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森友学園事件に思う [教育]

森友学園のニュースはあさましく、地に墜ちたとはこういうこと、の見本みたいで、特に意見を述べる気にもならないでいたけれど、今、真面目に教育の取り組んでいる人たちに対して、やはりエールを送らないとまずい。

世の中めまぐるしくニュースが駆け巡り、一つのことを考えている間に、二つめ、三つめ、とひどい事件が起きるので、いつの間にかボーッとそれを眺めているだけの傍観者になっているような気がしている。
これは良くない傾向だ。

ひどいニュースを日常的に見聞きしていると感覚がまひしてくる、というのは戦争体験者から聞く話だが、こんな風だったのだろうかと感じたりする。

森友学園事件については前代未聞というべき形容がピッタリするのかもしれないが、アベ首相(アベ政権)はこういう人だろうと思っていたことが、そのまま表面に出たということで、特に驚きはないという人も多いだろう。
「類は友を呼ぶ」ということわざ通りなのだ。
公になっただけでも良かったと思うけれど、公になっても大したことは何もできないかもしれない。
これまでも、こんなひどい事が許されるのか、これで何事もなかったかのように政権は保たれて行くのか、ということがずっと続いてきているので、私たちの怒りや勇気がひどくそがれてしまうのである。

アベ首相の考え方は、憲法と真っ向から対立するもので、このような人物によって2009年に「教育基本法」が崩されてしまったことが本当に無念でならない。
「教育基本法」は元通りにしなければならないと今でも思う。

法律は人の手によって作られるものだから、人の手で作り変えることもできる、とは自明のことではある。
問題は、どういう人達(政権)によって、どういう目的で、変更されるか、ということにある。



日本国憲法は、

「国民主権」「基本的人権の尊重」「平和主義(戦争放棄)」の3本柱であると、

中学生、高校生は学校で教わることだろう。
(ちゃんと教わっているだろうか・・?)

その3本の柱が戦後の日本の土台を築いて来た。
だから、この3本柱を崩すというのは大変な大変な大変なことなのだ。
私には、アベ政権がこの3本柱を全部変えたがっているとしか見えない。

国を讃える、ということを強調したがる人たちは、国民一人一人を大事にするのではなく、人が集まって成り立っている国というものの枠組みや体裁を重んじる人たちで、つまりは時の政権を讃えることをよしとする人たちだ。このような人物・団体・政体によって、憲法や教育基本法を変える、ということがいかに絶望的であることか。

憲法に沿って、平和を守ることの大切さ、一人一人が言論や表現の自由を持ち、人として生きていける権利を持つこと、一人一人の意見が尊重されなければならないこと、などを、学校でしっかり教えようとすると、「偏向教育ではないか」などと言い出す輩は行政側に必ずいたが、今ではそう言う意見が大勢になって、教員はさからわないようにしているのではないだろうか、と不安になる。

今回の森友学園の問題を見ると、国有地払い下げの問題と同時に、その教育内容についても、その異常さが際だっている。
教育の目標・内容と、学校設置および経営の何もかもが極端に狂っているとしか思えない。

この異常さの根っこがどこにあるのかを見極めないと、こんなことはいくらでも続くことになる。


ばかな政治家の介入を許さないために、先の「戦後の教育基本法」では、教育は「不当な支配に服することなく国民全体に対し直接に責任を負う」という条文(第十条)があった。
学校で教育に携わる者は、行政の命令などで教える内容を変えてはならず、憲法、教育基本法の精神に沿って、生徒や保護者に直接的に責任を持って接しなさい、という意味である。

それを新・教育基本法で「直接の責任」と言う言葉を削ったのは第一次安倍内閣である。
教育行政の中心にあるのは、与党政府の文科省である。
最近「天下り」で悪名を高めたがもう早くもニュース性はが薄れてしまい、関係者は胸をなでおろしていることだろう。(もともと腐りきっている、あるいは腐りがちな所なのだ)
そしてその文科省の息のかかった末端の都道府県や市町村教育委員会が「行政の代表および窓口」なのである。

この行政側の者たちにまかせなさい、つまりは命令することに従って教育しなさい、ということにしたのだ。


「戦後の教育基本法」は、戦前戦中、高校、中学校、小学校のすみずみまで「戦争賛美」の教育が行われたため、これを反省して二度と「時の政権」に利用されないように、教育を政治介入から守るための法律だったと思う。

2009年、第一次アベ政権はまずその教育基本法を切り崩し、そして今、憲法を切り崩そうとしている。
政治というのは大きな力を持つもので、
その前では個人の力は本当にちっぽけで(ちっぽけなんて言葉では言い足りないほど小さくて)、そういう小さな個人が団結したり協力しあうことまでを徹底的に防ぐために、共謀罪だの秘密保護法を作ったりするのだ。

その流れに歯止めはかけられるのだろうか。
どうやって歯止めをかければいいのか。
崖っぷちに立たされている気分だ。


(追記)
一夜明けて、森友学園事件は学園の不正のみが大きく取り上げられ、その裏で大きな影響力を及ぼしている政治世界には、焦点が当たっていない。やっぱりこうなるか。

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2015年の終わりに思うこと [教育]

毎年のことだけれど、年の瀬というのはどうも気持ちが落ち着かない。
子供の頃はそうではなかった。暮れの大掃除や正月に向けて買い物したり料理したりの手伝いなど、わくわくしたものだった。
大人になってからはだめになった。

世相が悪化しているのに、ニュース全般が、一年をまとめて一応の区切りをつけようとする雰囲気になるのが嫌なのだ。「問題は残されている」という締めくくり方も一辺倒で気に入らない。
「残されている」のではなく、今まさにその渦中にいるのだから。

