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ややこしい呪い [文化]

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テレビでスペインのエンシエロ(牛追い祭り)と闘牛を見た。
もう何年も前にスペインを旅行したとき、ガイドさんが「スペインでは動物愛護の気運が高まり、闘牛は間もなくなくなるでしょう。見たい人は今のうちです。」というような事を言っていたが、まだ闘牛は続いているようだ。

スペイン、闘牛、と聞いたとき、普通は異国の独特な文化へのあこがれがふわっと浮かぶだけで、深くは考えたりしない。でもたまに闘牛の写真(マタドールが牛の背に何本も剣ををさしている写真)を見たりすると、これは悲しいなあ・・といつも思っていた。
テレビでエンシエロとその後の闘牛を見たときはすっかり気分が暗くなってしまった。エンシエロは牛を追いかけたり牛に追いかけられたりしながら人々が勇気を競って走る。できるだけ長く牛の前を走るのが優秀な走り手ということになるのだそうだ。逃げまどう牛がすべって地面にころび起き上がれないでいる。人もころぶ。けが人も出る。
ただの追いかけごっこだから一見、無邪気な遊びにも見える。
でも、牛の立場になってみれば、あの臆病な草食動物が大歓声の観衆の中、大勢の人間に追い立てられるのはどれほどつらいことか。

そして夕べには闘牛。大観衆の待つ闘牛場に入れられた牛。ピカドールと呼ばれる騎馬闘牛士が馬上から牛に槍を突き刺す。牛の首を上げさせないためだという。そして着飾ったマタドールが赤い布で牛を挑発しながら、牛の背に剣を何本も突き立てる。
血を流しながら牛は前に突進する。突進などというが、私には牛が勇ましく、凶暴になって突進しているようには見えない。牛はパニックになってただやみくもに前に進んでいるだけに思える。(牛の顔がアップになったとき、牛の悲しげなつぶらな瞳が私の心を突き刺した。)20分後、マタドールの最後の一突きが牛の心臓を貫き、牛は崩れ落ちた。
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大歓声が上がりマタドールは栄誉の印に牛の耳を切り取って観衆に向かって高々と手を挙げる。私はもう牛が可哀想で可哀想でならない。テレビを見ていられない。

これが伝統文化。これがその国、その地域の文化と言われれば、大抵は口出しをはばかられる。どこにだって、こんなような祭りはあるだろう。
でも人の世にはなぜこんな風な残酷な催しが生まれたのだろう。
「牛馬のように働かされる」などと言われるように、牛や馬など、ただの家畜。人間がどう取り扱おうとかまわぬ生き物。
現に、私も牛や豚の肉を食べている。
目の前にいる牛馬を殺して食べたいという気にはなれないだろうが、スーパーに並んでいる肉なら黙って買っている。

こういう矛盾を抱えて平気で生きているのが人間。

<ややこしい呪いがかかっているね>

広島「原爆の日」の式典で、「核廃絶」を訴えながら「核抑止力の大切さ」を同時に言ったりしている。
「平和を守る」「戦争は二度と起こしてはならない」という大合唱が、数日つづくが、今ある米軍基地をどうすべきか、という問題と結びつかない。
それはそれ、こっちはこっち、というわけだ。

スペインの祭りで殺された牛のことを思って気がふさぐ。人に食べられるために毎日殺される牛や豚や鳥や魚のことを思って気が沈む。
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ニーハオ!南京 [文化]

12月15日、16日、明治大学駿河台校舎・リバティタワー(JRお茶の水駅)で「南京事件70周年国際シンポジウム」が行われます。南京事件から70年、世界10カ国でこのシンポジウムが行われています。
そのシンポジウムに先駆けて池袋のみらい座いけぶくろで、日中文化交流会「ニーハオ!南京  文化の夕べ」という催しがありました。歴史教育者協議会委員長の石山久男氏、弁護士の加藤文也氏のトーク、紫金草合唱団と新劇人会議の人達による合唱劇、そして一番のハイライト南京理工大学和平的芸術団による「龍の踊り」を見ました。

