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「花子とアン」にえがかれる戦争 [雑感]

第二次大戦の時代を背景にしたドラマは多いが、「純情きらり」は音楽家、画家への弾圧がえがかれていていい作品だと思った。
「花子とアン」も、やはり戦争が時代背景となっている。
いつも見ているわけではないが、135話、136話は、戦争に対して人々がどのような感情を持ち、どういう立場をとり、どう行動するかが、わかりやすく(誠実に)えがかれていた。
ドラマのセリフを拾い出すと、

<なぜ危険なことをするのか(反戦争という思想)、という花子の問いに、れんこが答える。>

れんこ
「(龍一さんは)間違ったことはしていない。誰よりも子ども達の将来を考えている。
だから今の国策にがまんができないの。

<花子はラジオの子供の新聞という番組の語り手をしているが、子供たちに楽しいお話を聞かせたいという思いはかなわず、戦争のニュースばかり伝えてことに悩んでいる。>

はなこ(ラジオで)
「みなさんは戦地の兵隊さんが安心して戦え、誉れの凱旋ができるよう、おうちのお手伝いをしてしっかりお勉強いたしましょう。」

れんこ
「まるで、みんながんばって強い兵隊になれと言っているように聞こえたわ。」
ーーー(あれは、といいかける花子)

「花子さんも誰かに読まされているんでしょう。
そうやって、戦争をしたくてたまらない人たちは国民を扇動しているのよ。
あなたは本当はどう思っているの。ラジオのマイクの前で、
日本軍がどこを攻撃したとか、占領したとか、そんなニュースばかり読んで、ああいうニュースを毎日毎日聞かされたら、純粋な子ども達はたちまち感化されてしまうわ。
お国のために命をささげるのは立派だと思ってしまう。」

はなこ
「私だって戦争のニュースばかり伝えたくない。
でも、こういうときだからこそ、子ども達の心を明るくしたいの。
私の『ごきげんよう』を待ってくれる子ども達がいるかぎり、私は語り手を続けるわ。」

れんこ
「そんなのは偽善よ。
やさしい言葉で語りかけて子ども達を怖ろしいところに導いているかもしれないのよ。」

はなこ
「私一人抵抗したところで世の中の流れを止めることなんかできないわ。大きな波がせまってきている。その波にのみこまれるかのりこえられるか、誰にもわからない。
私たちの想像を超えたはるかに大きな波なんですもの。私もすごく怖ろしい。
でもその波にさからったら今の暮らしも何もかも失ってしまう。大切な家族すら守れなくなるのよ。」

れんこ
「私は時代の波に平服したりしない。世の中がどこへ向かおうと言いたいことを言い、書きたいことを書くわ。」

「あなたのようにひきょうな生き方をしたくないの。」

はなこ
「私たち生きる道がちがってしまったわね。」


<この段階では、二人とも戦争に反対の気持ちを持ちながらも、その立場は微妙にずれ分かれることになる。その後、はなこはラジオの語り手を辞めるのだが>

一方で、戦争を賛美する声として

宇田川

「私はペン部隊の一員として、わが皇軍将兵の勇戦敢闘ぶりを、この目でしかと見てまいりました。
私は心の中で叫びました。『遠き故国日本の母よ、姉よ、かくまた恋人よ。あなたがたのいつくしんだ人たちは、今破竹の勢いで猛進撃を続けております。これをあなたがたがごらんになれば、きっと涙にむせびつつ、同時に誇らしく思われることでありましょう。』」


こういう意見の食い違いというのは、昔も今も、人間の間の超えられない溝のようなものを形づくっているような気がする。
花子、れんこ、宇田川に見られる三者三様の考え方は当時を代表するものだったのだろうと思うが、今でもさまざまな場面で見られるように思える。

そして「現代」の特徴を現すのは、このような考え方のさらにその上に「あらゆることにおいて目先の経済発展こそがなによりも優先」という考えが君臨していることだと思う。
それが今もっとも幅をきかせている考え、行動、であるならば、それに対抗するのは非常に難しい事だという気がしている。


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7月も終わり・・ [雑感]

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7月1日に「集団的自衛権」が閣議決定という事態になり、こういう状況はどうすれば変わるのだろうと、個人が考えてもどうしようもないことを考え落ち込んだりしているうちに、7月も終わってしまう。

6月28日の毎日新聞に「集団的自衛権」閣議決定に対する何らかの反対表明を出した地方自治体についての記事があった。6月28日の時点で137の市町村名が反対または慎重に、の立場をとり、137のうちの35市町村は長野県(私の出身地)で、長野県はなかなかがんばっているなと思った。その中でも生まれ故郷の市は「強く反対」を表明、と地方ニュースで報道され、ちょっとうれしかった。
7月になると反対する市町村はさらに増えたが、そんなことはお構いなしの閣議決定である。アベ内閣の支持率は下がりつつあるけれどまだまだ独走を止めることはできない。

なぜこんな独裁政治がまかり通るのか不思議なのだが、国会での答弁やテレビ番組のインタビューなどアベ首相や幹部らの発言を聞くと、明らかにある特徴がある。
どんな質問に対しても、<「集団的自衛権」によって戦争につき進むようなことは決してない>、<抑止力はこれによって高まりこれまでよりもっと安全になる>、の二つを、さも確信ありげに堂々と言い切っていること。

これを聞くと、いくらかの不安を感じた人も、そうか、まさか戦争になることはないだろう、と納得してしまう。
世論調査では、「集団的自衛権」の閣議決定に対しては、反対もしくは懐疑的という人の方が多いようだが、大方の人は(賛成派反対派ともに)、「まあ、すぐにどうこうならないだろう」「簡単に戦争になるということはあるまい」という楽観的気分が強いのではないだろうか。
政府の公報活動は巧みで、NHKも総力あげて政府の後押しをしているようだから、知らず知らずのうちに「今の時代は『集団的自衛権』も必要なのではないか」という考え(というより気分)が広がっていくのも無理はないと思う。
いろいろな場面で、自民党のいろいろな立場の人が世間に聞こえのいい言葉を無責任に発しているから、漠然と聞いていたら、問題点などさほどないように見える。

これまで65年間も戦争をしていないので「戦争」がどのように始まるものなのかを意識しない人も多いだろう。
「平和ぼけ」という言葉があるが、これまで平和を謳歌できたのはなんと言っても「平和憲法」のおかげだと言える。
それが「平和憲法」の実績というものだ。

「集団的自衛権」がこれからどういうことをもたらすのかの十分な検証・国民的論議もないまま、これまでの「平和憲法」の実績をまったく無視して、別の方向に無理矢理に舵取りしようとする内閣はまったく信用に値しない。

国民の安全や暮らしを守る、と言いながら、いまだ福島原発事故は収束もできないまま、これまで自民党が推し進めてきた原発の事故の責任も取らず(あやまってもいないのではないか)、まだ原発を経済政策の一つとして捨てようとはしない政府。

集団的自衛権の閣議決定の次は、実力行使による沖縄辺野古への基地移設。
貴重な生物の宝庫である辺野古の海を平気で破壊し、その理由は「危険な普天間基地を一刻も早く他に移すことが重要だ」と強調するばかりで、なぜ同じ沖縄県内に移設なのか、なぜ新たな環境破壊までして辺野古に基地を移すのか、については一言も答えず知らん顔だ。

誰がどうみたってひどすぎる話だ。
それなのにその暴走をとめられない、というのはどうしてなのだろう。
こういうことをずっと考えくよくよしていた7月だった。


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「集団的自衛権」がわからない [社会]

「集団的自衛権」という言葉にはほとほとうんざりでイヤになってしまう。
「集団的」という言葉は日本語の使い方としてどこか妙で、しかも「自衛権」というものが私にはよくわからない。国際法上で認められている権利であっても、「自衛」がそもそも具体的に何をすることなのかがわからない。

よく「泥棒が入ったらどうするのだ、入らないようにするだろう」「家族が殺されそうになったらどうするのか、ただ見ているのか」などと、飛躍した言い方をする人がいる。
泥棒が入らないように鍵をかけたり、留守にする時ちょっと近所に伝えておくなどの気を配ることと、国家の自衛、とはあまりにもかけはなれている。

国家などという大きな単位を守るとはどういうことになるのだろう。

世界には、法の裁きによる「死刑」を廃止している国がたくさんある。
人が人を殺してはならない、ということを前提にしているからこそ「死刑廃止」ということを国として法で定めることもできるのだ。

もちろん「正当防衛」というのはどんな場合にも起こりうることだ。でもそれは個人の場合であって、「国」という集合体は、別の次元であり、どう考えてもあてはまらない。
ベトナムと中国の関係悪化で、ベトナムでは反中デモが起き、その暴動で中国人2名の死者、多数の負傷者が出るいう事件があった。こういう場合、「家族が殺されるのを見ているのか」と言うような人は、中国人は同じ人数のベトナム人を殺し負傷させよ、というのだろうか?