それは正月も同じ・・。
状況も変わらず希望もないのに、さあ、新しい年だ、気持ちを新たにがんばろう、という雰囲気が強制的にテレビニュースなどで流れる。
「新しい気持ちでがんばる」とか「今年こそこういう年にしたい」「希望を持とう」とかいう言葉を聞くのがけっこう虚しくてつらい。
絶望の中にいるからこそ『希望』という言葉も出てくるのだろうけど、『絶望的状況』は『希望』という言葉で緩和されるわけではない。

2015年のまとめとして、今どういう絶望的状況にあるかを書いておこうと思う。

3・11あたりから日本の社会は以前にも増して住みにくくなってきた感じがする。
原発事故の処理ができずにそのままになっているから、常にのどに堅い物が突き刺さっている感じが消えない。処理などできないのだから半永久的にこのままいくしかないのだ。
そのつらさに加え、特定秘密保護法の施行、マイナンバー制度の施行、安保法案の強行採決、沖縄辺野古基地移設反対への暴力的圧力、などなど・・、重要かつ悪質な法案や行使がどんどん推し進められている。
その根底にあるのは「立憲主義」「民主主義」というものの軽視であることがいよいよはっきりしてきた。

なぜ「立憲主義」や「民主主義」がこんなに軽視されるようになったのか?軽視する政府を依然として支持する人達がいるのはなぜか?いつも大きな疑問だった。

国全体のあり方、進むべき方向、という大事な問題を、反対の声が大きく上がっているにもかかわらず、議員の数の力だけで強硬に決めてしまうことが、いかに独裁的で大変な事であるか、誰にだってわかるはずだ、と思った。
住民の反対があるにもかかわらず沖縄だけに基地を押しつけて平然としていることがいかに異常なことか、テロをくいとめるためにテロリストがいると思われる地域を空爆するなどということがいかに人道にはずれているか、国の最高法規である憲法を軽視し無視することがいかに重要な意味をもつことであるか・・誰にだってわかることだと思っていた。

それなのにまだ政府与党を支持する人がいるということが不思議でならなかったが・・。

ようやく最近になって、「立憲主義」や「民主主義」を声高に唱えること人たちのことをあまりよく思わない人がいるのだということに気がついてきた。
ネットなどで誹謗、中傷、悪意のある言葉をまき散らすことを趣味にしているような人達は抜きにして、社会的にも安定した地位と生活があり、一般的な常識や教養を持っているような人達で、「民主主義なんて」と思っている人がけっこういるのだということに気がつき始めた。
決して政府がしていることを知らないのではなく積極的に賛同している人達。
(もちろん新聞報道などとは無縁で、政治に関心を持てず何が起きているか知らないという人も多いだろうけれど)
おそらく「民主主義は基本」と考える人間とは、思考回路が違うのだろう。

社会の3分の1くらいの人は、平和は大切と言いながらも、
原発事故は不幸なことであり事故の被害にあった地域は気の毒ではあるけれど、国の経済のためには今後も原発が必要となるのはいたしかたない、と考える。
沖縄県は基地が多くて大変だとは思うけど、現実問題として抑止力のために沖縄に基地を置くのが最善であり他に移設するのは現実的ではない。と考える。
戦争になるのは困るので集団的自衛権には賛成できないけれど、これですぐに戦争になるというわけではないだろうし、景気安定のために政府にはこれからも力を注いでもらわなければならない・・と、こんな風に考えているのだろう。

格差拡大の問題? 確かにあまりに格差が広がって貧困問題が大きくなるのはまずいので、今よりも景気が上向き、その上で貧困問題もうまく解決されればそれが一番いい、と考えるのだろう。

とにかく何よりも今の安定した生活を手放さないですむことが最優先だという考えが根強いのだ。

最近よく思うのは、資本主義という仕組みの限界(欠陥点)ゆえに「格差」が広がってしまったのではなく、「格差を拡大すること」によって資本主義が発展してきたのではないか、ということ。
誰かの犠牲の上に、誰かが得をする。
こう考えるとアベ政権がいまだに一定の支持を持っていることが納得できる。

多勢に無勢だから、何事も思うようにはいかない。
これが今の現実だということを肝に銘じておこうと思っている。

2015年は何かにたいして、自分の意見をまとめて記録しようという気持ちがほとんど湧いてこなかった。重要な社会問題があっても、考え込んでいるうちにもう次の問題が起きてしまい、またそのことを考えなければならなかった。
そのくり返しで(無力感が強くなり)あっという間に一年が過ぎてしまったような気がする。
また来年もそういう調子で過ぎていくのだろう。

重苦しいことばかりの一年だったが、SEALDsなど若者の活動に元気づけられもした。
彼らの活動を見るのは楽しく、安保法案反対集会が明るくなった。
絶望的状況でもあまりくよくよせず、悲観的な気分にとらわれないように、自分のすべきことをしていこうと思っている。



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教育基本法改定から9年〜12月の憂鬱〜 [教育]

寒い季節は苦手で(暑いのもだめだが)、少し鬱気味になる方だけれど、この10年ほどは、11月末から12月にかけてその傾向がかなり強く現れるようになった。

それは9年前の12月15日に現場の教員の強い反対にもかかわらず、第一次安倍政権によって「新・教育基本法」が参院本会議で成立(自民・公明が賛成。民主党、共産党、社民党、国民新党などが反対)、してしまった事を思い出すからである。
寒い中、おろおろと暗い国会前の反対集会に通っていたことが体感として残っている。
(12月は教員は2学期の成績処理などに追われている時期だ。)

「新教育基本法」は見たくない代物で、戦争の反省に基づいて、できる限りの民主的な(人間、児童や学生を大切にしようという考えに基づいた)、選び抜かれた言葉で書かれたそれまでの「戦後の教育基本法」とは似ても似つかないものになってしまった。