紫金草合唱団は、南京事件を題材につくられた絵本「紫金草物語」の合唱曲を歌う合唱団で、2001年から活動し中国でもこれまで5回の公演をしています。2001年、初めての南京公演の架け橋となった孫慶さんは、名古屋大学を卒業した方で日本語もたんのうです。
この方の「初めは、日本の合唱団、しかも南京事件をあつかった合唱曲が、果たして南京市民に受け入れてもらえるだろうか、とても心配でした。」というお話を聞いて、日中の溝はこんなにも深刻なものだったのか、と驚きました。南京生まれの方がそのような心配をしていたということは、これまで報道でのみ知っていた情報とは格段にちがう重みを感じました。
初回の公演は南京の人達にとても喜ばれたそうです。「日本にもこんなにたくさん南京事件に心を痛めてくれている人がいるのだ」と。「紫金草」の3文字は南京で、中国で有名になり、ピースフラワーとも呼ばれるようになったそうです。

今年は初めて南京理工大学の学生による「龍の踊り」が来日しました。「龍の踊り」は中国の無形文化財で、このチームは全国コンテストで何回も優勝したそうです。日本に来るのを心待ちにしていたとのこと。
明るい白の衣装、金色に光る龍を持って軽やかに、時々かけ声を出しながらの学生達の踊り、その若々しさ、すがすがしさ・・。
来日して何回か交流会を持ってきた彼らの言葉「日本人はみな親切で、日本がとても好きになった。」に会場は暖かい空気に包まれました。
平和を伝え合うのに多くの言葉はいりません。むしろじゃまになるくらいです。こんなに活きのいい「龍の踊り」は十分なメッセージでした。

「平和」を語るとき、どうしても言葉に頼ってしまいますが、言葉を使わないものをもっと使って伝えあえるといいと思います。日本の伝統芸は何でしょう。何しろあまりにも速いスピードで西洋化を果たしてしまった日本には、大人も若者も子供も楽しめるような伝統芸がないような気がするのですが。


         「龍の踊り」


森と湖の国 フィンランド [文化]


数年前にフィンランドに行ったことがあり、その静けさに満ちた風景と人々に魅了されたが、NHKスペシャル「白夜の里山・フィンランド」を見ていて、またフィンランドの事が気になってしまった。
フィンランドには精霊の世界が現代でもまだ生きているようなのだ。テレビ一般の事物の取捨選択によってあのような番組が作られたのだろうか。あれはごく一握りの人々の暮らしを紹介しただけなのだろうか。もちろんそうだろう。
日本にだって都会から離れれば、静けさに満ちた雰囲気の里山はある。でも有史以来続いているという風習、物の考え方があれほどまで濃厚に残っているだろうか、と思う。

たとえばフィンランド人は木の精霊を信じ、それぞれが自分の木というのを決め、その木と語り合う。木に住むふくろうは「妖精」そして「賢者の象徴」だ。また森に住む立派なヒグマ澾は「森の王者」と呼ばれ、人々に尊敬される。熊狩りのとき、狩人は一晩森の中に泊まり、火にあたり断食をし、身を浄めるという。
そしてしとめられた熊を人間達が食べた後、熊が天国に帰れるよう、ていねいにその骨が松の古木の上に置かれる。熊狩りの歌の詩はこうだ。
「おまえの命をもらう。おまえを食べる。申し訳ない、仕方ないのだ。おまえは私たちの世界に来たのだから。・・(おまえの)目を食べる。おまえのような深遠な視覚を得たい。舌を食べる。おまえのような言葉の力を得たい。」