軍隊を使って国を守るやり方=「自衛権」というものがわからない。
「外国から攻撃を受けたときにどうするのか」という人がいるが、「人間はむやみやたらに他人を攻撃したり、殺したりしない」ということが、今の人間社会の大前提になっているのではないだろうか。(もちろん、それからはずれてしまう悲しい出来事も多いことは確かだが。)

その大前提を捨てて「こんなことが起きると困るでしょ」「こいうときにこういう備えが必要ですよ」と盛んに主張しているのが安倍政権だ。

「自衛」とは、自分の国が外国人に殺されたら、同じ人数だけ、あるいはもっと多くの人を殺してやる、という態度をみせることですか?(軍隊というのはそういうことをするところでしょう。)
その場合、攻撃した国の人なら誰を殺すのでもかまわないのですか?

「やられっぱなしでいいのか!」といきまく人も多くいるが、暴力を暴力で抑えるという単純なやり方で、大きな集団である国と国の関係が修正できる、と本当に考えているのだろうか。

「平和」について特に大げさに叫ばなくても、私たちは、回りの人間が「平和に暮らしたい」という気持ちを持っていることを、当たり前のように信じて生きている。
人はケンカするより仲良くする方を好む、と思っているからこそ一緒の場所で生活できる。そうでなかったらとても人間の中で生きてはいけない。どこか人間のいない島にでも行って住まないことには・・。

私にはやはり「自衛」の意味がわからない。
そして、そこに「集団的」というさらにあいまいな言葉を付け加えるから、昔風に言うと「グレン隊」みたいなものをつくろうとしているように思える。

「そういうことをしたい(武力で他国を脅したい)」と想像したり空想したりするのは勝手だが、他人をまきこまないでね、と言いたい。

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「大飯原発差し止め判決」について [社会]

福井地裁「大飯原発差し止め判決(5月21日)」については、
朝日テレビの『報道ステーション』(たまたま見たのだが)がとてもわかりやすくインパクトがあった。新聞を読んだり、ましてや長い判決文を読む余裕がない人にとっては、やはりテレビ報道は大事な情報源になる。(大抵は弊害の方が大きいと思うれど・・)


以下、報道ステーションの内容。

大飯原発の3,4号機は、東日本大震災後、唯一再活動した原発で、現在は点検のため休止中。189人の住民が「耐震安全が保障されていない。運転を見合わせるよう求める」と裁判を起こした。
福井地裁は、原告の(250km圏内の住民166人について)「原発運転差し止め要求」を認めた。これは東日本大震災後初の「原発運転差し止め判決」だった。

判決

(主文)

<被告(関西電力)は、大飯発電所3号機及び4号機の原子炉を運転してはならない。>

(理由)

<生存を基礎とする人格権がすべての法分野において、最高の価値を持つとされている以上、人格権は憲法上の権利であり、我が国の法制下でこれを越える価値を他に見いだすことはできない。
人格権そのものに基づいて 具体的危険性が万が一でもあれば その差し止めが認められるのは当然である。>


(裁判所の判断について)

<福島原発事故の後においてこの判断を避けることは、裁判所に課された最も重要な責務を放棄するに等しいものと考えられる。>

<原子力規制委員会の新規制基準の適合性という観点からではなく、原子力発電所に求められるべき安全性に基づく裁判所の判断が及ぼされることになる。>

そして、 原告住民らが訴えた『耐震安全性が保障されていない』という訴えについて、大飯原発は " 原子炉を冷やす機能・閉じこめる構造 " に欠陥がある」と指摘した。
関西電力が新たに想定した地震の揺れは856ガル(ガル:揺れの加速度を示す単位)だが、裁判所は「その数値は信頼に値しない」とした。


<全国20カ所にも満たない原発のうち、4つの原発に5回にわたり、想定を越える地震が10年足らずの間に到来している。地震という自然の前における人間の能力の限界を示すものというしかない。関西電力の地震想定だけが信頼に値するという根拠は見いだせない。>


また「関電の想定」を下回る地震が起きたとしても、福島の事故と同様の " 不測の事態 " が想定される、と指摘している。

不測の事態として
*地震による段差で電源車が動かせず
*非常用水路の発電機が稼働できず
*電源・冷却水の喪失

など、事例は多岐に及ぶ 。


(作業員について)

<事態が深刻であれば深刻であるほど、混乱と焦燥の中で 適切かつ迅速に措置をとることを 原子力発電所の従業員に求めることはできない。>

(福島原発の事故原因について)  

<国会事故調査委員会は 津波の到来の前に 外部電源の他にも地震によって事故と直結する損傷が生じていた疑いがある旨指摘しているものの 地震がいかなる箇所に どのような損傷をもたらしたかの確定については至っていない。また その原因を将来確定できるという保証はない。>

(関西電力が主張した『経済性』について)

<大飯原発の運転停止によって多額の貿易赤字が出るとしても、これを国富の流失や喪失というべきではなく、豊かな国土とそこに国民が根を下ろして生活していることが国富であり、これを取り戻すことが出来なくなることが 国富の喪失であると裁判所は考えている。>

福井地方裁判所民事第2部

 裁判長裁判官 樋口英明

    裁判官 石田明彦

    裁判官 三宅由子



久しぶりにきちんとした日本語を聞いた気がした。
正しいことを述べた言葉というのは、美しいし感動するものだ。
いつものごとく、翌日にはもう別のニュースが流れてたが、福井地裁のこの判決はしっかり記憶にとどめておかなければ、と思う。
それにひきかえ、「国民の生活・安全を守る」を大きく唱えて、武力抗争の怖れのある方向へ国民を導こうとしている政府の詭弁・矛盾は、あまりにもひどすぎる。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
一応、判決に対して責任ある立場にある人たちのコメントを記しておきます。

中塚町長;
現時点で新規制基準にもとづく審査が規制委員会のほうでなされているので、そこをまたしっかりと注視する

田中俊一委員長(原子力規制委員会 );
我々は我々の考え方での適合性審査をしていくことになろうかと思います。


管 義偉 官房長官;(今日の判決を受けて政府の判断は変わるのかという問いに)
そこは全くかわりません。あくまでも安全を客観的に(規制委員会に)判断してもらったうえで再稼働する。そういうことは私は正しいと思っています。


山本 拓 会長(自民党エネルギー戦略調査会);
もう一度裁判所で上級審で審判を仰ぐべきだと思っています。

関西電力;
すみやかに控訴の手続きを行い ひき続き大飯原発3,4号機の安全性について主張していきたい。


どなたも、裁判の判決など意にも介さないという態度でした。

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「生活格差」 [社会]

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ある言葉が世間に定着すると、もうその言葉は「驚き」でも「衝撃」でも「嘆き」でもなくなってしまう。
「格差社会」という言葉を聞いても使われ始めた頃よりインパクトがかなり薄れてしまったような気がする。事態が深刻化しているのにもかかわらず、だ。
もちろん、「格差社会についてどう思うか」と聞かれれば、「それは良くない」「底辺の人々の暮らしをこのままにしておいて良いはずがない」と多くの人は言うだろう。
でも、その反応力は明らかに鈍ってしまってきているように感じる。
次々に考えなければならないことが押し寄せてくると、払いのけたり、戦ったりする意欲が減退していく。
あきらめと無気力が生まれてしまう。

今は、貧富の差が大きく開いてしまいその溝が広がるばかりの社会だ。
それは誰もがわかっていることだけれど、お金があるかどうかで、一体、何がどう違ってくるのか、もっと具体的に意識する必要があるような気がする。
失業や住む場所もなくなってしまうことは最も深刻な例だが、その一歩か二歩あるいは三歩手前にいる一般的庶民の大多数の人たちの生活に関しては、失業者に比べればまだましということなのか、その問題点があまり話題になっていないように思われる。


立派な家、美味しい食べ物、高級な車や家具・・・こういったものは、実際、たいした問題ではない。「お金なんかなくても・・」「貧しくても家族健康で仲良く暮らせれば・・」という考え方もかろうじて生き残っている。
何も物がなかった時代の記憶というのはまだ受け継がれているし、厳しい生活に人は何とか耐えられるものだ、ということも、みんな知っている。


だが、そういう考え方が通用するには、皆が皆、同じような状態であることとか、やがて暮らしはもっと豊かになるという予感を誰もが持っていることが必要だ。
そして回りの人たちと互いに助け合う習慣というのも・・。
戦後の経済成長期と今では、そこが根本的に違っている。

いずれにしても、(お金で買える)物の裕福さは本当はたいした問題ではない。
「物」を持っても持たなくてもそれはたいしたことではい。

一番の問題は、お金がないことによって、時間や希望や気力がなくなってしまうことだ。

毎日夜遅くまでめいっぱい働き、家に帰ったら疲れ果てて寝るだけ。
週に1,2回の休みはあっても、疲れ果てているから、掃除をするのがやっと(しない人もいる?)。本を読んだり音楽を聴いたり運動したりなど面倒くさくてとてもできない。
寝てぼんやりテレビを見て、せいぜい車でショッピングモールに出かけるだけ。