教育に深く関わっていた人でなければ、その落差の大きさ(私に言わせれば180度の転換)には気がつかないかもしれない。
法案決定に至るまで、やらせタウンミーティングなど数々の問題が浮上して世間の目にもその異常さは明らかにはされていたものの、安保法案強行採決と同じように、独裁的な採決となった。

9年前、「もう日本の教育はこれで終わりだな」という思いを持った学校関係者は多かったと思う。
その後は、第一次安倍内閣は頓挫したものの、教育の改悪はどんどん進められ、まず公立の小学校、中学校、高校、ついには大学まで公立私立を問わず、めったぎりである。

法が変わったからといって、教員が変わるわけではないから、これまでの「戦後の教育基本法の精神」も受け継がれてはいただろうけれど、年を経て教員の世代交代が進むにつれ、じわじわと「新・教育基本法のねらい」は教育現場にしみ込んで来ているはずだと思う。
教育関係者以外にそれは決して伝わらない。

「戦後教育基本法」は、『教育の独立性(時の政治や国家権力に左右されないこと)』を明確に現していた法で、「新・教育基本法」は、国家権力の下に置かれ、時の政権を支えることを目的にしている。
だから、国家権力の側に立つ政治家、財界人、彼らのやり方を支持する人々には、都合がいい。
まさに「政治は教育から」である。

こうして、教育、学問は政治の道具となり、「敬意」を全く払われなくなった。
こんなに悲しいことがあるだろうか。
本来、学問の場、人間形成の場は、権力とは離れた立ち位置にあって孤高の世界を持つべきだ。
人間は、経済のために存在するのではなく、人間社会の存続のために、経済力も少しは必要、というものだと思う。
完全に本末転倒している。

教育基本法の改定、安保法案強行採決、沖縄基地の辺野古移設への執着、原発事故への無反省、貧困層の拡大・・これがすべて今の政権が推し進めていることだ。

人間性を何よりも重視しようとしていた「戦後の教育基本法」は、もう忘れ去られてしまうのだろうか。


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教育と政治 [教育]

2006年12月6日、教育基本法改定が参議院を通過したときの失望感、絶望感は大きかった。
これから日本の教育はどうなってしまうのだろう、この先どういう社会が待っているのだろう、という不安がぬぐいきれなかった。
「まだ日本国憲法がある」という言葉が、教育基本法改悪に反対した人達の間でなぐさめのように言われたけどあまりなぐさめにはならなかった。
それから8〜9年を経て、世相は確実におかしな方向に変わってきた。

安保法制に反対する人達を批判する人は、「まるで今すぐ戦争が始まるようなことを言うのはおかしい」などと言う。
戦争は今すぐ(この1,2年以内)に始まるということは可能性としては低いかもしれない。
簡単に戦争を始められるものではない。
今、集団的自衛権などの安保法制に反対するのは、10年後、20年後のことが心配だからだ。
時間をかけてゆっくりと知らず知らずのうちに、戦争態勢というものは作られていくのだろう。

戦争をする国になるためには国民の心がその方向に向かうことが必須だ。
だから、権力者は「教育のあり方」を気にする。戦後、この教育基本法を変えようとする動きは何度もあったがかろうじて守られてきた。
第一次安倍内閣が、教育現場の猛反対を押し切って(大きなエネルギーを使って)、教育基本法を変えたことは、8年後の集団的自衛権の内閣決議に見事につながっていた。
そういう目的があればこそ、教育基本法を変えたかったのだろう。
ほとんどの人々は、暮らし向きや経済の心配はしても、教育のことなどあまり気に留めないのだから。


政治家でも、一般の人でも、その人がどういう考えの持ち主かを知るには、「教育というものをどう考えるか」という一点だけを見れば十分だと私は思っている。
「教育」にこそ、人間の考え方が如実に現れる。

羽仁五郎の言葉
「教育というものは自由でなければいkない。教育と権力はあいいれない。つまり命令されて人間はいい人間になれるわけがない。自分でなろうとしなければだめだ。上から命令すればするほど自発性はなくなっていく。教育の根本はその自発性なのだ。」

教育基本法を変えたのは、まさにその『教育の自発性』をそぎ落とし、制限するのが目的だった。
今の学校は、小学校から大学まで権力が幅をきかせている。

自民党の国会議員の、
「若者が戦争に行きたくないなどというのは自己中心、利己的考えで、その原因は戦後教育のせいだ」という発言は、権力者の気持ちというものを知る上でとてもわかりやすい。

「権力」は、子供や若者に自発性を持たせたくないのだ。
教員に子供や若者に自発性を持たせるような教育をさせたくないのだ。
「権力に従わせる」「権力に進んで従う人間を作る」のが権力側の理想だろう。
そこでまずは「愛国心」を育てるという目標が生まれる。全国津々浦々に国の威光を示すために、入学式や卒業式を使う。君が代を強要する。国への忠誠があるかどうかの踏み絵がわりだ。

教育の内容にあれこれ口を出し、自由な発想を教育現場で生み出させないよう、いろんな意味のない研究会、調査、報告、レポート提出などを押しつけて、教員の時間を奪ってしまう。
無理矢理に「学校間の競争」を取り入れて、学問の場から矜持を奪ってしまう。


これが今の日本の教育の実態だ。
こういう教育環境の中で、安保法制に反対するSEALDsや高校生の集まりがよく生まれてきたものだと思う。
権力がいかに国民を手の内に納めようとしても、それは簡単ではない、ということだ。
それでも、場合によっては戦前の日本のように国のためには命を投げ出すのが当たり前、という雰囲気が一気に生まれる可能性が無いとは言えない。

