 22:25) 

ayu15

[軽視する政府を依然として支持する人達がいるのはなぜか?いつも大きな疑問だった。]

それと密接にバッシングの矛先はどこにむかうの?

これが疑問です。答えは出ません。



自民党安部政権
アメリカ共和党(トランプ人気)
トルコのエルドアン政権
ロシアのプーチン政権

これらの人気はにてると思えます。

共通点は
性的障害・同性愛に冷たい
道徳強調(異端が許せない)
強い国’(軍事と経済)

立場の脆弱な人にバッシングの世論にうけがいい。

自由?
民主主義?
これは人により受け取り方がずれているような?
優先順位がちがうような?



??だらけですがこれだけは言いたいです。
マイナンバー即時廃止!
自由守り個々の尊重守るためにも。




by ayu15 (2016-01-05 12:06) 

tamara

<共通点>納得です。
「人権」という感覚がどうしようもなく欠落しているのだと思います。
なぜ欠落しているのかはわかりようがないのですが。
おそらく成長過程での環境が、すこしずつ異なる人格を形づくっているのでしょう。異なる考え(しかも人間性にたいする根本的な考え方)を持った人間同士、一体どうやったらわかり合えるかは全くの難問です。
by tamara (2016-01-05 21:26) 

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