フィンランドは国土の70%が森、そして氷河に削られて形成された湖が無数にあって空から見るとまるで水びたしのように見える。森林は人の手で育てられ守られてきたという。白樺、トウヒ、松が主な樹木で、松は神聖な木であって亡くなった人の名前と生きた年が幹に刻まれて残る。フィンランドの郊外で森の中を歩いてもめったに人に会うことはない。だから、木も動物も人間にとって親しい存在なのではないだろうか。厳しい気候と自然の北欧の国だけど、もう日本にはずいぶん前に失われてしまった、自然と一体となった人間の暮らしがまだあるように思う。

農業は30年前までは農薬を使っていたが、今では農薬を止め、いろいろな種類の鳥と共存し鳥たちに虫を食べてもらっている。その方がずっと効果的であることを知ったという。
ほとんどの人は湖岸に自分のサウナ小屋を持ち、週末を過ごすのだ。サウナは出産にも死の浄めの時にも使われてきた神聖なものだ。サウナにも精霊が宿るという。
森のめぐみ、キノコやいちごは、その森がだれの所有であっても、すべての人が収穫することを許される。これも昔から変わらない。

フィンランドの白夜、太陽が沈むのは2時間ほど。冬はその逆になる。大人も子供も真っ暗な中、仕事や学校にと凍った道を出かけるのだ。午前10時頃ようやく地平線に顔を出した太陽は真上に来ることがないまま、午後の2時には沈んでしまう。
厳しい自然を前にして人間は何ができるだろう。人間の方が自然に寄り添うしかないだろう。自然に対して謙虚にならざるを得ないだろう。

自然界と離れれば離れるほど、人間は不幸になっていくのではないかと思う。熊狩りの名人と言われる人が熊をしとめたのは、17才から52才までの間に8頭だった。アメリカではお金を払えばハンティングができる所があるという。ライオンを撃ちたいならば30万円払うのだそうだ。この価値観の決定的な違い・・・。
「人間は自然の一部」という感覚がすっかり消えてしまった時、人の感覚の拠り所となるのは何だろう?


フルトヴェングラー [文化]

史上最高の指揮者という名を残すフルトヴェングラーについての本を読んで
いる。ドイツ帝国にナチスが台頭し第二次大戦が終わるまでの12年間、多
くの音楽家が亡命したにもかかわらず、フルトヴェングラーはドイツに留ま
ったため戦後は非ナチス化の裁判を受け、戦後2年を経た1947年によう
やく指揮活動を許される。
5月25日ベルリンフィルでの演奏はベートーベンのエグモント序曲、交響
曲5番と6番。歴史的なコンサートとして残った。
フルトヴェングラーが登場すると観客は総立ちになり、熱狂的な拍手、歓声
で迎えた。切符を手に入れるために家財を売ってでも聴きたいと思った熱狂
的な2000人の観衆。演奏が終わったときは拍手と歓声は15分間以上も
鳴りやまず、フルトヴェングラーは16回、ステージに呼び戻されたと言う。
ユダヤ人演奏家の国外脱出を助け、ナチスへの協力を極力避けたフルトヴェ
ングラーだが、その演奏活動はナチスの宣伝に利用されることになった。
亡命しなかった理由はドイツ音楽を愛するがためということの他に、ヒット
ラーもまたドイツ国民と同様、音楽を崇拝し、フルトヴェングラーを手放さ
ないために、ある程度の自由を認めていたことにあるという。
ナチス広報担当のゲッペルズは命令でフルトヴェングラーに指揮をさせるこ
とを極力避けた。そんな事をしたら、国家として汚名が広まると考え、あく
までも自由意志で音楽をやっているという形を崩さなかった、という。
ここまで読んで、日本のことを考えた。強制して君が代を歌わせたり、伴奏
させたりすることを「民主主義国家」として恥じとも思わないのが今の日本
の政府だ。これは国家としての汚名ではないのだろうか。
ドイツではナチスが広報活動の一環とは言え、戦争中でさえコンサートを開
いていたことにも驚く。多くの民衆がドイツ音楽を心底大切にしていたとい
うことだ。日本は何を大切にしていたのだろうか。


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