15、6才頃の純真な(信じ込みやすい)心には、家族や国を守るためには命を捨てるという考えが、容易に入り込むだろう。かつての特攻隊員がそうであったように(痛々しい)。
これが「洗脳」だ。「偏向教育」の最たる例だ。

憲法を遵守し、憲法の精神をしっかりと児童、学生に教えていくのが教育者の務めだと思う。
どうか権力に負けないでほしい。

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「体罰」について(続) [教育]

自民党が検討する「いじめ防止対策基本法案(仮称)」の骨子案で、教諭による体罰もいじめと位置付けると新聞に報道されていた。

「体罰」は、これまでも繰り返し問題になっており、学校教育法ではもうとっくの昔から「体罰禁止」となっているのだが、なかなかなくならないのは、よほど「人権感覚」に疎い国民性ということなのだろうか。

ある教員が別の教員の「体罰」を告発したら、同僚には内部告発者として白い目で見られ、体罰をした教員が受け持っている部活動の保護者が、「熱心な先生が処分を受けるようなことはあってはならない」とおかしな署名活動まで始めたりということがあったくらいだ。
「体罰」は「「いじめ」であるというのが共通認識になれば、よけいな論争や摩擦で教員の貴重な時間を浪費しないですむかもしれない。

けれども、それだけで「いじめ」や「体罰」を解決しつもりでいるとしたら、それはとんでもない話だと思う。
部活動で、「生徒のためだ」とえらそうに体罰をふるう教員がいるのは、土日などの休みを返上して、無償で働いているせいではないかと思う。
部活動の顧問には、無償で働いているのだから部活動が成り立っているのは自分のおかげだ、という意識が生まれやすい。だから、感情的に生徒を怒鳴ったり殴ったり、という行為も、(教育委員会や管理職、保護者に)大目に見てもらえる、と思っている。

しかも、県大会などで優勝したりすると、それは顧問の実績となり、管理職、ゆくゆくは教育委員会のメンバーになれる(つまり出世コースでもある)というシステムになっていたりする市もあるから勝利至上主義も出てくる。「体罰」など仲間内では暗黙の了解で、「あんまり派手にやるなよ」という位のことである場合が多い。
実際にキョウイクイインカイのメンバーがもと体罰教師だというのはけっこう多いのだ。もちろん所によって違うかもしればいけれど、少なくとも私の知っている市はそうだった。
もと暴力教師がえらそうに委員会メンバーになって、指導主事などという肩書きで現場の教員の研修会に出てきて教員の指導をする立場になるからあきれてしまう。

教員を無償で働かせてはいけない。きちんと仕事に見合った賃金を支払うべきだ。そうすれば「ただで働いてやっているんだ」と、えらそうな態度を取る教員は減るだろう。
大体、教育委員会や市も、休日返上の教員のただ働きを見て見ぬふりをし、ボランティアでやってくれているのだから、とすませているのがおかしい。

生徒同士の「いじめ」問題に根本的に取り組むには教員の決めの細かい指導が必要となる。いじめが生まれるような子供の複雑な心的環境に入り込んでいくしかなく、そのためには子供と直接に接する教員の真摯な努力しかなく、市町村に「報告」するとどうなる、ということではない。
教員に時間的なゆとりがなくては子供との関わり方もおざなりになってしまう。

教員に、教材の研究、研修をする他に、一人一人の生徒のカウンセラー的な仕事ができる時間的余裕がなくては不可能だと思う。
授業の中に「道徳」という時間があるが、そんな通り一遍の一斉授業で解決できるようなものではないのだ。

今の教員には、生徒とのんびり話をする時間はない。時間に追われ、一度に大勢の生徒を相手にしていては、子供が置き去りになるのは当然だと思う。
肝心な教科の授業を精一杯やりながら、その上、掃除だ、給食だ、部活動だ、研修会だ、と日々追いまくられているのが日本の教員の姿だ。
今の日本の学校に、きめこまかな指導を求めるのはまったくないものねだりだろう。
10年前、20年前に比べて、教員の仕事は確実に三倍くらいに増えている実態を、どの位の人がわかっていることか、と思う。

それなのに、自公政権は、あっさりと、少人数学級はやめる、という方向に変えてしまった。
民主党政権時代にようやく生徒数の上限を下げて生徒一人一人に目を向ける、という基盤がつくられるか、と思ったのに・・。

少人数学級にしたからといって学力が上がる保障はなく、要するに経済効果がわからないから、というのが理由だという。
さすが、景気のことばかり唱える自公政権のやることだ、と思う。
「いじめ」や「体罰」など、学校の問題が深刻になっている最中に、平気でこういうことを言う。

こういう冷たい政治に、誰もが腹を立てうんざりしているのだ、と思っていたのだけれど・・・。

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「体罰」について [教育]

体罰はなくせるのだろうか?
体罰にからんだ事件が起こる度に「絶対に体罰は許されない」と新聞やテレビで大きく取り上げられる。
しかし、果たして、「体罰は許されない」ということが、世間の常識にどれだけなっているのかどうか?