旅行に行ってのんびり身体と心を休めるというようなことをするには、休みも足りずお金もまったく足りない・・こういう人はとても多いと思う。
疲れていると、家族で楽しくなどということにはならない。(むしろいがみ合いが多くなるだろう。)「つましくとも楽しいわが家」などというものはめったに存在しないのだ。

一方で、バリバリ仕事をし、日々身体を鍛え、いくつかの趣味を持ち、一週間かそこいらの休みを年に数回は取ってヴァカンスを楽しむ・・・こういう生活ができる人がいる。

「あまりに違いすぎないか」と感じるのである。

こういう「生活格差」のことをもっと考えるべきだ。
仕事は5時、6時には必ず終わり、家でゆったりでき、休みの日には何かやってみようか、という気持ちになれる生活。
そしてたまに一週間ほどの休みが取れ(混みあう盆や正月、ゴールデンウィークではなく)、家でのんびりするのもいいし、ゆったり旅行でもして、自然の景観を見たり知らない街の暮らしを見たり。本当にたまにおいしい物を食べたりする。

こういうことができるなら、毎日の暮らしがつましくてもがまんができる。仕事内容がつまらなくてもがまんする。着る物や贅沢品にはお金をかけず日々の食事も質素でかまわない・・と私は思う。

「生活の質」というのはものすごく大事なのだ。
一回かぎりの人生なのだから。

そうして、「生活の質」が一定レベルであるためには、労働時間が多くてはだめだし、最低賃金が低くてはだめなのである。

テレビ番組に出ている人、報道にかかわる人や解説したりしている人達は、生活レヴェルが高い人ばかりなのではないだろうか。それを生活レヴェルが低い人がぼんやり毎日ながめているって、すごく変だなあ(哀しいなあ)、と思う。

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桜のシーズン [雑感]

IMG_1779.JPG葛西用水
川沿いの桜並木は相変わらず立派。

桜というのはなぜか胸をざわざわさせるところがある。
見慣れた変哲もない日常風景の中に、突然わぁっと桜が咲く。
そこだけがあまりにも華やかで回りの景色とそぐわない感じで落ち着かない。
それも10日ばかりの短さで消えてしまうので、何かせかされるような気分になる。

子供の頃の田舎での桜はそうではなかった。
桜が咲くと、家族親戚連れだって、近くの「東山」という山に出かけた。
やっと雪が溶け山に遊びに行ける暖かさになった、ということの象徴が桜だった。
山の中で見る桜は他の木々に混じって柔らかな美しさだった。
相撲の土俵があり素人相撲大会が行われた。土俵の回りは山の斜面を利用してすり鉢のような観客席がうまくできていた。気をつけないと下にすべり落ちてしまうのだった。
立派な茶店が出て、花見のときだけ売られていた揚げ(天ぷら)まんじゅうがあり、一年に一回だけ食べることができた。

花見は山でするもの、と思っていたので、東京に住むようになったとき、町中での花見には本当にびっくりした。
こんな家やビルなどに囲まれた場所で花見?という感じで興ざめだった。
もう慣れたけど、晴れ晴れと桜を楽しむことはなくなった。
写真を撮ろうとすると後ろの建物や家や何かの看板や電線がじゃまになる。
切り取ったようにそこだけが美しいというのはもの哀しさがある。

今年は好天続きのせいで、どこに行っても桜が目についた。
ソメイヨシノは咲く時期も咲きっぷりも同じなのであちこちで目にしているうちに何だか疲れてくる。

桜もだんだん散りかけてきて新葉の茶色とまざり汚れて見えるようになってきた。花が全部散って若葉が出そろうと、すっきりと淡い緑色になりまたきれいになる。

IMG_1774.JPG近くの公園
4月6日、まだがんばって咲いている。

IMG_1785.JPGサギの花
桜の木で寝るサギたち。綿アメのよう。いつも8羽くらいいる。

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スポーツについて [雑感]

サッカーのJリーグの浦和レッズの試合で、一部のサッカーファンによって「JAPNESE ONLY」と書かれた横断幕が掲げられ、そのまま試合が行われるという事件があった。その差別行為(差別的ではなく差別でしょう)の罰として観客なしの試合(3月23日)が行われたというニュースがあった。
新聞で、がらんとした球技場の写真を見てさっぱりしたな、と思った。
はっきりとペナルティを与えることで、「差別を断じて許さない」というメッセージをきちんと伝えることができたので良かったと思う。

ネット上で、横断幕がなぜいけないのか、そんなに大騒ぎすることか・・などの考えを目にした。
「Japanese Only という言葉は大きな差別だ」という非常に基本的なことから議論を始めなければならないとしたら大変なことだ。今の日本はそんなに大変な状況になっているのだろうか。

ネットは、他者を「攻撃」「軽蔑」「差別」するのに手軽なようだ。
人の心の中にあるイヤな部分、よく考えれば言葉にするのを自制するような考えや気持ちを、軽い調子で(2,3行の文で)ポンポン出している風に見える。
そして、それに対して同じような意見が手軽に寄せられ、安心感と共に、ある種の世界を作ってしまうのではないか。
攻撃的、差別的な者同士、まとまりやすくなったのだと思う。

これまでの人類の長い歴史を見れば、いさかいや戦争がずっと続いてきていて、もしかしたらそれが人間の性かと思ったりする。だとすれば、その性に逆らって「平和」を目指すことにはかなり高度なテクニックが必要だということだ。
短い軽い言葉では、とても「平和」については語ることはできない。


また今回の問題は国際サッカー連盟が控えているからきちんとした対応がなされたのでは、という気もする。日本国内だけの問題だったなら、どうなったかわからない。
一般の人々ではなく国民の代表である政治家が差別発言をしても、すんなり通ってしまう国である。普通の人が「このくらいどうってことない」と差別行為をしても不思議はないと思う。

さて、サッカーの試合のニュースを目にする度に、どうも「ああ、サッカーってイヤだな〜」と感じてしまう。何がイヤと言って、あの大げさな熱狂的応援ががまんできない。
応援席で知らない者同士、大声で叫び一体となって(?)応援している様子がたまらなくイヤなのである。感動を大勢で分かち合うのが最高だと思う人もいるだろうが、私はダメ。(子供の頃のサッカー遊びは楽しかったですよ。)

みんなで盛り上がることにも節度ある規模というものが必要なんじゃないかと思う。町内会くらいの規模とか・・。

サッカーだけではない。
ほとんどのスポーツは、多かれ少なかれ見たくない部分がある。
「体育会系」という言葉があったが、私はそれがそもそもすごく嫌いで、自然とスポーツは見なくなってしまった。
本当にそのスポーツが好きな人ならば、多少の難点があっても楽しもうとするのだろうけど。

オリンピックなどはスポーツにつきものの問題点に加えて、国の威信をかけたり、メダル争いばかり強調する報道だったり、政治利用されたり・・と、あまりに問題が多いため、オリンピックアレルギーを持ってしまうほどだ。
この間のソチ・オリンピックは、2020年のオリンピック東京誘致の問題も重なり、ほとんど見なかったという知人がけっこういた。

私は珍しく今回はちょっと見た。たまたま最初に見たのが「スキーの滑降」で圧倒的な迫力に目を奪われた。それからスノーボード。これまでオリンピック観戦をあまりしていなかったから、見たことのない競技ばかりで面白く、その技に恐れ入り「人間はすごいことができるんだな〜」と感嘆しながら見た。
そういう話を回りにしても見ていない人が多いので張り合いがなかった。あんなにすごい技を見ないなんて、なんだかもったいないような気もした。
(私は2020年のオリンピック東京誘致には反対で、オリンピックそのものにも賛成できないことの方が多いと感じていますが。)

スポーツ一つ楽しむにも、複雑な感情があって簡単なことではないようだ。

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街中の鳥たち 〜 ヒドリガモ、キンクロハジロ、ハシビロガモ、コガモ、バン、マガモ 〜 [環境・自然]

そうか公園 (2014年2月23日)

春が来て渡り鳥がシベリアに帰ってしまう前に見ておこうと、そうか公園に行ってみた。お馴染みの水鳥で賑わっている池を見て嬉しくなった。
種類は、オナガガモ、ヒドリガモ、キンクロハジロ、バン、ハシビロガモ、マガモ?など・・みんな揃っている。

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夕暮れになって
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これだけいると壮観である。
オナガガモは優美な首と長い尾がきれい。
ヒドリガモは白い筋のあるおでこが丸くてチャーミング、鳴き声もピーヨピーヨと可愛い。
キンクロハジロは白と黒の模様が芸術的で頭の後ろに下がっている毛(冠毛)が可愛い。ハシビロガモは幅のひろいグレイのクチバシが特徴。
マガモは一回り大きく威厳がある。(アイガモとの区別がちょっとむずかしい)