許されないことをやってしまう、というのは人間社会には多々見られるが、「体罰」に関しては、実際は、「覚醒剤はダメ」というような一般常識にすらまだなっていないような気がする。
体罰を受けたことが自分のためになった、など考える大人が多いし、我が子を学校に預けるにあたって「先生、うちの子が悪いことをしたときはビシビシ叱ってください。殴ってもかまいません。うちはそういうことは学校におまかせしますので。」などとわざわざ言う親が相変わらずいるのである。

そう思っている親がいることにあぐらをかいて、日本の体罰教師は、法に反していることを百も承知で、体罰は子供のためだ、と正当化して、同じ行為を繰り返すのである。
「いじめ」と似ている。いじめられる要因を作った者が悪い・・だからいじめられるのは仕方ない、という正当化と同じ。

「体罰」という言葉がまずまちがいのもとになりやすい。「罰」という言葉が入っているために「悪い行為に対する当然受けなければならないむくい」という意味が強くなり、悪いことをしたのだから仕方ない、という見方が出てきてしまう。

「暴力」という言葉に置き換えてみたらどうだろう。

生徒に暴力をふるった、という事実を、学校関係者なら、必ず、生徒に体罰をふるった、という表現に言い換えようとする。
それは、暴力をふるったと言うと、あからさまに「悪」だとわかってしまうが、体罰と言えば、いくらか弁明の余地があるように聞こえるからだ。

教師による暴力は、早い段階で、同僚の教師がわかっている場合が多い。被害を受けた生徒が訴えてくるし、他の生徒が教えてくれることも多い。
生徒からの訴えがないような学校は、教員がまったく生徒に信用されていない、たちの悪い学校である。

そして生徒の訴えがあったときに、同僚の暴力をきちんと糾弾し、阻止し、悪習をなくそうと真剣に努力する教員はどのくらいいるだろう?
これについては、はなはだこころもとない気がする。

どんな職場でも仲間同士の失敗を追求するのは難しいことだと思う。
上に立つ者がしっかりと正しい方向へ導いてくれるなら一番話は簡単なのだが、上に立つものが、間違った方向へ向いていたら、悲惨である。

学校教育で上に立つ教育委員会や学校の管理職は、世間体を第一と考えがちで、一番大切な「生徒のため」という基本的な視点はどこかにいってしまっていることが多い。
だから「いじめ」の発覚も遅れ(発覚したくないのだ・・)、「教師による暴力」もなくならない。生徒間の暴力(いじめ)がなくならないはずだ。

そして、たとえ、良心的な教員が「教師による生徒への暴力」を問題にしようと勇気を奮い起こしても、そこには「体罰教師」を擁護する保護者集団が必ず壁となって立ちふさがり、じゃまをする。
「体罰教師」というのは、ごろつきでもなんでもなく、平常はもっともらしい訓辞を生徒に垂れ、冗談も得意で、生徒からの信望も一応あるのだ。
熱心で生徒思いでがんばってくれる先生、などと逆に評価されたりする。

だから教師の「暴力」の標的にされた生徒は、非常に孤独なのである。
孤独の中で、誰にも苦しさを伝えられない状況で、悲劇は起きてしまう・・。

「悪いことをしたときはビシビシ叱ってください!」と、言うような大人が、悲劇を生んでいるのだと思う。教員もまた、仕事をしていく中で成長していく人間なのであり、回りの雰囲気や、保護者の意見やらで、自分の指導法を作っていくからである。

正しいことがすんなり伝わらない社会というのは本当に住みづらい!
「原発のない社会にしよう」というしごくまともな意見も、「景気のためには目をつぶるしかない」などという無茶な考えに阻まれてしまうのだから。

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『いじめ』について考える [教育]

『いじめ』についての報道は聞くのがとてもつらい。
しばらく、学校での『いじめ』はニュースとして取り上げられていなかったが、今の世の中、学校現場は、どんどんひどくはなるものの決して良くはならないだろう、と思っていたけれど。

事件が起きた学校の校長および市教育委員会の会見を見ていると、あぁ、こういう学校に子供を通わせたくないな、いじめが起きても不思議はないな、と思う。

『いじめ』は身近にいる大人が気がつかないはずがないものだ。
子供同士の遊びの中に何かイヤな雰囲気を感じとったら、それがイジメである。子供の説明を聞くまでもなく、人の、身体や心を傷つけるようなことはすべてイジメである。

虐める側の言い訳として「ただの遊びだった」というのが多い。
やられる側も笑っている、という場合がある。それでも「それはイジメだ」と大人がはっきり教えてやるべきだ。
遊びのふりをして特定の誰かに嫌がらせをするのが『いじめ』だ。「遊び」は決して言い訳にならないことを、子どもには常々言い聞かせておく必要がある。「遊び」にもルールがあるということを(生きていく上でのルールである)よくわからせておかなければならない。


また、虐められる方にも悪い所がある、という言い方をよく聞く。
欠点があるとかないとかは、いじめ問題の本質とは関係はない。(大体、欠点がない人間がいるだろうか。)人の欠点で、その人に嫌がらせをしてはいけないのだ、ということを子供にはよくいいきかせておくべきだ。

子供というのはなかなか自分の行動を客観的にとらえることができないため、「それがイジメだ」と言われないと気がつかないこともある。「イジメだ」と指摘されて腹を立てる子供もいる。
人に嫌がらせをするのは平気でも、他の人から自分の行為を非難されることはイヤで、非難されるとカッとなる子供が多い。
それは、虐めをする子供の特徴である。

ともかく、いじめ、の雰囲気を感じたら、即、回りの大人は(教員、親)は、ストップをかけなければならない。面倒がっていてはだめだ。
いつもアンテナを高くしておいて、変な雰囲気がないか、気を配っている必要がある。

ところが、学校現場が事なかれ主義で、いざとなると責任のなすり合いになるような所だと、そういうことがうまくいかなくなる。
教員が子供ではなく、管理職や教育委員会の方を向いてしまうと、いろんなことが空回りし始める。
あげくの果て、いじめっ子と同じように「知らなかった」「気がつかなかった」と自分を正当化してしまうようになる。
あまりにも幼稚で、情けない学校の姿だ。
こういう「学校」は、みな登校拒否して自宅で学習しよう、と言いたくなる。そういう学校で得るものは大してないだろうから。

「子供はいろいろな試練を受けて成長するものだ」などと言うが、『いじめ』というものは、経験したり、あるいは、見たり聞いたりして、いいことは何一つないと思う。
そういうものに汚れず、まどわされず、まっすぐにあるがままに育つ方がずっといい。
『いじめ』というものを知らなければ、大人になっても、自分の考えを大事にし人の考え方も尊重する、ということが自然に行われるだろう。
他人の目をことさら気にしなくてもいられる人になるだろう。

さて10代の子供が、20代、30代、40代・・になったときどういう世界が待っているか?
やはり、いろんな『いじめ』や『嫌がらせ』が待っている。
仕事のために自分の時間が持てない。休憩時間も十分とらずに、夜遅くまで毎日働かせられて、文句を言うこともできない立場に置かれている。
文句を言うことなど思いつきもしないでいる。
経営のためにという理由で簡単に切り捨てられる。過重な仕事を押し付けられ追いつめられてしまう。

そういうことをなくすために労働基準法というのが定められているのだが、学校ではちゃんと教えているだろうか?
学校で一番大切なのは、「人権」についてしっかり教えるということだと思う。それが長い人生の指針になる。
教育で重きをおかれるものが社会を支えるものとなるはず。

逆に見れば、社会があまりに不平等だったり、個人の人権を軽んじるようであったりするならば、学校という場も、不平等、差別、人権無視・・というのは必ずあるのだと思う。

そういえば「原発に対して正しい知識を教えることが必要」などと最近言われているが、正しい知識って何?と、首をかしげてしまう。
「原発の正しい知識」は、誰にとって正しいことなのか。
電力会社にとって?原子力村にとって?政府にとって?財界にとってか??


物事の正しさは、「人権を尊重する」ことが最低限の基準になる。(本当は、人間ばかりでなく、他の生命体のことも考えなければならないのだ)
人権を教えられない学校は、もう、正しいことを教えられる場所ではないのだな、と感じる。


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公教育 [教育]

もう卒業式、入学式のシーズンは過ぎてしまったが、この間、朝日新聞の論壇時評というコラムに高橋源一郎氏の<入学式で考えた〜ぼくには「常識」がない?>という文を読んだ。久しぶりに、そうでしょう、そうでしょう、と心が和んだ。

<小学校の入学式に参加したら、保育園の卒園式に比べて、何だかちっとも感動しない。偉い人が壇上に上がるとき、誰もいないのに日の丸に向かってお辞儀をし、何のためにそんなことをするのかわからない、ぼくに「常識」がないのだろうか・・。国歌斉唱になりだんだん憂鬱になってきてしまった。誰がこんなやり方を決めたんだろう、小学校の入学式は子どもたちのためのものではなく、キョウイクイインカイとかそれを指導しているえらい人のための式なんだ、だからイヤになっちゃうのだ・・>というようなことが書かれていた。

本当にそうなのだ。えらい人がもったいぶって誰もいない壇上にうやうやしく礼をする。式の流れは全国一律であって学校ごとの特色や工夫はない。(特色は出してはいけないことになっている。)本来主役であるはずの子どもたちのことは二の次で、教育委員会や管理職は全国一律の式を行うことだけを至上命令としている。こういうのが教育界の「常識」だとすれば私もずいぶん常識からかけ離れていることになる。

大阪維新の会というのが中心になっておかしな教育条例を作ったとき、本当にこれを大阪の人々はこれを受け入れるのだろうか、と思ったが、なんせ条例などというものは密接に関わっていない人にとっては、ことの深刻さも異常さも伝わらないものだ。条例案を真剣に読んでみる人がどれだけいるだろうか。
結局、大阪では教育基本条例が通ってしまい、卒業式だか入学式で、校長が国歌斉唱の際に教員がちゃんと歌っているかどうか、教員の口元をチェックしていたという話がニュースになった。
こういう話は、他国の人にはおよそ理解できないだろう。

生徒の卒業や入学を祝う大事な式(一応、大事という言葉を使っておこう)の中で、子どもたちのことを心から祝うどころか、条例違反はいないかと「口元チェック」していた校長やら管理職メンバーは、教育者としてはまったく失格である。人格的に大問題だと思う。

この事件がどのように世間を騒がせたのか、それとも騒ぎにもならなかったのか、あまり新聞を読まなかった私はよくわからなかった。でも、私の「常識」からすればとんでもない事である。
世間一般では、「公務員なんだから法律は守らなきゃ」「国歌斉唱が嫌だという人は公立の教員にならなければいいんだよ」など、これもまた平然と言う人がいて、世の中変わったのか、それとも昔からずっとこうだったのか・・どうもわからなくなった。

「公教育」という言葉が誤解のもとかもしれない。短絡的に「公のための教育」という風にとらえる人がけっこう多い。確かに公共の精神を学ぶというのも教育の一部ではあるが、「公」を「国家」としてしまうとおかしなことになる。
私は、公教育とか義務教育の意味(目的)は、国民の教育を受ける権利を、国や地方自治体が責任を持って保証するということだと思っている。国民を国に隷属させるためのものではない。
公務員も、国家の番人という意味ではないと思うが、いつのまにか、公務員は政府の言うことを黙って聞け、教員は国家政府の意向に沿うような教育をし、政府の命令に黙って従え、というふうに意味が歪曲されて解釈されているようである。

1999年、日章旗を国旗、君が代を国歌とする、という国歌国旗法が作られたとき、強制はしないという首相答弁があり、まだ遠慮深さというものがあった。
それも、たった15年の間に見事に変わった。
「口元チェック」など、「一体どこの国の話か?」と、国際的に考えても恥ずかしくなるが(日本は一応、民主主義国ですよね)、たいして問題にもされなかったようだ。