そうか公園はよく管理が行き届いている、という感じがした。
ここの人工池は広々していて、これだけカモ類がたくさん集まってもまったく何ほどのこともない。餌をあげている人がけっこういて、カモたちは人の仕草を見て、サーッとその方角に移動していた。
給餌によってカモがたくさん集まると池の水質が悪くなるという理由で、「餌やりは禁止」という所も多いが、ここはそういう心配はなさそうだ。
「餌やり禁止」は、水質が悪くなるという理由の他に、同種の鳥ばかりが増えるという危惧があげられているが、このそうか公園にいるカモたちの数が生態系に影響を及ぼすとはとても考えられない。もともと回りの川とか池とかが人間の都合でどんどん狭まり人工的になったりで鳥が住めなくなってきたのだ。

その土地に生存していなかった外来種を持ち込むのは困るが、昔から渡って来ていた鳥たちである。
人と動物の関係は、むやみに動物を捕らえ殺して絶滅の危機に追いやってきたことが問題なのであって、鳥に餌をやったからといって何かが大きく変わるとも思えない。

野生動物との関わり方にはいろいろむずかしい点もあるが、まず仲良くならないことには、動物を保護しようという気持ちも育たないだろう。
例えば、ハトは糞害とかで嫌われるようだが、人とすぐ仲良くなれる素質を持った鳥を遠ざけることによって、「鳥が怖い」という子供がずいぶん増えてしまっている感じがする。
ハトが10羽くらいいるだけで立ちすくんでしまう小学生、中学生がいてびっくりした。見ると手を目にかざし群れの中を走って通りすぎていく。
目をつつかれると思うのだろうか。鳥はむやみに人をつついたりはしない。手から餌をついばむときは夢中になって手をつつくこともあるけれど。

生態系保護のため鳥に餌をやらないように、ということが最近言われようになっているが、本当はそのかけ声は、鳥嫌いの人たちから発せられているのでは?と思ってしまう。今大事なのはこの地球に住むのは人間ばかりではない、ということを知ることで、そういうことは教科書の中で学ぶのではなく、実際に動物を間近に見たり触ったりするのが一番だと思う。

ハトの天敵はカラスや猫なのだが、カラスはどうにもできず、野良猫は人間が街から占めだしてしまった。
野良猫がのんびり外を歩いている国がとてもうらやましい。

ここに来ている冬鳥はみな元気で幸せそうに見えた。
放射能汚染されてしまった場所にも渡っている鳥がたくさんいるだろう。動物は何もわからずこれまで通り、そしてこれからもずっと同じ場所に来るのだろうと思うと哀しい。


そうか公園に近い葛西用水は工事で川をせき止めていて、緑色のペンキを流したみたいにきたなかったが、ちゃんと水鳥はいた。(川をあまり人工的に作ってほしくない。どこかの親水公園みたいに。一体どういう工事だろう・・?)
ここには、コガモがいた。写真はうまく撮れなかった。
IMG_1612.JPG葛西用水(2月22日)


(付け加え)

コブハクチョウ(栃木県小山市大沼 2月26日)
IMG_1701.JPG
岸に上がっているところ。すぐ近くで見たのですがかなりの迫力がありました。まさに「白鳥の湖」。この貫禄、曲線の美しさにはまいりました。
IMG_1702.JPG子供の白鳥
IMG_1703.JPGお母さん白鳥

お母さん白鳥には近づいたら怒られてしまいました。シューッという鳴き声を出し、大きな羽をばしっとたたきつけるような仕草。
「ごめんなさい」とあわてて引き下がりました。子育て中の親鳥は神経質なので近づかない方がいいようです。(といっても子供はかなり大きいんだけど・・)
大きな翼の一撃で骨折するほどのケガを負うこともあるという。翼の一撃で湖に倒れたところを上から水の中に押さえ込まれるなんてイヤです。

コブハクチョウはヨーロッパに住んでいたものが人に飼われ野生化したと言われています。つまり外来種。日本では北海道で繁殖し、冬にこのあたりに来るそうです。

IMG_1700.JPG立派な鳥でした!

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街中の鳥たち 〜 オナガガモ、サギ、鳩、アオクビアヒル 〜 [環境・自然]

近くの貯水池
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冬になると近所の小さな貯水池にも、毎年オナガガモがやって来る。
埼玉県南西部の川では、オナガガモ、ヒドリガモ、コガモ、バン、キンクロハジロ、マガモまで、けっこうたくさん見られたけれど、今はどうなのだろう?
歩いてすぐの狭い貯水池でオナガガモの姿を見られるだけでもよしとしないと。

カモの中では私はこのオナガガモが一番好きだ。
首の白い模様がなんとも優美で、ほっそりした首を長く見せ、グレーと茶色の羽がとてもきれいだ。大きさはカルガモより少し小さい。

この2,3年、池のオナガガモの数が減ってきた。
以前は6〜9羽来ていたのに、最近は2〜3羽になり、それもこの冬は来るのが遅く一月になってやっと、良い場所が見つからなくてしぶしぶ、という感じでオスが2羽やってきた。(以前は12月には姿を見せていた。)
それからしばらくして別のオス1羽が加わったが、そのうちに最初の2羽は姿が見えなくなった。
今は1羽だけで、池の主の4羽のアオクビアヒル(2組のつがい)に遠慮しながら暮らしている。(オナガガモは『危急種』で数が減っているらしい)

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どんどん住宅が建っているおかげでそれまで姿を見せなかったサギたちもこんな所にまで脚を伸ばしている。
シラサギの方は夜になると近くの川岸にある桜の木に止まって寝ている。はじめてこの光景を見たときはびっくりした。
夜、交差点わきの川沿いの木に、大きな綿アメのようなものがいくつもぶら下がっているように見えた。よ〜く見るとサギだった。

まるでサギの花。

大きな真っ白な花が咲いているようで、この風景を見るのはいつも楽しみである。最近は7〜8羽のサギがいる。去年はもっと多かった。

桜が満開になったときに見に行ったら、白い桜に埋もれてやはりサギは大輪のようにそこにいてきれいだった。交差点だけど、気が付く人はあまりいないのではないかと思う。



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さて、やっとオナガガモが来てくれたので嬉しくてパンくずをやってみた。
パンくずをやっていると、鳩もやって来た。
6羽から20羽ぐらいの群れで、どこからともなくやって来る。
鳩は2日くらいで手から食べるようになり、
5回目くらいになると手に止まり、6回目には頭やら背中にまで止まるようになってしまった。そして人の身体の上でつつき合ってケンカしている。

鳥の記憶力というのはあなどれない。
池に毎日行くわけでもないけれど、一週間ぶりに行ってもちゃんと覚えている。
鳩が私の回りに来ると、その回りにはスズメたちが2mくらいはなれて半円になりジッとおこぼれを待っている。
ヒヨドリもやってきて、ムクドリも来て、セキレイも見に来る。
カラスも来るけれど、さすがにこの鳥たちの集団の騒ぎには怖れをなして、近づいて来ない。
ヒヨドリはピーヨピーヨ、とやかましいだけの鳥、と思っていたが、近くで見ると意外にきれいな緑灰色をしている。フライングキャッチの名人でパンを投げると空中でサッとくわえてしまう。
IMG_1588.JPGヒヨドリ

鳩が私の回りに平気で集まるうちにヒヨドリもスズメもすごく近くに寄って来るようになった。そのうち手から餌を食べるようになるかも。
そう言えば、用心深いスズメもロンドンでは人の手から餌をもらっていた。住む場所で鳥の性格も変わるのかな。


最後にこの小さな貯水池の主、アオクビアヒルのこと。
IMG_1594.JPGアオクビアヒル

一年中そこにいるので珍しくもなく気にもしていなかったが、時々餌をやっている人の姿を見かける。
この子たちも大変かしこく、4羽で横に一列に並んでパンくずを待つ。
私が、「モルテン!」とか「アヒル君!」とか呼びながら、順番にパンくずを配っていると、次の番のアヒルは「今度ボクでしょ。」と首を伸ばし、尾を振って、まるで飛び上がろうと羽を動かしたりするので、とても可愛いく思えてきた。
餌をくれる人の車の音もちゃんと覚えていて、その車が駐車すると騒ぎ立てて喜ぶ。

眠れない憂うつな夜、近くであの子達も眠っているんだな、と思うと、ちょっと慰められるのです。

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都知事選の結果 [雑感]

都知事選は心配していた通りの結果に・・。
せっかくの「脱原発」へのチャンスがまた消えて、さらに後退した感じ。
投票率が46.14%と低かったのは選挙に何かを期待する人が少なかった、ということでしょうか。

得票を見ると、都民(有権者)の5人のうち1人が原発推進に積極的に賛成、ということになります。
そして、福島は安全、核燃料の処理も何も困る問題はなく、今後も原発を使い続けていって大丈夫だ、などと演説していた人を支持したのは、都民の17人に1人!
これはかなり厳しい状況です。