しきりに憲法改正をやりたがっている政治家がいて、そういう輩が出す案というのには「国歌、国旗を尊重する」という項目がわざわざ入っている。なぜかはわからないが、国歌国旗というものが、特別に大切なものらしい。
国歌や国旗を特別に大事と思っていない私などは、そのうち「非国民」ということになるのだろうか。
「尊重しないなら日本人やめろ」とか「イヤなら日本から出て行けば?」など言われるのだろうか。
たかだか15年前に作った国家国旗法案をふりかざし、これがいやなら教員をヤメロなどと言う人がいるのだから、まったくふざけた話だ。

もっとも、国旗や国旗に対する不思議な「執着」というのは、普遍的「常識」に含まれないからこそ、わざわざ法律で縛ろうとやっきになる人間が出てくるのかもしれない。
ということはつまり、私の方が「常識」がある、ということになるか・・。

えらい人たちが考えるところの「公教育(日本の教育)」から身を守るには(あるいは子供たちの身を守ってやるには)どうすればよいだろうとあれこれ考えるが、いい案は浮かばない。
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2011年を思う(2)教育 [教育]

教育については、ほとんど関心が向けられなかった年だった。
実際、それどころではなかったのだ。
あれだけの大災害に見舞われたのだから、被災者を救うことに国として全力をかたむけなければならないのは当然のことで、これまで大きく取り上げられていたこと、失業や派遣労働の問題、医療福祉の問題、そして子ども達の教育の問題は、かすんでしまった。

被災地の失業問題が非常に深刻に取り上げられるが、だからといって被災しなかった地域での失業問題がなくなったわけではない。自殺者も相変わらずの多さだ。
安心して穏やかに暮らせる社会、というのはますます遠ざかっている気がする。こういう社会において、教育はどういうものになっているのだろう。

大阪新市長は、某テレビ番組で「競争が大事、競争に打ち勝ったからこそ、あなたも私も今こうしてテレビに出演して話している」といきまいていた。「でも、競争に落ちこぼれてしまった人は、私は助けますよ。」などと言っている。
なるほど、よく頭と口が回る。競争第一を唱えるながら落ちこぼれのめんどうを見る、と言うのはまったく傲慢な態度で人をバカにしている。

私はこれまで大阪府元知事の言動を注目して見ていたことがない。どう見てもテレビ人気にあやかった政治家という感じだし、一度テレビ番組で、高校生相手に教育談義をやっていたのを見て、あぁ、この人は高校生にまともな説得力ある話すらできない人だな、と思った。
女子高生が私立高校の助成金を減らされたら困ると訴え、かの知事はただ「そう思うならアナタが大人になって政治家になってやって下さい。」と言い、その高校生は涙ぐんでいた。
こんな返答しかできない元知事が、なんだかテレビでもてはやされているようでやたら名前を聞き、うさんくさい名前の会を立ちあげたりしているようだったが、そういう情報は意識的にシャットアウトしていた。

教育に焦点が当たらなかった年だが、教育界は一体どうだったのだろうと思い返した。民主党政権には教育面で少しの期待もあったのだが・・失望感しかなかった。
そして話題になっている<維新の会>とやらの大阪府教育基本条例骨子を読んでみた。
きちんと読んだのは初めてだったが笑ってしまった。
ちょっと覚え書きとしてその骨子を書いておくと、

・知事が教育委員会と協議し教育目標を設定
・府立高全校長を公募
・3年連続定員割れの府立高は統廃合
・学力テストの学校別結果を公表
・保護者などの学校協議会が校長・教員を評価
・2年連続最低評価の教員は分限処分(免職を含む)

唖然とする内容だ。今になって唖然としている私は遅れているのだろうけど、最近はとにかくニュースをあまり見たくない新聞は読みたくない、状態だったので、今頃驚いている。すべての項目に唖然としてしまう。
これらすべての項目にいちいち意見を述べるのもばかばかしい。
ともかく言えるのは、教育の憲法と言われる教育基本法をまったく無視した内容だということだ。無視というより真逆の内容。

教育基本法は安倍政権で改悪されてしまい、もともとの基本法の精神に、それに反するような内容の項目を無理矢理につけ足してあるので、部分的に読み手が好きなように解釈できてしまう。
いたるところ矛盾があり、都合の良い所だけ使えばいいという感じで、おそろしくぶざまな基本法に変わってしまった。

大阪府教育基本条例は、おそらく《教育行政は、国と地方公共団体との適切な役割分担及び相互の協力の下、公正かつ適正に行われなければならない》という部分を念頭につくった骨子なのだろうが、この条項の最初には実は、
《教育は、不当な支配に服することなく、この法律及び他の法律の定めるところにより行われるべきものであり、》ときちんと書かれている。

「不当な支配」というのは戦時中、学校教育が国家権力によって徹底的に介入され利用されてきたことをあらわしている。「不当な支配に服することなく」というのは、そういう政治的な利用から教育は守られなければならないことを言っているのである。(現場の教員が「今の学校現場に、不当な支配をはね返す力は残っていない」と言っていた。)

また第二章には
第九条  法律に定める学校の教員は、自己の崇高な使命を深く自覚し、絶えず研究と修養に励み、その職責の遂行に努めなければならない。
2  前項の教員については、その使命と職責の重要性にかんがみ、その身分は尊重され、待遇の適正が期せられるとともに、養成と研修の充実が図られなければならない。