こういう状況を、自分には関係がないと言ってすませられるならいいけれど、
これから自分が直面しなければならない現実に大きく関わってくるから困るのです。


都知事選の前日に大雪が降って、いろんなものがキャンセルになり、家でオリンピックの開会式を観ました。(全部ではないけれど)
スポーツにはほとんど興味がないのでオリンピックもあまり観ませんが、雪景色に誘われて、夏より冬のオリンピックの方が親しみやすい感じです。

ソチオリンピックの開会式はちょっと見てみようかな、と思いました。
何と言っても開催国はロシア。クラシックバレエの本家です。アトラクションの音楽や踊りがどんなものか楽しみでした。

選手入場はいろんな国の人々が、みんな楽しそうに笑顔でいるのに妙に感心して、
でも、そういう笑顔の人たちに、「原発問題についてどう思いますか」とか質問したら、どんな答えが返ってくるのかな・・?などとつい考えてしまうのが、自分でも情けない・・。

アトラクションは「ロシアの夢」という、ロシアの国の歴史を物語にしたものという説明を聞いて、意外に思いました。国の歴史などというものを物語にして音楽やバレエで表現などできるのだろうか?!(そんなことをよく思いついたものだ)とちょっとびっくり。

さて、演じられた映像と音楽とバレエの世界はとても美しく、ああ、なるほど、こういう風にまとめるのか・・と思いました。
人間の世の、醜いところや悲惨な所はカットして、きれいな部分(悲しい部分もちょっぴり入れて)だけを、大ざっぱに掬い取ってまとめるとこんな風なメルヘンみたいな感じになるんだな〜、と思いました。
ロシアには偉大な芸術家や文豪がたくさんいるので、メルヘンにもある重しがかかって、立派な作品にまとまっていました。


国の歴史や、様々な出来事は、どういう風に捉えるか、によってまったく異なる風景が見えてしまいます。
大変な面というのは、見ないようにするとか、忘れてしまうとかし、良い部分だけを見ていた方が精神衛生的にも良さそうです。

でも、精神的には楽かもしれないけれど、現実というものは消えないわけで、いつどんな形で自分の身に降りかかってくるかわからない。
現に今、災難が降りかかってしまっている人たちのことを放っておいて「景気」のことばかり口にしていていいのか、と思います。

何が「景気」なのか、よくわかりませんが、
生活のレベルをほんの少し下げればすむことも、たくさんあるのではないかと思います。

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都知事選について [社会]

今回の都知事選は、「原発」か「脱原発」かが争点になっている。
都知事選の意義は大きい。

それにしても、福島原発の事故がそのまま放置されて(解決法が見つからないのだろう)いるような状況で、<「原発」か「反原発」か>が、<「景気」か「反原発」か>という言葉に簡単に置き換えられて考えられてしまうようになったのがとても不思議である。
「景気のためには原発も受け入れざるを得ない」という考え方は、つきつめれば「命より金」という発想なのだが、つきつめないで中間当たりにいたい、というのが日本人的な考え方の特徴のような気がする。
「原発はいずれなくす方向で・・、しばらくは原発利用を続けながら一方で自然エネルギーの開発もして・・」という、もっともらしい考え方。

こういう、中間的な立場にいたいという考え方は、当分は自分が安全な場所にいる、という見込みがあるからである。自分が危険な場所に立っていたら、「中間」なんてものはふっとんでしまう。

TV討論会で、福島は危険なことは何もなく、全てが風評である・・と、めちゃくちゃなことを主張している候補者がいたが、こういうことを平然と演説するのが目的で立候補したのだろうな、と思った。

そういう見方をすると、細川・小泉が都知事選で「脱原発」を政策の最優先課題に掲げて声を上げたことは、大きなことだったかもしれない。
真面目に、「福祉」や「貧困問題」と同列に「反原発」を掲げても、それだけでは、今の日本では「原発」に焦点など当たらなかっただろうという気がする。
「脱原発」を訴える人は多ければ多いほどいい。


いよいよ選挙活動が始まって、「脱原発」で候補者統一できないだろうか、と知識人や著名人の運動があって、昨日の毎日新聞の夕刊にもそのニュースが載っていた。

都民ではないけれど、2007年の都知事選のときも、心配で胃が痛くなった。
あのときの都知事選では、現職知事の再選を止めるために、現職知事に対抗する候補者を何とか一本化できないかという話が盛んに行われていた。

候補者を統一する、というのは選挙に勝つためには絶対に必要なことだと思うけれど、そうはならなかった。個人の意思だけで選挙活動が行われるわけではないので、そういう方向になるには選挙のかなり前の段階でなければむずかしいだろう。
だが、「原発を止める」というのは、「国民の命を守る」という根源的な課題だ。
他の点での政策の違いなどと並べようもない問題だ。


統一候補はならなかったが、「原発をすぐに廃止」してほしい私は、何とか「脱(反)原発派」に勝ってほしい。
もし、負けるとしても、「脱原発」を主張する候補者(複数)への投票数が、「原発OK派」の得票票を上回ってほしい、と願っている。


「東京」という世界の大都市の知事選の行方は、日本だけではなく世界においても大きな意味を持つことになるのではないか、と思う。

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雪景色〜2014年1月 [雑感]

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雪景色というのは毎日見ても飽きない。
山では毎日少しずつ雪が降るのでいつもきれいなままの状態が続く。

こういうきれいな景色を毎日眺めていたら、人の精神にも何かしら影響があるのではないかと思ったりする。
寒さの厳しさは、雪の中だとさほど気にならない。
晴れていると、目にしみるような青空、真っ白な雪、黒々とした冬の木々、というものに囲まれ、うきうきしてくる。

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夕方には、夕陽が青と白と黒の世界をピンクやオレンジ色に染めて、もったいないような色合いになる。

そういう日の夜は、満天の星。
何分間、寒さをがまんできるかな、と思いながら、びりびりした空気の中で空を見上げる。
視界はところどころ林の木々に遮られるが、ほんの少し歩き回ると、地平線上のほとんどの星を見ることができる。

気温は、というとマイナス13度位・・たいしたことないな、と思う。
むしろ、この星空をマイナス13度で見られるなんて贅沢な気がする。

寒い場所での生活は、雪景色や星空を思う存分楽しめるということだ。
長野県は長寿だというけれど、きれいなものを日常見ているというのは大きなことではないか、という気がする。

やっかいなのは雪だけれど、
主要道路は除雪車がきれいにしてくれる。
大雪のときなど、明け方の3時すぎには、除雪車のゴーッという音が聞こえ出す。
たいていの家は小さな除雪機で自分の家回りの雪かきをしている。

ずっとそこで暮らしていれば毎日雪かきはできるけれど、2週間とか、3週間とか、間があいてしまうと、雪かきも大変な作業になる。
雪かきというのは激しい運動で、5分でハアハア言い始め10分で汗びっしょりになり、15分で、腰やら腕が痛くなり、顔をあげると、「まだこれっぽっち?」とガッカリするのである。

家にスムーズに出入りできるくらいの細い歩き道と駐車スペースをつくり終えると、もうグッタリしてしまう。
暖房を付けてもすぐには室温はあがらないけれど、雪かきのおかげで身体はほかほか。
そのうちにだんだん家が暖まってくる。
家が暖まると、屋根の雪がなだれ落ちてそれがまた山のようになる。
また雪かきである。

このくり返し。
日頃の運動不足が一気に解消してしまう。そう思えば雪かきも楽しくできる。
でも、健康でないとむずかしい・・

昔の人はじっと雪にうもれて春を待っていたのだろうか。
山に住む動物はみなとても元気そうだし、何と言ってもどんな動物も単独で行動している所がすごい。カラ類などの野鳥は混群をつくるが、別に協力し合って、という風でもない。
こんな寒いところで、その身のままで生きられるというのに感心してしまう。

年始めには、イノシシ(そんなに大きくなかったから多分、子供だろう)に出会った。
車の前にトコトコ出てきて、そのまま一生懸命、車の前を走って行った。イノシシを見たのは初めてだったけど可愛かった。

動物に会うのは何やら啓示的な気がしてしまうから不思議である。
今年もたくさん、野生動物を見ることができますように。

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言葉の価値の変化 [雑感]

安倍首相が靖国参拝というニュースがくり返しくり返し流れていた。
日中、日韓の関係悪化への懸念もさかんに報道される。
またか、という思い。

こういう報道を聞いても何も感じなくなってきた。
この人は靖国参拝をしたい人なのだからそれはどうにもならないことだ。
それにたいして中国や韓国が反発してもそれもどうにもならない。

安倍内閣を支持する人が5割もいるのだから、安倍首相の行動が間違っているだの何のいっても始まらない。
中国や韓国との関係悪化を心配する人もいるが、中国や韓国は嫌いだという人もたくさんいて、そう思う人たちをどうすることもできない。

政治家の顔をニュースで見るとうんざりするので、なるべくテレビを見ないようにしているが、悪い政治家(私から見て)がいるのは仕方がないことだと思うようになってきた。
一人の政治家が問題なのではなく、そういう政治家を支持する人たちが問題なのだと思うから。


この年は、これまでで一番ニュースやら世の中の流行やらを見ないようにしたが、そのせいで、いつもかなり時代に取り残されている感じがする。
まるで浦島太郎になったような・・。

今年の流行語候補30だか50だかを新聞で見たときも、知らない言葉がたくさんあり、聞いたことはあってもこれは流行語じゃないだろう?と思う言葉ばかり。
何が流行っているのか、それはどこで流行っているのか・・ほとんどわからないので、さすがに一瞬、これではまずいかな、と思ったほどだった。

でも実際のところ、こんな流行語(どれもすごく下品・・使いたくないです)を知らなくても、どうということはないのだ。
世間で何が流行っているか知らなくても、世の中が危ない方向へ向かっていることは感じる。

そしてまた、こういうばかげた言葉が流行っているのが世間だとしたら、世間というのは何と幼稚になってしまったのだろう・・と、そっちの方が気になる。
テレビの影響が大きいのだろうか、それとも雑誌だろうか・?


新聞を読むかぎり、ある流行を作り出すこととは無関係に見える。
ただし、「これが今年の流行語だ」と新聞に載せたりするから信用できない。
そういうものにすり寄って紙面に載せないと、部数が伸びない?
以前、AKBとかの国民投票なんて記事を<天下>の毎日新聞が扱っていたのに仰天した。なんかAKBを知っていることが当たり前という前提だった。
知らない人は人並みじゃないみたいな・・。

世の中、AKBニュースや流行語に対して、積極的に、またはすんなりと受け入れる人たちと、そういうものにまったく疎くてくだらないな〜と思うタイプの人たちと、興味はないけれど特に反発心も持たないでふ〜んと通りすぎてしまう人たち・・と3つのタイプがあるようだ。

そういえば、政治界のことでも芸能界のことでも、わりと下世話な裏話をけっこう知っている知人がいて、不思議に思ってその知識の出所を聞いたら、電車の中につり下がっている雑誌の広告だということだった。
私なんか、どぎつい見出しが目に入ったらもう見ないようにしてしまう方だけれど、そういうものを見ていると今何が話題になっているかが一応わかるらしい。
雑誌というのはけっこう影響力を持つもののようだ。

中国や韓国のことを悪く言う人がいて、「一体、そういう話(他国の悪い噂みたいなもの)をどこで仕入れてくるのか」と聞いたら、雑誌の知識だった。
一つの雑誌を鵜呑みにしないほうがいいよ、と言ったけれど、どっぷりはまっている感じだった。


私に言わせれば、今世間で何が話題になっているか、なんてどうでもいいことに思えるので、たまに、そういうことにくわしい人に聞いてすませている。
だから数ヶ月おくれの情報だったりする。

でも、今の時代は、現在ある情報が、次の別の情報にすぐに取って代わられてしまうので、情報というほどの意味もなくなってしまったようだ。

安倍首相靖国参拝のニュースがくり返し報道され、そしてこの人の口から出る「二度と戦争の惨禍があってはならない」とうもっともらしい言葉も同時に何度も流された。
平和を考えてくれている人なのか、と勘違いする人だっているだろう。


「本音と建て前」という言葉があるけれど、今の政治界はそんなものとっくに通り越して、もう「ウソと本当」の時代になっていて、いくらでもウソをついてもいいことになっているかに見える。
何を言っても許されてしまうのだから。
居直って「そういう意味ではありません」と言えばそれで終了。

もう言葉の価値が変容してしまったのだ。
逆に言うと、いくら大事なことを伝えようとしてもそれは伝わらない、ということにもなる。
言葉がフワフワしていては、その言葉を用いて何かを伝えたり議論したりということは、ほとんど不可能のように思えてくる。

情報過多と、言葉の意味がどんどん薄まっていること・・これが、とても危険なことだという気がしてならない。

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2013年の12月 [社会]

2013年も終わりつつある。
ここのところ12月がわびしい。
すべての人が心安らかに暮らしているわけではないのに、ボーナスだ、クリスマスだ、正月だ、と上っ面の華やかさを押しつけられるので、12月はわびしさが際だってしまう。


思えば7年前(2006年)の12月に、「教育基本法」が改定されてしまったのだった。
寒い中、国会周辺は連日大きなデモがあって、全国から集まった人々が懸命に改訂反対を訴えたが、強行採決された。
このときも安倍政権。

安倍政権が倒れ自民党政権が倒れ、やっと民主党という新政権が誕生したと思っていたが・・。
昨年12月6日に衆議院選挙で自民党が圧勝。
わずか3年足らずでまた自公政権にもどり、あろうことかまた安倍内閣になってしまった。きな臭い動きが強まった気がしていた。

そして今年の12月。
イヤな予想通り「特定秘密保護法」が成立してしまった。

安倍政権は、教育基本法を改悪したくらいだから、多数の後押しがあれば、この際やれることはどんなことでもやるだろうとは思っていた。
昨年12月の絶望感は、この予感だったのだからおどろきはない。

それにしても、安倍政権というのは何を目標にこういうことをやろうとしているのだろうか。政治家の考えていることというのが、私には突拍子もないもののように感じる。

国民が主人公であり、「政治には透明さが必要」ということが国民の声としてますます大きくなりつつあるこの時代に、「秘密保護法」などというものは、明らかに時代の流れに逆行するものだと、誰もが思うのではないだろうか。

教育基本法改定の時と状況がよく似ている。
国民からの要請もないのに、法を変える、法を作る。
法案を成立させるために、民主主義国として守るべきルールを平然と無視する。
教育基本法のときは「やらせミーティング」が大きな問題となった。

今回の秘密保護法でも、形ばかりの「公聴会」が問題となった。

さいたま市大宮区での公聴会は、前日になって突然開催が決まり、前日の午後10時に何の突然の前触れもなく意見陳述人に決まったという弁護士さんの話が新聞に載っていた。
傍聴席は、政党に割り当てられた傍聴券がないと入れず。
用意された50席も30席しか埋まらず、会場周辺にか大勢に市民が集まって法案に反対する声を上げていた。70代の女性が、午前の国会中継で公聴会開催を知り、県庁や参院に電話をして議員の事務所の連絡先を調べ、ようやく開催場所がわかったものの、会場に入ろうとすると「何党ですか」「党の紹介がない人は入れません」と言われたという。(毎日新聞)

これだけのシャットアウトぶりを聞いただけで、これは、よほど悪いことを決めようとしているのだ、という印象を持つ。
国会での、与党のめちゃくちゃな強引さは本当にあきれるほどひどいものだった。

民主主義という言葉には、国民一人一人が国権の主体であるという意味だと思うが、主体であるということは尊重されるという意味も付随しているものだ。
尊重どころか最低限の礼儀もなし、というのはどう考えても、民主主義国家とは言えないのではないだろうか。

なぜこの法案なのか、ということが一般国民には伝わらない。
わからないけれども、特に自分に被害がすぐに及ぶというものでもなさそう、政府が必要と思っているのだから、それなりに何かしらのメリットがあるのだろう、ぐらいで、深く考えずに受け入れていく人がほとんどなのではないだろうか。
一部の良心的な人たちが、いくらその「危険性」を訴えても、政府は平気でそんな声は無視できる。なんといってもこの政府を支持しているのがわりと多くの国民なので・・。手慣れたものである。


教育基本法が変えられてもう7年になるが、はたして教育内容に変化があったのだろうか。
仰々しく言葉を連ねた新教育基本法になっても、抽象的な言葉での変化なので、現場ではたいした違いはないだろう。(幸いなことに?)
ただし、数10年後にどうかといえば、それはわからない。

この間ある本で、ほんの40年前はまだ、パーソナルコンピューターという概念がほとんどなかった・・という文を読んだが、なるほどそういえばそうだった。
それを考えると、30年、40年という歳月は、何かを劇的に変えるのに十分な長さなのである。
私たちには30年後の社会を十分に予測することは難しいのである。
だから、近い将来、今の比較的平和に見える社会が根本的に崩れてしまう、ということも十分可能性があるということになる。

その第一歩になるのが、教育基本法改定であったり、特定秘密保護法案であったり・・ということはあり得るだろう。

目に見える危険性に対しては、人は十分に警戒心を持つことができる。
ところが、30年先に起こるかも知れない不測の事態に対しては、警戒心を持つことは難しい。そういうことを考えながら今を生きることは難しい。

戦後ずっと人の暮らしは、豊かに、そして便利になってきたので、「世の中というものは時が経てば経つほど自然に良くなっていくものだ」という漠然とした期待を人々は持っている。その楽観性が覆されるときは来るかも知れない。

実際、福島ではそういう楽観性は覆されたのだが、ある地域のこととしてほうむられていきそうな気配がある。沖縄がそうであるように。

多数は少数を踏みつけにして平気でいられるのだ、という政治のあり方や世相に、より寒さを感じてしまう12月である。

<覚え書きとして(毎日新聞より)>

『特定秘密保護法の重大な欠陥』

1,恣意的で膨大な秘密指定
2,チェック機能の不全
3,情報公開は政府任せ
4,国会の権利を行政が制限
5,国民の「知る権利」を阻害

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山の動物たち [環境・自然]