とある。
教員をお互いに競わせるなどという考えがどこから生まれるのか、まったく不思議である。

競争というなら、この住みにくい社会で、人々は否応なく、どっぷりと競争にまきこまれている。その競争は具体的にライバルや商売敵と行われることもあるが、もっと大きな組織、社会の枠組みと戦わなければ生き残っていけない。毎日が自分と戦ったり、世の中と戦ったり・・要するに「競争」している。

このような社会で、一体なぜ「競争」を強調しなければならないのか。また、する必要があるのか。
つまりは、うだつが上がらないのは競争に負けたからだという評価を与えることで、組織や社会の枠組みの欠点、不備をぼやけさせる魂胆ではないか。
大阪府教育基本条例には、それが丸見えで、こういうことをやらなければ、学校教育はうまくいきますよ、という見本みたいなものだ。

こういう競争奨励のようなものを、「なかなかいいんじゃない」と思ってしまう人が意外と多い。ダメな教員をあぶり出すのもおおいにけっこうと思ってしまう人がいる。こういう考えは、社会不安の原因を教育のせい(つまりは教員のせい)にしてしまうとすっきりするから生まれるのだろう。

「教育とは何か」など、一般の人はほとんど深く考えない。
それこそがプロの教員が真剣に取り組む問題なのである。
学校にも時には客観的にそこで行われている教育を見つめ直し、新風をふきこむことは必要かもしれない。しかし、日々膨大かつ細々とした仕事に追いまくられ毎日無給残業で疲れ果てている教員にはそれは大変難しいことだと思う。
だからと言って、シロウトのどこかの誰かさんがやれることではなく、それはプロの教員にしかできないのだ。
<教員の適正な待遇>、<養成と研修の充実>が教育基本法に記されているのはそのために他ならない。

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「日の丸・君が代通達」の判決 [教育]

都教委の「日の丸・君が代通達」に対して、都立学校の職員らが「思想・良心の自由を保障した憲法19条に反する」として義務はないことを求めた訴訟の控訴審で、東京高裁は、東京地裁判決(2006年9月)を取り消し訴えを全面的に退けた。結局都教職員側の逆転敗訴。

理由として(新聞記事では)「従来、全国の公立高校の式典で広く実施されている」、「教職員は地方公務員である」「『国旗掲揚・国歌斉唱を指導する』と規定した学習指導要領の存在」とあった。

某紙の記事に
<東京都教育委員会の通達などを「合憲」とした東京高裁判決は、国旗と国歌に対して国民が抱く、普通の感覚に沿って検討した様子がうかがえる。>とあったのには仰天した。

「普通の感覚」とは一体何か。
普通とは多数の人が同じように持つ感覚という意味だろうか?そうだとしたら多数とはどのくらいの人のことを言うのだろうか??
もし10人に一人が違う考えを持っているとしたら、その一人は「普通ではない人」ということになるのだろうか。

今どき、全体主義国家ではあるまいに、「歌を歌うときに起立しなければ罰を与える」という方がよっぽどグロテスクだと私は感じる。
もう世間では忘れられているかもしれないけど、国旗国歌法はほんの11年前に作られ、そのときの国会の首相(小渕恵三)答弁は「強制するものではない」というものだった。

また同某紙記事には
<東京高裁判決は国旗国歌について「入学式などの出席者にとって、通常想定されかつ期待されるもの」と生徒や親族の心情に理解を示し、「スポーツ観戦では自国ないし他国の国旗掲揚や国歌斉唱に、観衆が起立することは一般的」とするなど、国民が抱く当たり前の感覚に触れた。1審判決が国旗と国歌は「軍国主義思想の精神的支柱」と断じたこととは見解を異にする。>とあった。

確かにスポーツの試合などでみんなで君が代を歌っている光景をニュースで見たりするけれど、そこで起立しない人が罰せられるということはあり得ないでしょう。
なぜか・・「それは個人の勝手」だからです。
もちろん、スポーツ観戦と入学式や卒業式は違う。スポーツは「戦い」を昇華した形のものであると思うので、そこには国旗掲揚だの国歌斉唱など国家意識を鼓舞する状況が生まれやすい。(だから私はスポーツはあまり楽しめないのです)

では入学式や卒業式はどうか。子供が学ぶのは国家のためではありません。結果としてその子供が将来より良い社会を築く一員となることはあるかもしれませんが、まず本人のために学ぶのだと思います。自分がたまたま生まれた社会(国)のために学ぶのではない。そうなると学校の入学式や卒業式(個人の門出を祝う場で)で国旗国歌を、強制したらすごく変ではないでしょうか?
それを不思議と思わない人というのは、公教育を「子供に学ばせてやっている」という傲慢なとらえ方をしているとしか思えません。

<強制>はまったくおかしな話です。
誰だって自分が属する場、職場やサークルで、何らかの(たとえば歌)の強制があったら、ものすごく不愉快だと思います。
こういうときに「いやならやめろ」という人が必ずいる。もともと強制したりされたりするのが好きな人というのはどこにでもいるものです。一方、強制されることに反発する人もいるのです。
ちょっと前まで「反骨精神」という言葉があって、それは人間としてプラスの側面を表していましたが、最近はそうでもなくなってきたようです。

みんな同じでないとダメ。突出するのはダメ。
そういうのはすごく重苦しい雰囲気だと思うけど、逆に、それが好きという人のほうが多いようです。だからたまに誰かが違うことを言うと、「少数派がまた何か言ってらぁ〜」と軽蔑されたりして・・。

某紙記事の締めくくりの文は
<高裁の逆転判断は、一般感覚に則した妥当な判断といえそうだ。>というものでした。
なるほど、東京高裁も最高裁も「一般の人」「普通の人」の感覚に沿って物事を判断しているようです。裁判官なんてえらそうだけれど実は大したことないんだな、と思います。「普通の人」が判決を出してもあまり変わらないということになるでしょう。
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