まだ秋ですが・・、
長野市の天気予報ではもう雪マークが。

山の中にいる、回りの環境に異変がないかどうか、とても気になる。
鳥は元気か、川のイワナは元気か?といつも気になってしまう。
いろんなことのバロメーターになる。
山の中では鳥(ゴジュウカラ、シジュウカラ、ヤマガラ、コガラ、ヒガラなど)、リスやイワナがけっこう親しい友人みたいに思えるので、気にかけるのが習慣になっている。

10月下旬に、そろそろ冬支度をしなきゃと思い、まず巣箱をはずした。
巣箱は3年も使っているのでさすがに傷みが目立ってきている。

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巣箱の一つに枯れ葉がこんもり入っていた。多分ヤマネ君が入ったのだろう。
この巣箱は屋根がひび割れていたので修理しないと。
直して使うか、新築にするか、ちょっと迷う。鳥も新しい方が好きなんじゃないかなぁ、と思ったりもする。

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この巣箱には卵が残っていた。

この巣箱のある場所は何がいけないのか、毎年不運続きだ。
一昨年は蛇が入ってしまった。
去年は追い払っても追い払っても猫が巣箱によじ登っていて、親鳥の姿を見かけなくなったので心配になり巣箱をのぞいてみたら、巣の中で親鳥が死んでいて、9個の卵が残っていた。
今年も猫に襲われたのだろうか。それとも巣箱を放棄したのだろうか。

木の回りに蛇よけを巻いたり、根元に猫よけの臭い薬を置いたりしたけれど、あの臭いを鳥がきらいだったら元も子もない。かなり強烈な臭いだから。

巣箱はどれもフンワリずしりと苔がきれいに敷き詰められていて、動物の茶色っぽい毛が敷いてある巣もある。あんなに苔を集めるのは大変だろう、と思うがいつの間にか巣作りをしているのがすごい。

去年、巣箱を冬の間もつけっぱなしにしておいたら、一つの巣箱の巣穴が大きくなっていた。どうもヤマゲラらしい。冬のねぐらにすることがあるそうだ。今年の春にカラ類用の穴の大きさに直しておいたが、冬も巣箱は利用されているみたいだ。


イワナは今年は小さいのが多かった。
小イワナがたくさんいるということはちゃんと産卵して無事に育っているということだから、それはそれでいいのだけれど、大イワナを見かけないのは淋しい。
釣られてしまったかと気にもなる。

秋になって川辺の草が枯れ始め見通しが良くなったので、ちょっと川沿いを歩いてイワナ探索をしたら、いつもいた場所から80mくらい上の淵にちゃんといた。
夏の間は草木が生い茂っているため、熊が怖くてあまり歩き回れなかった。

去年、長野市ではプラットホームにクマがいたとか、町中に出たとかのニュースが多かった。私も散歩中にすぐ近くの茂みでガオーッ、と吠え声を聞いて青くなったけれど。。。
今年はあまり熊についてのニュースは話題にのぼらなかった。

ところが私自身は8月に2回も間近でクマに出くわしてしまった。(幸い車の中だったけれど)
5mくらいしか離れていない所を横切っていた。一回目はピョンピョン、うさぎみたいに走っていて、一瞬「可愛い」と思ってしまった。黒くて丸々とした大きな頭、ぬいぐるみのようだった。
二回目もやはり5mくらいの近さで、このときはのんびり車の前を歩いて横切った。

近所の人は誰もクマを見たことはなく、私だけどうして2回も?と思う。
ともかく家の回りはクマが普通にいる場所だということがわかった。歩くときは見通しの悪い場所には近づかないようにした。
クマも人間は怖いはずで、いきなり鉢合わせするとパニックになり人を襲うこともあるのだろう。

それにしても二度目に見たときは車が近づいてものんびり歩いていて、クマも、こういう環境に慣れている、という風だった。
近所の人にクマのことを伝えたが、みんな「そうですか〜。やっぱりいるんですね。」とか「もともとクマが先に住んでいた場所だからね〜」と、いたって気楽な受け答えなのである。
<ちょっとちょっと、貴方の家の庭(というか畑)に入っていったんですよ〜!>

冬になればクマの心配はしなくてもいい、と一応思っている。ただし、何事も「絶対」はないので。

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秋の味覚 [雑感]

IMGP4283.jpg10月24日頃

夏の暑さや冬の寒さの厳しさなんてたいした問題じゃないな〜、と思わせるようなひどい世相。
「正義」という言葉がとっくにどこかに飛んで行ってしまい、悪いのが当たり前、悪いことを受け入れるのが大人の選択、というのが今の風潮で、「正しいこと」を見つけることはストップしてしまったような感じ。

そんなんで、秋の素晴らしさも心ゆくまで味わわずに通り過ぎてしまいそう。
それでも身の回りに目を向ければやはり秋はいい。

今年は10月に台風が多く、山の天気も安定しない感じで、たまの晴天はとても美しく感じられた。
台風による災害が日本各地を襲ったけれど、北信濃のこの辺りは平年より雨が少なく、川の水も少なく、きのこ類は不作だったらしい。

山栗もキノコも10月の中旬が旬で、20日すぎるともう遅すぎる。
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山栗が拾われずにたくさん落ちていてもったいなかった。試しにゆでてみたら、まだ美味しいのもあったが、半分くらいはもうだめだった。
栗の本場の小布施の人に聞いたら、今年は豊作だったらしい。


この秋は葡萄をたくさん食べた。今まであまり食べなくて損だったな〜という気がする。
巨峰は値段は高く大味、というイメージがあり、これまであまり食べなかったが、今年は美味しいと思った。
子供の頃は何と言ってもデラウエァが一番で、紫色やうす緑色の葡萄は見た目はきれいだけれど、味はサッパリだった。
今年は紫色の葡萄は美味しかった。特にスチューベンという種がとても甘くて気に入ってよく食べた。しかも山の直売所で買うと安い。

IMGP4270.jpgスチューベン

食べ物は、美味しくて安いことが大事で、安いと美味しさもよけい増すものだと思う。
というより、安くなければ美味しいと言われても私は買わないから。
同じ物が、都会のスーパーで倍くらいの値段売られていると、食べたくても買う気にならない。

リンゴなんかは長野にいるとどこに行ってもおすそわけでもらうので、珍しくもなく、食べようとも思わなくなっている。
たまに食べると、やはりリンゴの美味しいのにおどろくのだけれど。
どんどんいろんな品種ができているけれど、新しいものを食べてみるというのが面倒だ。もとから好きだった紅玉は自分で買ったりする。
一昨年あたりに、おすそわけでもらったシナノゴールドというのがとても美味しく、それも買うようになった。

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シナノゴールド(左)とシナノドルチェ(右)

昔、黄色いインドリンゴというのがあったけれど、とてもリンゴの味とは思えなかった。青リンゴと呼ばれていた夏の盛りに出回るリンゴもあった。小さくてすっぱくて固くて、夏のプールの行き帰りに歩きながら食べるのにちょうど良かった。
シナノゴールドは少し緑がかった黄色で、甘さと酸っぱさと身の堅さが理想的。シナノドルチェも同様に美味しい。リンゴの味もずいぶんと洗練されたものだ。こういうのは日本だけじゃないか?と思う。

リンゴは美味しいのにあまり食べないのは、一人で一個は大きすぎるから。
4分の1くらいで十分なので、あとは取って置かないとならない。
その点、柿はちょうどいい大きさで、出かけるときに持ち歩ける。ちょっとのどが渇いたり甘い物がほしくなったとに、丸かじりできる。
丸かじりしていたら、関東のある地域で、すごく珍しがられ、4,5人に「丸ごと食べるの?」と聞かれ、私の方がびっくりしてしまった。
「どこから採ってきたの?」なんて聞く若い人もいて、もしかして八百屋さんに柿が並んでいるのに気付かない?

果物は食べる習慣がないと食べずじまいだ。特に若い人はあまり食べない。
理由を考えてみると、果物を食べるには時間がかかるからじゃないか、と思う。
いつ食べたらいいか、なかなかいい時間が見つからない。
食後はお腹がいっぱいなのでそうは食べられないし。
おやつの時間なんていう優雅な時間を持てるのは小さな子供とお年寄りだけだ。
栗だの、ぶどうだの、リンゴだの、洗わなきゃならないし、皮をむいたりするのに時間がかかるし、咬むのにさえ時間がかかる。
食べることにも不真面目になってきている昨今なのだな〜、と感じる。



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忘れてはいけないこと [社会]

麻生副総理の「ナチスの手口に学べ」発言を知り、新聞が届かない場所にいたので、わざわざ8月1日の新聞を買いに行った。信濃毎日新聞だったが「斜面」には書いてあったけれどニュースとしては出ていない。
31日の毎日新聞には出ていなかった。では翌日だろうかと思ったが買い忘れた。
気になって、テレビでNHKのニュースをずっと追っていたが、何にも報道していない。民放では大きく取り上げていたけれど。1日の夜になってNHKでもやっとニュース報道されていた。メディアは報道を控えたのだろうか?

確かに聞いて困ってしまうような発言だ。
誰かが非常にまずい発言をしたとき、聞いた人は腹を立てるし、「それは問題発言である」と批判する。ところが、非常に非常にまずい発言(口にするのもはばかれるような発言)に出会うと、かえって言葉が出てこない。
誰から見ても非常識だとわかる問題については身内が責任を取らせるのが一番だ。(それとも身内はみな同じ姿勢?)身内がそしらぬ顔をしていたら、まわりが批判追求しなければならなくなり、それは大きな時間の浪費だ。
批判し合うことで何かが生まれてくるような場合なら、批判も役目を持っていると言えるが、「ナチスに学べ」では、どうにもならない・・。


民主党政権のとき、福島を「死の街だ」と言って辞めさせらた大臣がいた。悲惨な状況を伝えるのに「死の街だ」という表現はもっともわかりやすいと思うが、福島の人々を傷つけたという見方をされたのだろう。
「死の街だ」という言葉は福島を傷つけるのだろうか?と思う。
真実をオブラートでつつんで受け止めやすくしていたら、本当の復興はいつまでも進まないにちがいない。真実を述べるのに住民への配慮に欠けていた(と思われた)発言と、今回のような悪質発言と、どちらがひどいのか?


何かあまりにも大変な事が起きると、なんとなく批判を手控える力が働くような気がする。悪いとわかっているものをわざわざ「悪い」と批判すると、批判する方が攻撃されることがある。(正義をふりかざす人間はなぜか嫌われることが多い。)

福島原発事故が発生したとき、こんなときに原発を批判するのは・・というような雰囲気があったように記憶している。まだ批判のときではない、ある程度事故が収束してからだ、という考え方もあっただろう。
実際に、切羽詰まった状況の中にいて、「やはりそれは間違っていた」という主張を持ち出すのは時期として不適当かもしれない。何といってもその事故への対処が緊急になる。
かといって、何も言わずに見守っている、というのも間違っていると思う。
物事は刻々と変化していくし、人の考えが変化の方向を誘導していくのだから。
誰もが礼儀正しく(?)客観的な立場に立とうとして、何も言わなかったら、とんでもないことになるのではないか。

もし、近い将来に第二の福島事故が起きてしまったら、人はどうすべきなのだろうか。「やはり原発は永久排除すべきだった。すぐにそうしよう」ということは、しばらく言わないでいるのだろうか。
「いつまでも嘆いても仕方がない、過去は忘れて、前向きに進もう」という考え方がある。そういう考えのもと「原発事故は不運だった、これからはもっと安全に原発事業を進めよう」という風に原発は受け入れられていく。
いつまでも嘆くことは良くないのだろうか?
私には、ちゃんと嘆かないから、同じようなことが繰り返されるのだと思える。

戦争のことも、まだ嘆き足りなかったのか、という気がするほどだ。
今現在、「紛争が起きたら武力解決もやむを得ない」と思っている人達は、戦争というのが一日や二日で終わるものではなく、何年もあるいは何十年も生き地獄のような生活が続くことになるかもしれないということを考えていないのではないか。

そういう苦しみに思いをよせられない政治家が多い。麻生副総理の「ナチス発言」をテレビで見たら、そのときの聴衆がみな笑っていてぎょっとした。
あの発言をジョークとしてとらえる下地があればこその発言だろう。
あの演説は支離滅裂な感じがあるが、ナチスの手口を学んだらどうか、という一言は「そういう意味」しかない。

ところで、発言というのはいつから簡単に撤回できるようになったのだろう。
発言は撤回はできないのだ。命令は撤回することはある。その命令に不服従を示す人が多ければそういうことはある。また、勘違いや誤解を正す、ということもある。
しかし、その人が普段から思って口にした言葉を撤回はできない。
政治家が公の場でした発言が、謝罪だけではすまないのは、国を代表する立場にあるからだ。国を代表しているからこそ政治に関わることもできる。
代表者としてふさわしくない政治家は、辞めてもらうしかないのである。
静かに、これ以上「日本の名誉」(あえてこう表現するが)を汚さないように退場してもらいたい。


原爆症認定について、政府が積極的に認定を進める方針を表明する方向で調整している、とのニュースがあった。
爆心地から3.5キロ以内での被爆者や原爆投下から100時間以内に2キロ以内に入った入市被爆者のうち、がんや白血病になった場合は全員救済、入市被爆者について甲状腺機能低下症などの疾病も積極的に認定、など。
当たり前のことばかり。それなのにすでに戦後68年にもなってやっとである。
「苦しみは一生続く」という原爆被災者の言葉は、遠い昔の話ではなく、現実そのものなのである。
 
戦争が終わって68年も経つのに、今でも戦争の被害から救われずに置き去りにされている人々がいる、戦争とはそれほど酷い影響を人間社会に及ぼすものだ、ということを忘れてはならないと思う。
それを忘れるから、また新たな過ちを簡単に犯すようになる。
「ナチスの手口の学べ」など、血迷ったことを軽々しく言い放ち、それを回りで聞いた政治家たちが笑っている、などということが起きる。

どんなに悲惨な出来事でも、当事者でないかぎり、長い時間がたてばたつほど、忘れていくから、よくよく気をつける必要がある。
過去の悲惨な出来事は忘れてはいけないのだ。特に国の政治に携わる人間は、過去を忘れることは許されないと思う。

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参院選が終わって [雑感]

(ちょっと古い話題ですが)昨年12月にアイフォンに変えたら、パソコンの前に座ることがめっきり減ってしまいました。

携帯電話を買うのも人より遅かったし、持っていても身内以外には番号を教えなかったし、そのうち友人に「緊急のとき以外に電話しないでね」と念押しして番号を教え・・とどんどん進んできて、いまでは、メールが簡単にやりとりできる便利さにどっぷり浸かっています・・。

携帯メールを始めた頃のある日、妹や姪と外に食事に出かけ、料理を待つ間にちょっと用事のメールを送っていたら、他のみんなも携帯を出していっせいにメール(?)をしている・・長いな〜、何をそんなに書くことがあるのかな〜?と思っていたら、メールではなくゲームだと聞いて絶句・・。
思わず「それは、すご〜い時間の無駄遣いだね〜!」と言うと、みなちょっとビックリした顔をしていた・・。

物を調べるのにインターネットというのは大変便利で、こういうものが無かった時代というのをもう忘れかかっています。
ネットショッピングなんて怪しいものはとんでもない、と思っていましたが・・けっこう買いました。

アイフォンは、そのパソコンと携帯電話が一緒になっているので、もうパソコンはいらなくなってしまいました。

天気や路線を調べるとき、知らない言葉にぶつかったとき、コンサート情報を調べたいとき、持ち歩いていつでも調べられるというのは本当に便利で、おまけに、読書もできてしまう、音楽も聴ける・・という具合に何でもできてしまうので、これさえあれば、という感じ。(なかったときの事はすでに忘れかかっているのが怖い)

携帯電話を購入した頃、ある人が「落としたり無くしたりしていま一番困るのは財布ではなく携帯電話だ」と言うのを聞いて、不審に感じました。携帯が一番大事というのは一体どういう人か?・・電話やメールのやり取りが異常に多い人なんだろうか?・・と、なんだか自分とは違う人間、という気がしていました。

それが今では私自身、見事変わってしまって・・・。
人間なんて全くあきっぽく変わりやすいものだと、身を以て感じています。

そういうわけでパソコンに向かわないからブログも更新回数がどんどん減っています。

(今日は参院選の感想をごく短く)

選挙が終わってせいせいしている。
わかりきった結果だったため、失望感は衆院選のときよりは少なかった。
何よりも野党内部のゴタゴタやもたつき、やたらに行われていた世論調査の報道が、ぐんと少なくなったのですっきりした。

自民党が十分に勝ったので、今後は自民党がどういう政治をしていくのかだけを、じっくり見ていけばいい。おかしな事を始めたら、野党をあてにせず、国民が直接に抗議の声をあげていけばいい。

と、私が言ったら、そんなにうまく行くかな、おかしな方向に進んで行くスピードが速かったら・・?と、心配する人がいたけれど、そうなったらそうなったで仕方ない。
長らく続いてきた自民党政権が築いた世の中のいろんな深刻なほころびを、どう繕っていくのか、そもそも繕うことができるのか、を見ていくしかない。

福島復興はちゃんと進められるのか。
原発はどうするのか。
沖縄基地問題はどうするのか。
平和をどう守っていくのか。
国民みんなが安心して生活できる社会を作っていけるのか。

この5つが私の最大の関心事です。
ねじれ解消した与党は、大きな責任を持つことになりますね。

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